サイドストーリー 「真面目な彼氏」を笑っていた俺が、社会的に抹殺されるまでの全記録
人生というのは、つくづく不公平にできていると思う。
俺、黒木大輔にとって、この世の中は「イージーモード」のゲームみたいなものだった。
親父は地元でも有名な不動産会社の社長で、金に困ったことは一度もない。
欲しいスニーカーがあれば翌日には手元にあるし、最新のバイクだって「通学に必要だ」と適当な理由をつければ買ってもらえる。
学校の成績はそこそこだが、教師たちは親父の寄付金のおかげで俺の素行不良に目をつぶる。
そして、女。
少し強引に押して、ブランド物のプレゼントをちらつかせれば、大抵の女は俺の言うことを聞く。
真面目ぶっている優等生も、ギャルも、結局はみんな「刺激」と「金」に弱い。
「大輔くん、すごい……こんな高いお店、初めて」
「だろ? 俺といれば、もっといい思いさせてやるよ」
そんな風に、俺は自分の欲望のままに生きてきた。
罪悪感? そんなものはない。
奪われる方が悪い。騙される方が間抜けなのだ。
それが、俺の哲学だった。
あの日、一ノ瀬レナという極上の獲物を見つけるまでは。
***
一ノ瀬レナは、クラスでも一際目立つ存在だった。
サラサラの黒髪、清楚な顔立ち、そして成績優秀な優等生。
おまけに、家柄もしっかりしていて、親同士が決めた「許嫁」みたいな幼馴染がいるという。
その幼馴染というのが、相沢翔太だ。
あいつは俺が大嫌いなタイプの人間だ。
いつも背筋を伸ばし、教師の言うことを聞き、無難で退屈な正論を吐く。
感情を表に出さず、何を考えているのか分からない能面のような男。
そんなつまらない男が、レナのような極上の女を独占していることが、俺には許せなかった。
「ねえ、レナちゃん。あんなガリ勉のどこがいいの?」
「やめてよ黒木くん。翔太は優しくていい人なんだから」
最初は拒絶された。だが、俺は知っている。
「いい人」というのは、「どうでもいい人」の裏返しだ。
厳格な家庭で抑圧されているレナの目には、隠しきれない「退屈」の色が浮かんでいた。
俺はそこを突いた。
少し強引に誘い、親や学校の愚痴を聞いてやり、翔太が絶対に連れて行かないような繁華街のカラオケや、夜のドライブに連れ出した。
結果はあっという間だった。
「真面目な優等生」の仮面の下には、誰よりも淫乱で、刺激に飢えた女の顔が隠されていたのだ。
「翔太には、こんなことされたことない……」
「あいつはお子ちゃまだからな。俺が大人の遊びを教えてやるよ」
レナを抱く時の征服感は格別だった。
単に可愛い女を抱く以上の快感。
それは、あのすました顔の相沢翔太が大切にしている「宝物」を、泥足で踏み荒らす快感だった。
あいつが必死に勉強している間に、俺はあいつの彼女とベッドの中にいる。
あいつが将来のために積み上げている「信頼」なんてものを、俺は一瞬で破壊している。
その事実が、俺に万能感を与えてくれた。
俺は勝者だ。相沢翔太は、俺の人生を彩るための哀れな道化に過ぎない。
***
ある日の放課後。
俺は廊下で相沢とすれ違った。
あいつはいつも通りの無表情で歩いていた。
俺の顔を見ても、眉一つ動かさない。
それが無性に腹が立った。
お前の彼女、昨日は俺の下で泣いてたんだぜ?
お前が知らないレナの声を、俺は全部知ってるんだぜ?
