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残照の夏  作者: 麻白由良
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第六話:少年の咆哮

 京子の足音が遠ざかる。

 修は、京子から託されたその「重み」を腕の中で抱き直し、困惑を押し殺した。


「大丈夫かよ、京子さん。一人でさ……」


 改めて、自分の腕の中にいる「女児」へと視線を落とす。だが、そこにいたのは、あばら骨が浮き出るほどに痩せこけた、一匹の黒猫だった。猫は修を見上げ、喉の奥で「ゴロゴロ」と、不気味なほど人懐っこい音を立てている。


「……やっぱり、猫じゃねえか」


 察しのいい修は、京子が本気でこの猫を「迷子の女の子」だと信じ込み、愛おしそうに抱き上げていた姿を思い出し、胸の奥が締め付けられるような感覚に陥った。

 四年前の事故で夫だけでなく、生まれるはずだった我が子まで失った京子の心は、この不気味な宿の空気に当てられ、ついに臨界点を超えて壊れ始めてしまったのではないか。


「悪かったな、変な抱き方して」

 咄嗟に話を合わせたのは正解だったはずだ。これ以上、彼女を傷つけるわけにはいかない。修は猫に優しく語りかけながら、空いた手で作業道具の中から最も重いパイプレンチを握りしめた。水や食料、それに甘味のひとつでもあれば、京子も自分も少しは精神的に落ち着けるのではないか。修はそう考え、静まり返った食堂へと向かった。


 暗い廊下を歩くたび、至る所に置かれた赤いこけしたちが、闇の中からじっとこちらを窺っているような気がしてならない。


 修は息を殺し、ようやく台所へと辿り着いた。だが、そこで目にしたのは、生活の場としての温もりなど微塵もない異様な光景だった。調理台には、誰のものか分からない大量の衣服の切れ端と、サイズも種類も不揃いな靴が山のように積み上げられている。その山の頂点に、修は見覚えのあるものを見つけ、息が止まった。


 昨日、佐々木が着ていたのと全く同じ、擦り切れたチェックのシャツ。その傍らには、彼が大切そうに持っていた、行方不明の息子との写真が入った財布が、中身をぶちまけられた状態で転がっていた。


 「お帰りになりましたよ」という千代の言葉が、耳の奥で悍ましく反響する。


 さらに、山の下からは持ち主の指から無理やり引き抜かれたのか、ひっそりと「指輪」が転がっていた。そして、何よりも修の目を釘付けにしたのは、どす黒い血痕がこびりついたまま放置された、肉切り包丁だった。


「……っ」


 修の脳裏に自分たちがさっき口にした夕食。あの肉は、あの味は何だったのか。胃の底からせり上がる不快感を必死に抑え込んだ、その時だった。


 ――シュッ、シュッ。


 静まり返った夜の底から、硬い金属が石を削る、規則正しくも執拗な音が聞こえてきた。そのあまりに鮮明な音は、勝手口の向こう、闇に沈んだ庭のどこかから響いてくる。


 ――シュッ、シュッ……。


 修は心臓の鼓動が激しくなるのを感じながら、吸い寄せられるように勝手口へと歩み寄った。わずかに開いた戸の隙間に目を凝らし、外を覗き込む。


 月明かりに照らされた井戸の横。そこには、割烹着を真っ赤に染めた千代が、うずくまるようにして座り込んでいた。

 彼女は何かを熱に浮かされたように呟きながら、一心不乱に包丁を研いでいた。砥石の上で光る刃が、月光を鋭く撥ね返す。


「……今度の子はいいわ。十七の血は、きっと勝ちゃんを強くしてくれる……。すぐよ、すぐなんだから……」


 女は恍惚とした表情で、研ぎ澄まされた刃先を自分の指腹でそっとなぞった。プツリと指先から溢れた赤い鮮血を、彼女は愛おしそうに舐めとる。その光景は、我が子を想う慈しみなどではなく、飢えた獣が獲物を品定めするような、純粋で真っ黒な殺意そのものだった。


 修は全身を震わせ、今自分が踏み込んでいる場所が、もはや人間が住む世界ではないことを骨身に染みて悟った。

 この宿のものは、もう何一つ信じられない。だが、これからの逃走劇を考えれば、体力を維持するための「安全な」食料が必要だった。修は台所での物色を断念し、音を殺して帳場近くの土産コーナーへと移動した。


 暗闇の中、並べられた土産物の中からビニールで密封されたままの「羊羹」を見つけ出し、ひったくるようにして懐にねじ込む。未開封の既製品なら、あの狂った女将の手は入っていない。


 千代に発見されないうちに、修は足早に、かつ慎重に庭園へと引き返した。茂みに身を潜め、冷や汗を拭いながら京子の帰りを待つ。手にしたパイプレンチの冷たさだけが、辛うじて彼を現実へと繋ぎ止めていた。


 しかし、待てども京子が帰ってくる気配は一向にない。闇に沈んだ庭園でじっとしているうちに、数分が経ったのか、それとも数時間が過ぎたのか、時間の間隔が麻痺したころだった。


 静寂を裂くように、腕の中の猫が突然鋭く鳴き、修の腕をすり抜けて地に降りた。猫は振り返り、まるで行き先を示すように、尻尾を揺らして庭園の奥、あの「岩戸」の方へと走り出す。


「おい、待てよ!」


 修はそれを「虫の知らせ」と受け取った。レンチを握り直し、猫を追って月明かりに照らされた庭園を疾走する。


 辿り着いたのは、浴室からも見えていたあのしめ縄の巻かれた巨岩の前だった。チリン、と微かな鈴の音が耳を打つ。その音を頼りに岩の周囲を観察すると、巨岩の裏側に口を開けた、洞窟の入り口を見つけた。

