後日談 「娘をよろしく」と笑っていた私が、被害者の彼に土下座をした日 ~厳格な父が迎えた家庭崩壊の末路~
リビングの時計が、カチ、カチ、と無機質な音を刻んでいる。
その音がやけに大きく聞こえるのは、この家から「会話」というものが消えてしまったからだろう。
夕食のテーブルには、私と妻の美恵子、二人の分の食事だけが並んでいる。
かつてはここにもう一人、娘のレナが座っていた。
「今日、学校でこんなことがあったよ」と無邪気に話し、それを私が「そうかそうか」と聞き、美恵子が「あら、よかったわね」と相槌を打つ。
そんなありふれた、しかし幸福な団欒の風景は、もう二度と戻らない。
「……いただきます」
私が箸を手に取ると、美恵子も小さく「いただきます」と呟いた。
彼女はここ一ヶ月で急激に痩せた。目の下にはクマができ、かつての朗らかだった笑顔は見る影もない。
料理の味も変わった。以前のような手の込んだものではなく、ただ栄養を摂取するためだけの質素なもの。味付けも薄く、砂を噛んでいるような気分になる。
だが、文句を言う資格など私にはない。
この家庭を崩壊させた一因は、間違いなく「家長」である私にあるのだから。
レナの席を見る。
そこには何も置かれていない。
娘は今、ここにはいない。遠く離れた北関東の山奥にある、全寮制の女子高校にいる。
携帯電話の持ち込みも禁止、外出も制限され、厳しい規律と労働が課せられる更生施設のような学校だ。
私がそこに送ったのだ。自分の手で、愛する娘を。
箸を置く。食欲など湧くはずもない。
私は重い息を吐き出し、天井を見上げた。
脳裏に蘇るのは、あの日──すべてが終わった、あの食事会の夜の光景だ。
***
私は、自分の人生に自信を持っていた。
地元の名士として尊敬され、仕事も順調。家庭も円満だと思っていた。
特に一人娘のレナは自慢の種だった。
成績優秀で、容姿端麗。誰に紹介しても恥ずかしくない、自慢の娘。
そして、その娘のパートナーとして、幼馴染の相沢翔太くんがいた。
相沢家とは親同士も仲が良く、翔太くんは小さい頃から知っている。
真面目で誠実、成績もトップクラス。彼ならレナを幸せにしてくれると確信していたし、いずれは私の会社を継がせてもいいとすら思っていた。
あの日、翔太くんから「大切なお話がある」と食事会に招かれた時、私は浮かれていた。
ついにプロポーズか、あるいは具体的な将来の話か。
どんな話であれ、二人の未来を祝福する準備はできていた。
一番高いレストランを予約し、上機嫌でワインを傾けていた。
……なんて、愚かなピエロだったのだろう。
翔太くんが提示したのは、指輪ではなく、娘の裏切りの証拠だった。
テーブルに広げられた写真の数々。
知らない男と抱き合う娘。
私たちが「進路合宿」だと信じて送り出した日に、男の別荘で情事に耽っていた事実。
そして何より私の心を抉ったのは、娘が男と交わしていたLINEの内容だった。
『親がマジでうざい』
『あのパパ、翔太のこと盲信してるからチョロいもん』
『ATMとしては優秀だからキープしとく』
『あの親から生まれたとは思えないくらい、私って演技派だと思わない?』
文字を目で追うたびに、血管が切れそうなほどの怒りと、足元が崩れ落ちるような絶望が襲ってきた。
これは、本当に私の娘なのか?
私が「目に入れても痛くない」と可愛がり、厳しくも愛情を持って育ててきたレナなのか?
画面の中の彼女は、私を「チョロい」と嘲笑い、翔太くんを「ATM」と侮蔑する、醜悪な化け物だった。
「翔太くん……すまない」
あの時、私は彼に何と言っただろうか。
記憶が曖昧だ。あまりのショックで、脳が防衛本能を働かせたのかもしれない。
覚えているのは、翔太くんが深々と頭を下げていた姿だ。
「僕の力不足でした。彼女を正しい道に引き戻せませんでした」
被害者である彼が、加害者の親である私に謝罪している。
その姿が、私の心臓を雑巾のように絞り上げた。
違う。謝るべきはお前じゃない。
お前を裏切り、傷つけ、あまつさえ馬鹿にしていた娘と、それを増長させた私こそが、地面に額を擦り付けて詫びなければならないのだ。
私は娘を殴った。
生まれて初めて、女に手を上げた。
殴った手の痺れは、今でも残っている。
床に這いつくばって泣く娘を見て、可哀想だとは微塵も思わなかった。
ただただ、「恥ずかしい」と思った。
こんな怪物を育ててしまった自分が。
こんな怪物を、大切な親友の息子に押し付けようとしていた自分が。
恥ずかしくて、情けなくて、死んでしまいたかった。
***
食事会から帰宅した後、家の中は地獄だった。
レナは泣き叫び、許しを請うた。
「パパ、ごめんなさい! もうしないから! 黒木くんとは別れるから!」
だが、その言葉の軽さが、私の神経を逆なでした。
「もうしない」? 「別れる」?
