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残照の夏  作者: 麻白由良
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第四話:疑惑の宿

 翌朝、京子が目覚めると、宿全体が昨日よりもさらに冷え込んでいるように感じられた。

 真夏のはずなのに、肺の奥に流れ込む空気は、蔵の中に閉じ込められていたかのようにひんやりと重い。


 朝食の広間に行くと、昨日いたはずの佐々木の姿がなかった。


「おはよう、京子さん。……あのさ、昨日の親父さん、いないんだ」

 修が小声で囁いた。

「朝飯の前にちょっと様子を見ようと思ったんだけどよ。部屋はもぬけの殻だった。あんなに息子さん探しに必死だったのにな」


 胸騒ぎを覚えた京子は、廊下を通った千代を呼び止めた。

「女将さん。昨日ご一緒した佐々木様は……?」

「ああ、あの方なら、夜明け前にお帰りになりましたよ。息子さんの居場所が分かったそうで。本当に、良かったわねぇ」

 千代は、昨日の佐々木の絶望など最初からなかったかのように、能面のような笑みを浮かべて答えた。


 千代が音もなく去った後、京子は声を潜めて修に尋ねた。

「……ねえ、修くん。昨日の夜、外で物音がしなかった? 私、茂さんが庭の祠を壊しているのを見たの。気づかなかった?」


 修は意外そうに眉を寄せ、首を振った。

「祠を壊す? いや、俺は全然。……でも、あんなに厳格そうな親父さんが?」


 自分の見た光景は、ただの夢だったのだろうか。だが、網膜には確かに、月光の下で鬼気迫る形相をして石を砕く茂の姿が焼き付いている。


 納得のいかないまま京子が顔を上げると、廊下の奥に、ふと誰かの視線を感じた。

 古い柱の陰から、一人の女児がこちらを覗いている。色()せた朱色の着物を着た、小さな女児だ。

「……迷子かしら」

 京子はそっと近づこうとした。しかし、女児は追いかける京子を誘うように、くるりと背を向けて角を曲がり、音もなく消えてしまった。


 ――チリン。


 その瞬間、耳の奥で、空気に溶けるような微かな鈴の音が鳴った気がした。

 空耳かと思うほど幽かな、けれど冷たく澄んだ音色。京子は思わず音を追う。


 曲がり角に辿り着いた時、そこにいたのは女児ではなく、帳簿を片手に歩いてくる茂だった。

 昨夜の事を思い出し、京子は身構えてしまう。


「あの、茂さん。いま、ここに女の子がいませんでしたか? 宿泊客のお子さんでしょうか」

「……子供?」

 茂は立ち止まり、鋭い視線を京子に向けた。その眼奥には、隠しきれない動揺と、拒絶の色が混じり合っている。


「そんな客はここにはおらん。用が済んだなら、さっさと荷物をまとめて山を降りろ。……長居して良い場所じゃねえと言ったはずだ」


 茂の声は低く、脅しを含んでいた。しかし、彼が指の間に挟んでいた煙草は、言葉とは裏腹に激しく小刻みに震えていた。

 あまりの震えに、灰がパラリと板張りの廊下にこぼれる。茂は危うく指から滑り落ちそうになった火種を、焦燥に駆られた様子で根元まで押し戻し、吸い殻を震える手で口にくわえる。


 彼は京子と目を合わせることすらできず、指先の震えを隠すように拳を固く握りしめると、逃げるように帳場の闇へと背を向けて立ち去った。


 陽光は窓から明るく差し込んでいる。しかし、寿楽荘の闇は、二人の足元まで確実に、そして音もなく這い寄っていた。




「……やっぱり、あそこだわ」

 京子は修を伴い、昨夜、客室の窓から見下ろした場所へと向かった。

 湿った土の上、飛び石が途切れたその先。確かにそこには、月明かりの下で茂が破壊していた祠があったはずだ。しかし、辿り着いた二人が目にしたのは、無惨な石の残骸ではなく、平らな地面だけだった。


「何もない……」

 京子は呆然(ぼうぜん)と立ち尽くした。昨夜の轟音、石が砕ける鈍い音。指先に残るようなあの生々しい感覚は、本当にただの夢だったというのか。


「京子さん。……確かに慣らされた跡はあるけど」

 修が地面を覗き込みながら言ったが、その声にもどこか不安が混じっている。京子は自分の正気を疑い始め、言葉を失った。


 昼食の時間、千代が二人を呼び止めた。その表情はいつになく険しく、不自然なほどに真剣だった。

「お二人とも、お聞きください。……どうやら近くに熊が出たようなのです。村からも警告が来ております。安全が確保されるまで、決して旅館の外には出ないでくださいね。命に関わりますから」


 千代の言葉に、京子の胸のざわつきは頂点に達した。熊。それが本当だとしても、この宿全体が自分たちを閉じ込めようとしているような錯覚に陥る。


「……女将さん。少し気分が優れないので、部屋で休ませていただきますね」

 京子は、千代の射貫くような視線から逃れるように目を伏せて告げた。彼女の脳裏にあるのは、得体の知れない女将への恐怖と、一刻も早くこの場から離れたいという本能的な拒絶だった。

 京子は隣に立つ修の袖をきつく握った。この少年だけが、今のこの異常な空間で唯一信用できる「現実」だった。

「修くん、悪いけれど、私の部屋まで付き添ってくれる? 一人だと、なんだか心細くて……」


 鍵のかかる密室で修と一緒にいられれば、少しは安全を保てるかもしれない。京子の切実な誘いに、千代は一瞬だけ目を細めた。その瞳の奥に、獲物を観察するような冷徹な光が宿ったのを、京子は見逃さなかった。


「ゆっくりお休みくださいな」

 千代は柔らかく微笑んだが、その笑みはやはり、能面に直接紅を引いたかのような不自然さを湛えていた。


 午後の時間は、静寂の中で過ぎていった。

 京子の部屋で、二人は押し黙ったまま窓の外を注視していた。やがて夕闇が迫る頃、庭園を横切る人影が見えた。

 猟銃を肩に担ぎ、厳しい表情で辺りを警戒する茂の姿だった。


「……本当に、熊が出るのかもしれないな」

 修がぽつりと零した。茂のその姿は、確かに何かを狩ろうとする猟師のそれだった。しかし、その「何か」が本当に四足の獣なのか、京子には判断がつかなかった。


 結局、熊を仕留めたという知らせもないまま、日は完全に落ちた。

 廊下を軋ませてやってきた千代が、二人の部屋に夕食の膳を運び入れる。


「今日は落ち着かない一日でしたね。精のつくものを召し上がって、ゆっくりお休みください」

 千代が置いた膳には、湯気を立てる煮物や、山菜の和え物が並んでいた。


 二人きりになり、緊張の糸が少しだけ解けた。

「……食べよう、修くん」

「そうだな。腹が減っちゃ戦もできねえし」

 修は無理に明るい声を出し、箸をつけた。京子もまた、言いようのない不安を押し殺すように、出された料理を口に運んだ。


 しかし、完食する前に異変が起きた。

 舌の先が痺れるような感覚。続いて、頭の芯が泥のように重くなっていく。

「修……くん……?」

 呼びかけようとした京子の視界が、急激に歪んだ。目の前の修も、持っていた箸を畳に落とし、上体をぐらりと揺らしている。


「あ……くそ……」

 修が這い上がろうとするが、力が入らずそのまま畳に突っ伏した。

 京子もまた、抗いがたい深い眠りの淵へと、背中から突き落とされるように意識を失った。


 遠のく意識の最後。

 廊下の隙間から、赤いこけしがこちらをじっと見つめているような気がした。

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