 足元には、半分地面に埋もれた朽ちた看板が転がっている。掠れた文字をかろうじて読み取ると、そこには「寿楽荘防空壕」と書かれていた。戦時中の負の遺産が、そのまま宿の裏側に黒い口を開けているのだ。


 夏の夜特有の、むせ返るような草いきれと、どこか生臭い湿った風が穴の奥から吹き抜けてくる。周囲の蝉や虫の音は、まるでこの場所を避けるようにぴたりと止んでいた。修は喉を鳴らし、勇気を振り絞って洞窟内へと足を踏み入れた。


 内部は、湿った土と古い鉄の匂いが混じり合っていた。奥へ進むと、本道から左右にいくつもの隧道が枝分かれして掘られているのが見えた。各隧道の入り口は、分厚い木製の扉で固く塞がれている。


 表向きは宿泊客用の避難場所なのだろうが、その異様な気配に修は足を止めた。

 通り過ぎようとした扉の一つの奥から、「ガリ……ガリ……」と、乾いた木板を爪で必死に掻きむしる、猫のそれとは違う音が聞こえてきたのだ。


「……誰か、いるのか?」


 修が息を呑んで立ち止まると、音は不意に止み、代わりに「あ、あう……」という、言葉にならない弱々しい(すす)り泣きが漏れてきた。それは救いを求める声というより、もはや理性を失い、ただ死を待つ者の嗚咽のようだった。


 修は扉の隙間に目を凝らしたが、中は完全な暗黒で何も見えない。ただ、そこから漂ってくるのは、温泉の硫黄臭を塗りつぶすほどの、強烈な腐敗臭と排泄物の臭いだった。


「……う゛っ」


 自分たちも、一歩間違えればこの「檻」に入れられていたのだ。

 修はこみ上げる恐怖と嫌悪感を必死に抑え込み、扉の向こうの住人を置き去りにして、電球の灯る中央通路をさらに奥へと急いだ。


 やがて隧道は、防空壕としての役割を完全に逸脱した、異様な空間へと突き当たった。そこは「儀式の間」とも呼ぶべき広間だった。

 中央には禍々しい祭壇が設えられ、その周囲には無数の赤いこけしたちが、供物を待ち侘びるように暗がりから一斉にこちらを見つめている。


 修に特別な知識があるわけではなかった。それでも、目の前の光景を一目見ただけで、これが決して安易に祀ってはいけない類の、泥濘のような悪意から生まれた何かであることを直感した。

 祭壇には無数の動物の頭蓋骨が高く積み上げられ、その前に大量の肉塊が供物として捧げられていた。しかも、供物は継ぎ足し肉を重ねているようで、下段の肉ほど赤黒く変色し、異臭を放っていた。その山の中に、明らかに人間と思わしき部位を認めた瞬間、修の背筋を氷のような怖気が駆け抜けた。

 先ほど通り過ぎた扉の中の「何か」が、いずれこの祭壇に加えられるのだと悟り、修は歯の根が合わないほどに震えた。


 その時、洞窟のさらに深い闇の中から、「ズズ……ズズ……」と、大きな何かが湿った床を這いずるような音が近づいてきた。

 修は、背筋に走る凍りつくような悪寒を覚えた。


 ――熊か?


 千代が口にした「熊の出没」が脳裏をよぎる。この洞窟に漂う血肉の臭いや、むせ返るような腐臭に引き寄せられたのではないか。そう考え、修は手に持ったレンチを指が白くなるほど強く握りしめた。


 しかし、すぐにその考えを打ち消した。聞こえてくるのは、四つ足の獣が立てる爪音でも、荒い鼻息でもない。それは、湿った布を無理やり引きずるような、重苦しく、それでいて不自然に規則的な「這いずり音」だった。

 茂や千代の足音とも明らかに違う。人間が立てる音にしては、あまりにも重く、巨大すぎる。正体不明の「何か」が近づいている。その確信が、修の心臓を早鐘のように打ち鳴らした。


 修は咄嗟に岩陰に身を隠し、祈るように息を殺した。


 やがて、その異形が視界に現れた。産着を継ぎ接ぎした中から覗くのは、不揃いな複数の人間の手足だった。あるものは子供のように白く、あるものは老人のように枯れ、それらが一本の背骨に無理やり縫い付けられたかのように蠢いていた。


 一瞬、喉元まで出かかった叫びを、修は奥歯を噛み締めて必死に飲み込む。声を上げなかった自分を褒めてやりたかった。怪物の巨大な腕の中には、気を失った京子がぐったりと横たわっていたからだ。

 京子が怪物の手中にあるうちは、決して刺激してはいけない。修は自分にそう言い聞かせ、心臓の鼓動が漏れ聞こえないよう胸を強く押さえた。


 怪物は京子を祭壇の前へ、まるで丁寧に供え直すかのように降ろした。しばらくの間、まじまじと京子の顔を見つめていたが、ほどなくして再び大きな音を立てながら、闇の向こうへ姿を消した。


「京子さん……!」


 音が完全に遠のくのを待ち、修は岩陰から飛び出した。祭壇の前へ急いで駆け寄り、横たわる京子をその腕に抱き上げる。彼女の肌は冷たくなっていたが、微かに呼吸はある。修は迷うことなく洞窟の外へ通じる薄明かりの方へと彼女を運び、必死の思いで脱出した。


 洞窟を抜け、夜風の当たる日本庭園へと這い出したところで、修は闇の中から突きつけられた銃口に足を止めた。

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