そんな次元の話ではない。お前は、人としての一線を越えたのだ。
信頼という、一度壊れたら二度と戻らないものを、自らの手で粉々に砕いたのだ。
私はレナの部屋に入り、全ての私物を没収した。
スマホ、パソコン、ブランドの服やバッグ。
それらは全て、私が買い与えたものか、私が渡した小遣いで買ったものだ。
「親がうざい」「チョロい」と言い放った口で、私の金を使って着飾り、男に媚びていたのかと思うと、吐き気がした。
「これからは、自分の力で生きろ。私の金には指一本触れさせん」
私はレナに宣告した。
転校先を探すのには時間はかからなかった。
知人のツテを頼り、素行不良の生徒を更生させるための厳しい全寮制高校を見つけた。
携帯電話禁止、恋愛禁止、外出禁止。
朝は5時に起床し、掃除と洗濯。日中は勉強、放課後は農作業などの労働。
かつてのレナのような、温室育ちの「お嬢様」には耐え難い環境だろう。
だが、今の彼女にはそれが必要だった。
痛みを知らなければ、人は変われない。
転校が決まったことを告げると、レナは狂ったように暴れた。
「嫌だ! 行きたくない! 翔太に会わせて!」
翔太くんの名前が出た瞬間、私は再び娘の頬を叩きそうになるのを必死で堪えた。
まだ分からないのか。
お前に、彼の名前を呼ぶ資格などないということが。
私はレナを部屋に閉じ込め、鍵をかけた。
扉の向こうから聞こえる泣き声を聞きながら、私はリビングで一人、酒を煽った。
酔えなかった。
どれだけ飲んでも、翔太くんの悲しげな目と、LINEの残酷な文字が脳裏から離れなかった。
数日後、私は美恵子と共に、相沢家へ謝罪に向かった。
玄関先で出迎えてくれた相沢夫妻の顔を見て、私は言葉を失った。
彼らもまた、やつれていた。
当然だ。息子があんな裏切りを受けていたのだから。親としての心痛は計り知れないだろう。
私たちは畳の上で正座し、額を床につけた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
どんな言葉を並べても、陳腐な言い訳にしかならなかった。
娘の不貞。それを止められなかった親の責任。
相沢さんは、重い口調で言った。
「一ノ瀬さん。……残念ですが、縁談の話はなかったことにしてください」
「はい、もちろんです。合わせる顔もありません」
「それと、慰謝料については……受け取ります。それが、翔太のけじめですから」
金で解決できる問題ではないことは分かっている。
だが、金銭的な償いをすることでしか、誠意を示せない自分たちが惨めだった。
そして、翔太くんが現れた。
彼は以前と変わらない、礼儀正しい態度でそこにいた。
だが、その瞳には、かつて私に向けてくれていた親愛の情はなかった。
あるのは、どこまでも透明で、冷たい「無関心」だった。
「一ノ瀬さん、頭を上げてください」
彼に促され、私は顔を上げた。
彼の目を見ることが怖かった。
罵倒してくれれば、殴ってくれれば、まだ救われたかもしれない。
だが、彼は静かに告げた。
「レナさんのことは、もう許します」
その言葉を聞いた瞬間、私は安堵するどころか、背筋が凍る思いがした。
「許す」という言葉の響きが、あまりにも空虚だったからだ。
「ご両親に免じて、法的な措置はこれ以上とりません。……でも、僕の人生に彼女はもう必要ありません。二度と関わらせないでください」
それは、完全なる絶縁宣言だった。
怒りすら通り越した、絶対的な拒絶。
「君の娘は、僕にとって道端の石ころ以下になった」と、遠回しに言われているようだった。
私は何も言えなかった。
「分かった」と頷くのが精一杯だった。
帰り道、車の中で美恵子が泣き出した。
「あんなにいい子だったのに……翔太くん、私たちのことまで嫌いになっちゃったのかしら」
「当たり前だ」
私はハンドルを握りしめながら答えた。
「あの子は、私たちも含めて『一ノ瀬家』という存在に絶望したんだ。もう二度と、昔のような関係には戻れない」
親友だった相沢さんとの関係も、これでおしまいだ。
表面上の付き合いは残るかもしれないが、心の距離は埋まらない。
私の娘が、その橋を燃やしてしまったのだから。
***
レナを送り出した日。
