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残照の夏  作者: 麻白由良
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第五話:昏い月、青い庭

 京子が目を覚ますと、そこは自分たちに宛がわれた二階の客室だった。

 部屋の中は、墨を流したような濃い闇に支配されている。修の姿はない。


 京子は震える手で壁を探り、照明のスイッチを何度も操作する。カチカチと乾いた音が虚しく響くだけで、電灯が灯る気配はない。

「修くん……?」

 絞り出すような声は、闇に吸い込まれるように消えた。


 おぼつかない足取りで窓際へ寄り、障子を僅かに開ける。


 窓の外を見た瞬間、京子は喉の奥で息を呑んだ。


 庭園を含めた宿全体が、青白い、病的なほど鮮烈な月光に隈なく照らし出されていた。瓦の一枚一枚から庭の飛び石に至るまでが、まるで銀細工のように鋭く光を撥ね返している。しかし、その光は敷地の境界線で残酷なまでに断絶していた。一歩外の森に目を向ければ、そこには月明かりさえも拒絶する、底なしの闇が凝固している。

 それはまるで、世界から切り離されたこの宿だけが、真っ暗な客席に囲まれた孤独な「演劇のステージ」として、夜の深淵に浮かび上がっているかのようだった。


 風の音も、あれほど喧しかった蝉の声も、一切聞こえない。肺を満たすのは、湿り気を帯びた古びた木の匂いと、生ぬるい夜の熱気だけ。

 不自然なほどの静寂が、かえって鼓膜を圧迫する。京子は、自分たちが今、観客のいない恐ろしい芝居の舞台に立たされているのだという予感に、指先を凍りつかせた。


 ドクン、ドクンと耳の裏で早鐘を打つ心臓の音が、やけに大きく響く。

 この閉塞感は、単なる思い込みなどではない。この宿そのものが、意志を持った巨大な檻として、彼女を飲み込もうとしていた。


 何かが、決定的に「おかしい」。

 全身を刺すような気配を感じながら、京子はその場から逃れるように、暗い廊下の奥へと足早に向かった。


 長く暗い廊下には、昼間見た土産物の独楽や絵馬が、闇に溶け込んで歪な影を落としている。そして、至る所に置かれた「赤いこけし」たちが、薄闇の中から一斉に自分を見つめているような錯覚に陥った。


 京子は、慎重に足を運ぶ。しかし、どれほど神経を尖らせて体重を預けても、古い床板は京子の存在を知らせるように「ギィ……ギィ……」と、鋭く高い悲鳴を上げた。

 その音が、誰もいないはずの闇の奥底まで波紋のように広がっていく。


 京子は唇を噛み、壁に手をついて身を屈めた。暗闇の中で、こけしたちの赤い目が自分の一挙一動を値踏みし、誰かに報告しているような、底知れない恐怖が背筋を駆け上がった。


 一階へ通じる階段付近まで来たとき、下の階を通り過ぎる影が、視界の端に引っかかった。

 踊り場から下を覗き込み、京子は息を呑んだ。


 女将の千代だ。

 千代は、右手で「何か」をぶら下げるように持ち、左手には鈍く光る血塗れの包丁を握っていた。その足取りは、まるで踊りでも踊っているかのように軽やかで、常軌を逸した不気味さを放っている。


「ふふ、ふふふ……」


 闇の向こうで漏れた乾いた笑い声が、廊下を伝って京子の鼓膜を撫でた。

 京子が柱の影から覗くと、廊下の突き当たり、月光が差し込む一角に千代が座り込んでいた。彼女は膝の上に「赤いこけし」を大切そうに抱き、まるでおむつを替えるかのような手つきで、汚れた布を丁寧に巻き直している。


