エピローグ 裏切りの季節を越えて、僕は本当の春を知る
桜の花びらが、アスファルトの上に薄紅色の絨毯を作っている。
四月の風はまだ少し冷たいが、そこには確かな春の匂いが混じっていた。
僕は新品のスーツに袖を通し、少しきつめのネクタイに指を通しながら、鏡の前に立った。
そこには、一年前のあの日──裏切りの証拠を集め、復讐を誓っていた頃の、暗く沈んだ目をした少年はもういなかった。
少し大人びて、そして何より、憑き物が落ちたように穏やかな表情をした青年が立っている。
「翔太、準備できた? 入学式、遅れるわよ」
階下から母さんの呼ぶ声が聞こえる。
声のトーンが明るい。あの一件以来、我が家にはしばらく重苦しい空気が漂っていたが、時が経つにつれて、また以前のような──いや、以前よりも風通しの良い明るさが戻ってきていた。
「うん、今行くよ」
僕は鞄を持ち、部屋を出る前に一度だけ振り返った。
机の上には、何も置かれていない。
かつてそこには、レナとのツーショット写真を飾ったフォトフレームがあった。
引き出しの奥には、彼女と交換していた手紙や、記念日のプレゼントが仕舞われていた。
それらは全て、先日の大掃除の際に処分した。
燃えるゴミの日に出した袋の中身は、僕の青春の一部だったけれど、不思議と未練はなかった。
むしろ、部屋の空間が広くなったことで、新しい空気が入り込んでくるような清々しさを感じていた。
「行ってきます」
誰もいない部屋に短く告げ、僕はドアを閉めた。
その音は、過去への決別を告げるピリオドのように、静かに、しかし力強く響いた。
***
東京にある国立大学のキャンパスは、想像していたよりも遥かに広大で、活気に満ちていた。
正門をくぐると、サークルの勧誘合戦が繰り広げられている。
色とりどりのビラ、拡声器の声、新入生たちの期待と不安が入り混じったざわめき。
その喧騒の中を歩きながら、僕は自分が「自由」であることを改めて実感していた。
高校時代の最後の一年は、正直に言えば針のむしろのような日々でもあった。
レナと黒木がいなくなった教室。
事情を知る者たちは、僕に対して過剰に気を使い、あるいは好奇の目を向けてきた。
「相沢、大丈夫か?」「辛かったな」と声をかけてくる友人もいれば、陰でコソコソと「あいつが全部バラしたらしいぜ」「怖えー」と噂する連中もいた。
だが、僕は逃げなかった。
堂々と学校に通い、勉強に励み、友人と談笑した。
僕が悪いことをしたわけではない。
裏切られた被害者が、なぜ縮こまって生きなければならないのか。
その毅然とした態度は、やがて周囲の雑音を黙らせた。
卒業式の頃には、僕は「被害者」というレッテルを超えて、ただの「相沢翔太」としてクラスに馴染んでいた。
「君、新入生? 文学部?」
突然、横から声をかけられた。
振り返ると、茶髪のショートカットが似合う、快活そうな先輩女子学生が立っていた。
手にはテニスサークルの看板を持っている。
「あ、はい。文学部の相沢です」
「やっぱり! 雰囲気落ち着いてるからそうだと思った。ねえ、テニス興味ない? 初心者大歓迎だよ!」
彼女の笑顔には、裏表がないように見えた。
かつての僕なら、ここで身構えてしまったかもしれない。
「この笑顔の裏で、何か企んでいるんじゃないか」「俺を利用しようとしているんじゃないか」と。
レナという存在が植え付けた人間不信の種は、そう簡単に消えるものではなかったからだ。
だが、今の僕は自然に微笑み返すことができた。
「ありがとうございます。でも、まだサークルは考え中で」
「そっかー、残念! でも気が向いたら見に来てね。あ、これビラ! 連絡先書いてあるから!」
彼女は強引にビラを押し付けると、「じゃあねー!」と手を振って次の新入生の元へ走っていった。
その屈託のない後ろ姿を見送りながら、僕は手元のビラを見た。
派手なフォントで書かれた『新入生歓迎コンパ開催!』の文字。
以前なら「くだらない」と切り捨てていたかもしれないその文字が、今はなんだか眩しく、愛おしいものに感じられた。
これが「普通」なのだ。
打算も、裏切りも、ドロドロとした愛憎もない、ただの若者たちの日常。
僕は、この「普通」の世界に、ようやく帰ってきたのだ。