彼女は最後まで抵抗し、最後には抜け殻のようになった。
車に乗せられ、遠ざかっていく娘の背中を見送りながら、私は心の中で詫びた。
(すまない、レナ。甘やかして育てた私が悪かったんだ。お前を怪物にしたのは、私だ)
それから数ヶ月。
家の中は静まり返っている。
時折、学校から手紙が届く。
検閲済みの手紙には、模範的な反省の言葉が並んでいる。
『お父さん、お母さん、元気ですか。私は毎日、規則正しい生活を送っています。自分のしたことを深く反省しています。翔太くんにも申し訳ないことをしたと思っています』
綺麗な字で書かれたその手紙を読むたびに、私は虚しさを感じる。
これは本心なのだろうか。それとも、早くここから出たいがための「演技」なのだろうか。
あのLINEを見た後では、娘の言葉を素直に信じることができない。
「私って演技派だと思わない?」という言葉が、呪いのように付きまとう。
昨夜、夢を見た。
レナと翔太くんが結婚式を挙げている夢だ。
純白のドレスを着たレナは美しく、タキシード姿の翔太くんは凛々しい。
二人は幸せそうに笑い合い、私たちに花束を渡してくれる。
「お父さん、ありがとう」
そう言って微笑むレナ。
私は涙を流して喜んでいる。
目が覚めた時、枕が濡れていた。
それは永遠に叶わない夢だ。
パラレルワールドには存在したかもしれない未来。
だが、この現実世界では、私が自ら踏み潰してしまった未来だ。
美恵子が、食器を片付けながらポツリと言った。
「ねえ、あなた。翔太くん、大学の推薦が決まったそうよ。風の噂で聞いたわ」
「……そうか」
「東京の国立大学だって。やっぱり優秀ね、あの子は」
「ああ、そうだな」
翔太くんは、私たちのいない場所で、順調に人生を歩んでいる。
レナという重荷を下ろし、身軽になって、高く羽ばたこうとしている。
彼にとって、一ノ瀬レナとの過去は、人生の汚点であり、早く忘れたい記憶でしかないだろう。
もし、レナが浮気をしなかったら。
もし、私がもっと娘の内面を見ていたら。
今頃、私たちは「合格祝い」と称して、またあのレストランで乾杯していたかもしれない。
「よかったな、翔太くん。レナも東京の大学に行かせるから、向こうでも仲良くしてやってくれ」
そんな会話を交わしていたかもしれない。
だが、現実は残酷だ。
レナは山奥で泥にまみれ、私たちは広い家の中で孤独に震えている。
失った信頼は戻らない。壊れた関係は修復できない。
その当たり前の事実が、ボディブローのようにじわじわと効いてくる。
「あなた、レナの部屋……どうしましょうか」
美恵子が尋ねてきた。
娘がいなくなってから、あの部屋は手つかずのままだ。
「……そのままでいい。いつか、あいつが罪を償って、まともな人間になって帰ってきた時のために」
私はそう答えたが、それがいつになるのか、果たしてそんな日が来るのかは分からない。
学校を卒業しても、私は彼女を家に戻すつもりはない。
親戚の工場で働かせ、自立させるつもりだ。
甘えを許せば、彼女はまた同じ過ちを繰り返すだろう。
心を鬼にして、突き放し続けること。
それが、親としてできる最後の教育であり、翔太くんへのせめてもの贖罪なのだ。
私は立ち上がり、仏壇に向かった。
そこには私の両親の写真がある。
「親父、お袋。すまない。孫娘を、まともに育てられなかった」
線香をあげ、手を合わせる。
煙が揺らめき、天井へと消えていく。
私の老後は、孤独なものになるだろう。
孫の顔を見ることもないかもしれない。
娘に恨まれながら、死んでいくのかもしれない。
それでも、私はこの家を守り、生きていかなければならない。
自分の撒いた種を、自分で刈り取るために。
リビングの窓から、外を見る。
隣の相沢家の明かりが見える。
あそこには、温かい家族の団欒があるのだろう。
かつては私たちも、その輪の中にいた。
だが今は、厚いガラス一枚隔てた向こう側の世界だ。
あまりにも近く、そして永遠に届かない、幸せな光。
私はカーテンを閉めた。
暗くなった部屋の中で、時計の音だけが響き続けている。
カチ、カチ、カチ……。
それはまるで、私に残された時間をカウントダウンしているかのようだった。