そう叫んでやりたい衝動を抑え、俺はあいつに絡んだ。
「よお、相沢。お勉強は捗ってるか?」
「ああ、おかげさまでね」
「ふーん。まあ、頑張れよ。一ノ瀬もお前のこと『真面目すぎて心配』って言ってたぜ?」
挑発してやった。
レナとの繋がりを匂わせて、あいつの焦る顔が見たかった。
だが、相沢は動じなかった。
それどころか、俺の目をじっと見つめ返してきやがった。
その目は、俺が今まで見たことのないような、深く、冷たく、底知れない光を宿していた。
「黒木こそ、最近は忙しそうだな」
「ん? まあなー。俺、人気者だからさ」
俺はヘラヘラと笑って誤魔化したが、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
なんだ、今の目は。
獲物を見るような、あるいはゴミを見るような目。
一瞬だけ、俺は「蛇に睨まれた蛙」になったような気分を味わった。
だが、すぐに気を取り直した。
まさかバレているはずがない。レナの演技は完璧だし、俺たちのアリバイ工作も抜かりはない。
相沢ごときに、俺たちの関係が見抜けるはずがないのだ。
あいつはただのガリ勉だ。俺とは住む世界が違う、弱い生き物なのだから。
***
俺たちの関係はエスカレートしていった。
スリルがあればあるほど、レナは燃え上がった。
そして決定打となったのが、あの「進路合宿」という名目の不倫旅行だ。
場所は親父が所有している避暑地の別荘。
普段は誰も使っていないから、誰に見られる心配もない。
俺たちはそこで、二泊三日の間、獣のように貪り合った。
「ねえ大輔、これ見て」
ベッドの上で、レナがスマホを見せてきた。
画面には、相沢からのLINEが表示されている。
『合宿、頑張ってね。応援してるよ』
あまりの間抜けさに、俺たちは顔を見合わせて爆笑した。
「マジでチョロいな、こいつ!」
「でしょ? 翔太ってば、私の言うことなら何でも信じちゃうんだから」
「傑作だわ。お前、こいつと結婚すんの?」
「うーん、お財布としては優秀だからね。でも、刺激がないからなぁ」
「悪女だなーw」
俺たちは相沢を肴に酒を飲んだ。
最高に美味い酒だった。
真面目に生きている奴が馬鹿を見る。
要領よく、嘘をついて、楽しんだもん勝ち。
それがこの世界の真理だと思っていた。
この別荘の外に、冷徹なカメラのレンズが向けられているとも知らずに。
***
破滅の足音は、唐突に、そして暴力的にやってきた。
あの日曜日の夜、俺はレナからの連絡を待っていた。
「食事会を早めに抜け出して、そっちに行くね」という約束だった。
だが、待てど暮らせどレナは来ない。
LINEを送っても既読がつかない。電話をかけても繋がらない。
「なんだよ、親父さんに捕まったか?」
俺は舌打ちをして、スマホを放り投げた。
まあいい。レナが来ないなら、他の女を呼べばいいだけだ。
俺は軽く考えていた。
まさか、その時すでにレナの家庭が地獄絵図になっていて、その業火が俺にも迫っているとは夢にも思わずに。
翌日、学校に行くと妙な視線を感じた。
いつも俺を取り巻いている連中が、遠巻きに俺を見ている。
ヒソヒソと話す声が聞こえる。
「……おい、マジかよ」
「相沢が……」
「写真が……」
なんだ? 何の話だ?
俺は不快感を露わにして教室に入った。
相沢の席を見る。あいつはまだ来ていない。
レナの席も空席だ。
嫌な予感がした。胸の奥がざわざわとする。
放課後、俺は担任に呼び出された。
「黒木、ちょっと来い」
その声のトーンが、いつもの「またお前か」という呆れたものではなく、腫れ物に触るような、それでいて侮蔑を含んだものだったことに、俺は気づくべきだった。
だが、俺はまだ強気だった。
「なんだよセンコー、また髪の色か?」
ポケットに手を突っ込んだまま職員室に向かう。
しかし、俺が連れて行かれたのは職員室ではなく、校長室だった。
そこには、青ざめた顔の担任と、校長、そして見たこともないほど激怒した形相の、俺の親父がいた。
「……親父?」
状況が理解できない。
親父は仕事で忙しいはずだ。こんな平日の昼間に学校にいるなんてありえない。
俺が声をかけるより早く、親父が大股で歩み寄ってきた。
そして、無言のまま拳を振り上げた。
ドゴォッ!!
強烈な衝撃が頬に走り、俺は床に吹っ飛んだ。
口の中が切れ、鉄の味が広がる。
何が起きた? 殴られた? この俺が?
「お、親父、何すんだよ!」
「黙れ! この恥晒しが!!」
親父の怒鳴り声が校長室の窓ガラスを震わせた。
普段は俺に甘い、文句も言わない親父が、鬼のような顔で俺を見下ろしている。
その手には、一通の内容証明郵便が握られていた。
「これを見ろ! 貴様、何をしたか分かっているのか!!」
投げつけられた書類を拾い上げる。
そこには『通知書』という文字と、弁護士の名前。
そして、請求人の名前には『相沢 翔太』と記されていた。
震える手で中身を読む。
不貞行為の事実。精神的苦痛に対する慰謝料請求。
そして、同封されていた写真のコピー。
あの日、別荘の前でレナとキスしている俺たちの姿が、鮮明に写っていた。
「な……なん、だこれ……」