講堂での入学式を終え、ガイダンスが行われる教室へと移動する。
広大な階段教室の隅の席を確保し、配られた資料に目を通していると、隣の席に誰かが座る気配がした。
「ここ、いいですか?」
控えめな声。顔を上げると、黒髪を耳にかけた大人しそうな女子学生が立っていた。
服装は地味だが、清潔感があり、緊張で少し強張った表情をしている。
「どうぞ」
「ありがとうございます。……あの、人すごかったですね、入学式」
「そうだね。ちょっと酔いそうなくらいだった」
「ふふ、私もです。地方から出てきたばかりなので、東京の人の多さにびっくりしちゃって」
彼女は少しはにかんで笑った。
その笑顔を見て、僕の胸の奥でチクリと痛むものがあった。
レナの笑顔に少し似ていたからではない。
「純粋そうな笑顔」というものが、かつて僕を地獄に突き落とした仮面と同じカテゴリーのものだったからだ。
トラウマというのは厄介だ。
頭では「この人はレナとは違う」と分かっていても、心が反射的に警報を鳴らしてしまう。
だが、僕は深呼吸をして、その警報を手動で解除した。
人を疑って生きるのは簡単だ。
でも、それでは一生、孤独な檻の中から出られない。
僕はレナに「信頼は積み木のようなものだ」と言った。
崩された積み木は元には戻らないが、新しい積み木を、別の人と一から積み上げることはできるはずだ。
そう信じたかった。
「僕はここの出身だけど、この大学の広さには迷いそうになるよ」
「えっ、地元の方なんですか? じゃあ、美味しいお店とか詳しいですか?」
「まあ、そこそこね。学食より安くて美味い定食屋なら知ってるよ」
「本当ですか! よかったら今度教えてください!」
他愛のない会話。
探り合いも、駆け引きもない、ただの会話。
それがこんなにも心地よいものだと、僕は忘れていたのかもしれない。
彼女の名前は佐藤さんといった。
連絡先を交換することもなく、「また次の講義で会えたら」と言って別れた。
その淡白な距離感が、今の僕にはちょうどよかった。
***
帰り道、僕は少し遠回りをして、大学近くの公園に立ち寄った。
ベンチに腰掛け、缶コーヒーを開ける。
夕暮れの空を見上げると、飛行機雲が一本、長く伸びていた。
ふと、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
取り出してみると、母さんからのLINEだった。
『入学式お疲れ様。今夜は翔太の好きなお寿司にしたから、早く帰っておいで。お父さんも早く帰るって』
添付されたスタンプは、妙にテンションの高い猫のキャラクター。
僕は思わず吹き出してしまった。
あの一ノ瀬家との一件以来、両親との絆は以前よりも深まった気がする。
父さんは、僕がレナの裏切りを告発した時、「よく一人で耐えたな」と抱きしめてくれた。
母さんは、「気づいてあげられなくてごめんね」と泣いてくれた。
彼らは「親公認」というプレッシャーが僕を追い詰めていたことを深く反省し、今は僕の意思を何よりも尊重してくれている。
一ノ瀬家とは完全に絶縁した。
風の噂では、一ノ瀬さんの会社は以前ほどの勢いがなくなり、剛志さんはすっかり老け込んでしまったらしい。
美恵子さんも引きこもりがちだという。
そしてレナは、まだあの山奥の寮にいるはずだ。
僕はスマホの画面をスワイプし、写真フォルダを開いた。
そこには、今日の入学式で撮った桜の写真や、高校の卒業式の写真が並んでいる。
さらに過去へ遡る。
一年前の日付。
そこには、証拠として撮影した「あの写真」たちはもうない。
全てデータをPCに移し、厳重にロックをかけて封印したからだ。
いつか何かのトラブルで必要になるかもしれないというリスク管理のためだけに残してあるが、僕の目に入ることは二度とない。
スマホの中にあるのは、僕のこれからの人生に必要なものだけだ。
「……髪留め、か」
ふと、そんな単語が口をついて出た。
レナと付き合っていた頃、僕は彼女の些細な変化に気づくことが得意だった。
髪型を変えたこと、新しい香水をつけたこと、ネイルの色を変えたこと。
それを指摘すると、レナは嬉しそうに笑った(今思えば、それは『チョロい』と嘲笑う笑顔だったのかもしれないが)。
