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サイドストーリー 優等生の仮面の下で、私は彼を嘲笑っていた

鏡の中に映る私は、今日も完璧だった。

サラサラに手入れされた黒髪、少しだけ血色を良く見せるための薄いリップ、そして一分の隙もない制服の着こなし。

どこからどう見ても、厳格な家庭で育てられた「清く正しい女子高生」そのものだ。


「レナ、ハンカチは持った?」

「うん、持ったよお母さん。行ってきます」


玄関で母に見送られ、私は笑顔で手を振る。

重たい木の扉が閉まった瞬間、私は小さく息を吐き、口角を少しだけ歪めた。

(ちょろいもんだわ)

私の両親は厳しい。門限は早いし、スマホのチェックもうるさいし、成績が少しでも下がればヒステリックに説教をする。

でも、彼らは私が「いい子」でいる限り、簡単に騙される。

私がどれだけ裏で遊んでいようと、表面上の点数と態度さえ取り繕っていれば、彼らは満足して小遣いをくれるのだ。


「おはよう、レナ」


家の前の角を曲がると、待ち合わせをしていた幼馴染、相沢翔太が立っていた。

彼は私を見ると、いつもと変わらない穏やかな笑顔を向けた。


「おはよう、翔太。待たせちゃった?」

「ううん、今来たところだよ。行こうか」


翔太は自然に車道側を歩き、私の歩幅に合わせてくれる。

優しくて、頭が良くて、誠実。

親公認の婚約者候補であり、私の将来の安定を約束してくれる存在。

……そして、世界で一番「退屈」な男。


翔太との会話は、いつも当たり障りのないものばかりだ。

勉強のこと、進路のこと、親のこと。

彼は私を大切にしてくれるけれど、そこには何の刺激もない。まるでぬるま湯に浸かっているようだ。

安心感はある。結婚するなら間違いなく翔太だ。彼は私を崇拝しているし、私が何をしても許してくれる。将来はそこそこの企業に入って、私を養ってくれるだろう。

だからキープしている。

でも、私の奥底にある渇きは、このぬるま湯では癒せない。


「ねえ翔太、今日の放課後なんだけど」

「ああ、図書室で勉強だよね。席、取っておくよ」


先回りして答える翔太。

私は心の中で舌打ちをしそうになるのを堪え、申し訳なさそうな顔を作った。


「ごめん、今日はちょっと無理なの。進路指導室に呼ばれてて」

「そうなんだ。大変だね。じゃあ、終わるまで待ってるよ」

「ううん、遅くなるから先に帰ってて。先生の手伝いもあるし」


嘘だ。

全部、嘘。

翔太は少し残念そうな顔をしたけれど、すぐに「分かった、無理しないでね」と信じた。

本当に、疑うことを知らない。

その純粋さが、時々無性にイライラするし、同時に滑稽で笑えてくる。

私の嘘を見抜けないなんて、私に関心がないのか、それとも単なる馬鹿なのか。

まあ、都合がいいからどっちでもいいけれど。


***


放課後。私は人気のない路地裏で、制服のリボンを少し緩めた。

そこに、独特の甘いコロンの香りが漂ってくる。


「よお、優等生ちゃん。彼氏はいいのか?」


ニヤニヤと笑いながら現れたのは、黒木大輔。

クラスのカースト上位にいる、派手で不良っぽい男の子。

翔太とは正反対の、危険な匂いのする男。


「うるさいな。あんなの、適当に誤魔化してきたわよ」

「ひでー女。でも、そういうとこ嫌いじゃないぜ」


大輔は私の腰に馴れ馴れしく手を回し、耳元で囁く。

背筋にゾクゾクするような電流が走る。

これだ。私が求めていたのは、このスリルと背徳感だ。

親の決めたレールの上を歩くだけの人生なんて真っ平ごめん。私はもっと自由で、もっと求められるべき存在なんだから。


「今日はどこ行く?」

「俺んち、親いねーから。……声、我慢すんなよ?」


下品な誘い文句に、私は頬を赤らめながらも頷く。

翔太となら手を繋ぐだけでドキドキする「フリ」をしなきゃいけないけれど、大輔となら本能のままに振る舞える。