「相沢家から送られてきたんだよ! 弁護士を通じてな! しかも、これだけの証拠を揃えられて、言い逃れができると思うか!!」
親父は俺の胸ぐらを掴み上げた。
「相手はあの一ノ瀬さんの娘さんだぞ! 地元の有力者同士、顔見知りだ! 私がどれだけ苦労して築いてきた人脈だと思っている! それをお前は、下半身の緩み一つで台無しにしやがって!」
親父が怒っている理由は、俺の倫理観ではない。
「世間体」と「ビジネスへの悪影響」だ。
俺が人様の婚約者を寝取ったこと自体よりも、それが露見し、親父の顔に泥を塗ったことが許せないのだ。
「慰謝料は払ってやる。手切れ金だ。だがな大輔、お前にはもうこの家を継がせるわけにはいかん」
親父の声が、怒りから冷徹な宣告へと変わった。
「即刻、退学手続きを取る。そして明日から、北の更生施設へ行け」
「は……? 退学? 更生施設って……」
「全寮制の厳しい学校だ。スマホもバイクも禁止。朝から晩まで勉学と勤労奉仕をさせられる場所だ。そこで根性を叩き直してこい。……いや、もう帰ってこなくてもいい」
親父は俺をゴミのように突き放した。
「俺は忙しい。あとは先生と話せ」
そう言って、親父は一度も俺を振り返らずに部屋を出て行った。
残されたのは、腫れた頬を押さえて呆然とする俺と、冷ややかな目の教師たちだけだった。
***
そこからの転落は早かった。
俺は家に帰ることも許されず、その日のうちに荷物をまとめさせられた。
自慢のバイクは没収され、おそらく売り払われたのだろう。
スマホも解約された。レナに連絡を取ろうとしたが、担任に取り上げられて叶わなかった。
俺の部屋にあったブランドの服も、ゲームも、全て置いていく羽目になった。
手元に残ったのは、最低限の着替えが入ったボストンバッグ一つだけ。
翌日、俺は一人で電車に乗せられた。
向かう先は、山奥にある全寮制の高校。
噂では聞いたことがあった。問題児や引きこもり、少年院上がりの連中が集められる、現代の収容所のような場所だと。
窓の外を流れる景色が、華やかな都会から、何も無い田舎の風景へと変わっていく。
俺の人生が、色を失っていくようだった。
電車のシートに揺られながら、俺はあの日、相沢翔太が見せた目を思い出した。
あの冷たい、爬虫類のような目。
あいつは知っていたのだ。
俺がレナと遊んでいることも、俺が内心であいつを馬鹿にしていることも。
全てを知った上で、泳がせていたのだ。
俺が得意気になって「勝った」と思っていた時間は、あいつにとっては「証拠集めの時間」でしかなかった。
「……クソッ」
悔しさが込み上げてくる。
俺はあいつに、一度も殴られていない。
罵倒さえされていない。
あいつはただ、淡々と事実を突きつけ、法的な手続きを踏んだだけだ。
それだけで、俺の人生は完全に破壊された。
暴力よりも、権力よりも恐ろしい、「正しさ」という名の武器で。
俺は相沢を「退屈な男」だと嘲笑っていた。
だが、本当に間抜けだったのはどっちだ?
親の金と威光を自分の力だと勘違いし、何の防備もなく敵の陣地で踊っていた俺の方じゃないか。
「ざまぁみろ、ってか……」
自嘲気味に呟いた言葉が、ガタンゴトンという走行音にかき消される。
俺はレナのことも考えた。
あいつも今頃、地獄を見ているのだろうか。
「翔太はチョロい」と笑っていたあの時の笑顔は、もう二度と戻らない。
俺たちは共犯者だった。
そして今は、共に断罪された受刑者だ。
電車が目的地の駅に到着した。
ホームに降り立つと、ひんやりとした風が吹き抜けた。
駅前には何もない。コンビニすらない。
迎えに来たのは、厳つい顔をした寮監の男と、鉄格子がついたような送迎バスだけだった。
「黒木大輔か。顔つきがなっとらん。今日からお前のその腐った根性を叩き直してやる」
男の言葉に、俺は反論する気力さえなかった。
ただ無言でバスに乗り込む。
バスが動き出し、山道へと入っていく。
揺れる車内で、俺はポケットを探った。
いつもの癖でスマホを取り出そうとしたが、そこにはもう何もない。
SNSも、ゲームも、レナとのLINEも。
俺のアイデンティティだった「金持ちでイケてる黒木大輔」は、この山道に入る手前で死んだのだ。
窓の外を見上げると、空は皮肉なほど綺麗に晴れていた。
遠くの空の下で、相沢翔太は今頃、静かに本でも読んでいるのだろうか。
邪魔者だった俺とレナを排除し、清々しい顔で新しい日常を送っているのだろうか。
そう想像すると、胸の奥が焼けつくように痛んだ。
俺はあいつに負けたんじゃない。
戦う土俵にすら立てていなかったのだ。
最初から、勝負にすらなっていなかった。
バスが重い音を立てて鉄の門をくぐる。
その音が、俺の自由な人生が終わる合図のように聞こえた。
俺は深くシートに沈み込み、目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、別荘で笑い合っていた俺たちの愚かな姿と、それを見下ろす相沢の冷徹な瞳だけだった。
これから始まる長い贖罪の日々。
俺はそこで、一生かけて自分の愚かさを噛み締めることになるのだろう。
「イージーモード」のゲームは、ゲームオーバーの画面すら出ずに、唐突に電源を切られたのだ。