僕は、自分の持つ「観察眼」や「細やかな気遣い」が、男としての女々しさなのではないかと悩んだ時期もあった。
そして、その観察眼があのような形で──浮気の証拠集めという、最も悲しい形で役立ってしまったことに、深く傷ついていた。
「君はよく気がつくね」
「翔太くんは優しいね」
そう言われるたびに、それが呪いのように聞こえた。
お前の優しさは、利用されるための隙だと言われているようで。
でも、今日のガイダンスで隣になった佐藤さんは、僕が落としたペンを拾った時、「ありがとう、優しいですね」と自然に言ってくれた。
サークルの先輩も、僕がビラを受け取っただけで「いい子だね!」と笑ってくれた。
優しさや気遣いは、使う相手さえ間違えなければ、決して無駄なものではない。
武器にもなるし、毒にもなる。
だけど本来は、人と人を繋ぐための温かい橋になるべきものなのだ。
僕は自分の手をじっと見つめた。
この手で、僕はレナを断罪した。
レナの家族を崩壊させ、黒木という男の未来を奪った。
その事実は消えない。僕は一生、その重みを背負って生きていく。
「ざまぁみろ」と思った瞬間もあった。スカッとした瞬間もあった。
だけど、その後に残ったのは、広大な虚無感と、静かな哀しみだった。
復讐は、終わった瞬間に過去になる。
いつまでもその勝利の美酒に酔っていても、前には進めない。
僕はもう、加害者への憎しみも、被害者としての憐憫も捨てよう。
ただの経験として、教訓として、心の奥底に沈めておこう。
缶コーヒーを飲み干し、ゴミ箱に捨てた。
カラン、と乾いた音がした。
「よし」
僕は立ち上がり、伸びをした。
スーツの背中が突っ張る感覚が、心地よい緊張感を与えてくれる。
これから始まる大学生活。
勉強もしたいし、バイトも始めたい。
サークルに入って馬鹿騒ぎをするのも悪くない。
そしていつか、本当に心から信頼できる誰かと出会い、恋をすることもあるだろう。
その時、僕はきっと、前の僕よりも少しだけ賢く、そして深く相手を愛せるはずだ。
痛みを知った人間だけが持てる、本当の優しさで。
駅に向かって歩き出す。
夕日が建物の影を長く伸ばしている。
その影法師は、一年前の僕のようにうつむいてはいなかった。
背筋を伸ばし、しっかりと前を見据えて歩いている。
ふと、通りの向こうで、高校生のカップルが手を繋いで歩いているのが見えた。
楽しそうに笑い合い、お互いしか見えていないような雰囲気。
かつての僕とレナも、あんな風に見えていたのだろうか。
「親公認の仲」というレッテルに守られ、永遠に続くと信じていた脆い城。
彼らに幸あれ、と心の中で呟く。
もし彼らが道を間違えそうになった時、誰かが止めてくれることを願う。
あるいは、傷つきながらも自分たちで答えを見つけることを。
僕にはもう関係のないことだが、世界中のどこかで、少しでも悲しい裏切りが減ればいいとは思う。
駅前の喧騒に紛れ込む。
サラリーマン、学生、主婦。無数の人々が行き交う交差点。
その中の一人として、僕は信号が変わるのを待った。
レナは今頃、消灯時間を待って冷たいベッドに入っている頃だろうか。
黒木は、監視員に怒鳴られながら机に向かっているだろうか。
彼らの不幸を願う気持ちは、もう湧いてこない。
ただ、二度と交わらない平行線の彼方で、彼らなりに罪を償い、更生してくれればいい。
僕の人生という物語から、彼らはもう退場したのだ。
信号が青に変わる。
僕は一歩を踏み出した。
その一歩は、とても軽く、そして力強かった。
僕の物語は、ここで終わりではない。
ここからが本当の始まりだ。
「被害者」の物語から、「相沢翔太」という一人の青年の、希望に満ちた物語へ。
雑踏の中、僕は誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
「さあ、帰ろう。美味しいお寿司が待ってる」
春の風が、僕の背中を優しく押した。
見上げた夜空には、一番星が静かに輝いていた。
それは、かつて詩織(幼馴染)の髪留めについていた星の飾りのように──いや、それよりもずっと確かに、僕の進むべき道を照らしてくれているように見えた。