「よしよし、勝ちゃん。もうすぐよ……。今度はね、とっても若い『身体』が手に入るわ。そうすれば、またお外で一緒に遊べるわね……」


 千代は、木の塊でしかないこけしの顔に、愛おしそうに何度も頬ずりをした。その目は慈しみに満ちているが、視線は虚空を彷徨い、瞳孔は異様に開いている。

 京子は、その「母親としての純粋な愛情」が、そのまま裏返って真っ黒な狂気へと変質している様を見て、声も出せずに口を塞いだ。


 逃げなければならない。そう思うのに、足が竦んで動かない。千代の狂気に満ちた背中を凝視したまま、京子は呼吸の仕方さえ忘れたように硬直していた。


 その時だった。死の世界のように静まり返った廊下に、チリン、と微かな「鈴の音」が聞こえた。


「……え?」


 足元に、人肌の柔らかな何かが触れた。京子が恐る恐る視線を落とすと、そこには四歳ほどの女児が(たたず)んでいた。色褪せた朱色の着物を纏い、潤んだ瞳でじっと京子を見上げている。午前中、廊下の隅で見かけ、茂に「そんな客はいない」と一蹴されたあの女児だ。

 あの時は幻かと思ったが、今は違う。女児は一言も発さず、京子の震える指を小さな手でぎゅっと握りしめた。その掌のあまりの小ささと、凍りついた世界の中でそこだけが生きているような、吸い付くような温もりに、京子の内に眠っていた母性が疼いた。

 この狂った女将や、得体の知れない影が蠢く宿の中で、この幼い命だけは守らなければならない。その一念が、竦んでいた彼女の足に力を与えた。


「大丈夫よ。……怖かったわね、私がついているから」


 京子は女児をそっと、壊れ物を扱うような手つきで優しく抱き上げた。女児の細い腕が京子の首に回される。その確かな重みを胸に感じながら、京子は女児を片腕でしっかりと抱き、再び宿の探索を開始した。軋む廊下を歩くたび、女児の着物に付いているのか、再び微かに鈴の音が闇に響いた。


「……まずは、修くんを探さないと」


 京子は女児を腕に抱き直すと、出口を求めて一階を彷徨った。まずは正面玄関へ向かい、力任せに引き戸を引く。しかし、鍵はかかっていないはずなのに、扉は岩のようにびくともしない。まるで、建物の外側を分厚い漆喰で塗り固められたかのような、異常な手応えだった。


「どうして……開かないの?」


 焦燥に駆られ、今度は廊下の窓を叩いた。だが、ガラス一枚隔てた向こう側の闇は、物理的な夜ではなく、何か得体の知れない「拒絶」そのもののように澱んでいる。どれだけ力を込めても、窓枠すらガタりとも鳴らない。この宿そのものが、意志を持って自分たちを閉じ込めている。そんな確信に近い恐怖が京子を襲った。


 逃げ場を失い、冷や汗を流しながら安全な場所を求めて彷徨った。逃げ場のない袋小路にある客室や、閉鎖的な狭い中庭であることは本能が拒んでいる。京子は、どこか開けた場所へ、そして願わくばこの禍々しい建物の外へという一心で、一階の奥へと急いだ。


 その時、腕の中の女児が小さな手を伸ばし、暗い廊下の先をじっと指差した。その先には、縁側の雨戸が一枚だけ開いている場所があった。


「……あっち? 外へ出られるの?」


 京子は女児の意思を汲み取るように、震える声で問いかけた。女児は答えなかったが、その小さな手のひらが、迷いの中にある京子の背中をそっと押しているような気がした。


 京子は女児に導かれるようにそこへ向かい、(すが)るような思いで外へ飛び出した。すると、そこには月明かりに青白く照らされた広大な日本庭園が広がっていた。


 それは、先刻まで客室の浴室から眺めていた庭園だ。

 湯船に浸かりながら幻想的だと思っていたその景色は、今や冷酷な檻の風景へと一変していた。夕暮れ時には微かに覗いていた山肌も、しめ縄が巻かれた巨岩も、今は不自然なほど明るい月光の下で浮き上がり、この世ならぬ静寂を保っている。


 京子は芝生を駆け抜け、敷地の外周を囲む低い生垣を越えようとしたその時、まるで行く手を阻む壁があるかのように足が止まった。物理的な抵抗があるわけではない。ただ、本能が「これ以上先へは進めない」と叫び、空間そのものがゴムのように自分を旅館側へ引き戻そうとするのだ。


 旅館の建物から出られないのではない。どうやら、この庭園をも含めた「旅館の敷地」そのものが、外界から完全に切り離されているのだ。正確な境界線は分からないが、ここから一歩も外へは行けない。


 その絶望的な孤立感を突きつけるような、病的に明るい月光の下。

 庭園の中央、浴室からも見えていた飛び石の近くに、こちらに背を向けて(たたず)む人影を見つけた。


「修くん! 良かった、無事で……」


 駆け寄る京子の声に、影がゆっくりと振り返る。

「京子さん! どこ行って……って、どうしたんだよ、それ」

 月光に縁取られた修の顔が、安堵と、それ以上に深い困惑が浮かぶ。

 駆け寄る京子の姿に、修は安堵したのも束の間、彼女が大事そうに抱えている女児を見て僅かに顔を強張らせた。その瞳に、言いようのない動揺が走る。


「修くん、この宿、何かがおかしいわ。建物だけじゃない、この庭の外にも出られないの。まるで世界にここだけが残されたみたいに……」

「……ああ、俺も出口を探してたんだ。どの戸も、まるで壁みたいに固まってやがる。……それより京子さん、あんたが抱えてるのは……」


 修は、京子の腕の中にある女児を指差し、言葉を濁した。京子は女児の背中を優しく撫でながら、切迫した声で告げる。


「この子、一人でいたの。迷子みたいで……。周りを探したけれど、ご両親も見当たらないのよ。修くん、お願い。この子を少し預かっていて。私はその間に電気を復旧させてくるわ。こんなに暗くちゃ、この子も怖がってしまうから」


 京子が女児を差し出すと、修は何かを言いかけ、喉の奥で言葉を飲み込んだ。彼は、京子の瞳に宿った強い意思に圧されるように、躊躇いながらも腕を伸ばした。その重みを受け取り、小さく頷く。


「……わかった。あんたこそ、気をつけて行けよ」

 修の心配をよそに、京子は立ち止まって振り返った。そして、不安を打ち消すように小さく、だが力強く頷いて応えた。


「大丈夫よ。すぐに戻るわ。……その子を、お願いね」


 月光に照らされた京子の横顔は、どこか取り憑かれたような一途な決意に満ちていた。修がそれ以上言葉を重ねる間もなく、彼女は意を決したように背を向け、影の濃い事務所裏の倉庫へと走り出した


 パタパタと遠ざかる足音が静寂に吸い込まれ、中庭には修と、彼が預かった女児だけが取り残された。




 再び重い扉を開け、油の匂いが立ち込める倉庫へと足を踏み入れた。

 明かりは一切なく、京子は手探りで慎重に一歩を踏み出す。入り口から差し込む僅かな月明かりだけを頼りに、壁際の配電盤へと向かった。ようやく辿り着き、慣れた手つきで蓋を開けて中を確認したが、驚いたことに回路に異常は見当たらない。昼間の修理は完璧で、ブレーカーが落ちているわけでもなかった。


 京子は一つの恐ろしい可能性に思い至った。もし宿が外界から物理的、あるいは霊的に隔絶されてしまったのだとすれば、当然、外からの送電も断たれているのではと。


 彼女はすぐさま、傍らにあるあの継ぎ接ぎだらけの自家発電機に目を向けた。茂が非常時を想定していたのか、発電機の出力端子と館内の配電盤は、レバーひとつで切り替えられるよう直結されていた。拡張された巨大なタンクには並々とガソリンが満たされており、燃料の心配はない。


 これなら動くはずだ。京子はチョークを引き、スターターの紐を力一杯引いた。一度、二度。三度目で、沈黙していた骨董品がド、ド、ドッ……と低い産声を上げ、倉庫内に凄まじい振動と排気ガスの匂いが広がった。


 京子が切り替えレバーを押し込み、倉庫の壁にあるスイッチを入れたその時だった。天井から吊るされた裸電球が、チカチカと何度か瞬いた後、力強い光を放って周囲を照らし出した。


 だが、その安堵は一瞬で凍りついた。


 背後の暗闇から、湿った、何か巨大なものが床を這いずる音が聞こえた。

 振り返った京子の目に映ったのは、人間の理屈では到底説明のつかない姿だった。肥大化した肉体、何重にも重なり合った皮膚。その表面には、あまりにも不釣り合いな、赤ん坊が着る「産着」の切れ端が、幾枚も継ぎ接ぎになって纏わりついていた。


 その異形が、光に目を細めるようにして京子の輪郭を捉えた。悲鳴を上げる間もなく、巨大な影が京子の視界を覆い尽くし、彼女の意識は深い闇へと沈んでいった。

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