この秘密の関係こそが、息苦しい日常の中で唯一、私が息を吸える場所だった。


大輔の部屋で情事に耽っている最中、スマホが震えた。

翔太からのLINEだ。

『雨降ってきたけど、傘持ってる? 駅まで迎えに行こうか?』

どこまでお人好しなんだろう。

私は大輔の腕の中で、クスクスと笑いながら返信を打つ。


『大丈夫! 先生に送ってもらうから。翔太も気をつけて帰ってね』


送信ボタンを押して、画面を閉じる。

私の目の前には、私を女として貪る大輔がいる。

画面の向こうには、私の嘘を信じて心配している翔太がいる。

この対比が、たまらなく興奮する。

私は二人の男を掌の上で転がしている。

あんなに厳しい両親も、優等生の私に騙されている。

私は誰よりも賢くて、誰よりも上手く生きている。

そんな万能感が、私の頭を麻痺させていた。


***


終わりの始まりは、あの「食事会」の日だった。

翔太から「大学推薦の報告をしたいから」と提案された時、私は心の中でガッツポーズをした。

推薦が決まれば、翔太の将来は安泰だ。

それに、このタイミングで食事会を開くということは、私たちの仲をさらに盤石にするつもりだろう。

親たちは盛り上がるし、私は「支える良き彼女」を演じればいい。

その裏で、私は大輔との関係を続ければいい。

結婚するまでは適当に遊んで、身を固める時になったら大輔を切ればいいのだ。

完璧な計画だった。


レストランに向かう車の中で、私は入念に化粧直しをした。

リップは清楚なピンクベージュ。髪はハーフアップにして、お嬢様らしさを演出する。

パパは「翔太くんはいい男だ。逃すんじゃないぞ」と上機嫌だ。

ママも「あちらのご両親とも仲良くね」と微笑んでいる。

私の人生は順風満帆。

何も怖いものなんてなかった。


レストランの個室に入ると、翔太が待っていた。

彼はいつも通り、優しそうな顔で迎えてくれた。

でも、どこか違和感があった。

目が、笑っていない気がした。

いや、気のせいだ。翔太に限ってそんなことはない。彼は私に夢中なんだから。


「翔太がいれば、私、なんだってできる気がするの」


乾杯の席で、私はそんな歯の浮くような台詞を言った。

親たちは目を細めて喜んでいる。

テーブルの下で、私はスマホをいじり、大輔に『親がウザい』と愚痴のLINEを送った。

翔太は気づいていない。ニコニコと私の話を聞いている。

本当に、単純で可愛い人。


ところが。

メインディッシュが終わった頃、翔太が改まって立ち上がった。

「大切なお話があります」

来た、と私は思った。プロポーズの前段階か、将来の約束か。

私は期待に満ちた顔を作り、少し恥じらうように俯いた。


しかし、テーブルに出されたのは指輪の箱ではなく、黒いファイルだった。


「申し訳ありません。僕の力では、レナさんを正しい道に引き戻すことができませんでした」


翔太の声は、冷え切っていた。

感情が一切乗っていない、事務的な声。

何を言っているの? 正しい道? 引き戻す?

意味が分からず、私は彼を見上げた。

そこで初めて、私は見たのだ。

私を見る翔太の目に、愛情など欠片も残っていないことを。

そこにあるのは、汚物を見るような軽蔑と、諦めきった虚無だけだった。


「皆さん、お手元の資料をご覧ください」


促されて開いたファイルの中身を見た瞬間、心臓が止まるかと思った。

写真。ログ。LINEのスクショ。

私と大輔がキスしている写真。

「合宿」と嘘をついて行った旅行の証拠。

私が翔太を『ATM』と呼び、親を『チョロい』と嘲笑っているメッセージ。


「な、なにこれ……嘘よ、こんなの!」


喉から引きつった声が出た。

思考が真っ白になる。

なんで? いつ? どうやって?

翔太はずっとニコニコしていたじゃない。

私の嘘を信じて、「頑張ってね」って送り出してくれたじゃない。

あれは全部、演技だったの?

私を泳がせて、証拠を集めるための?


「翔太、あんた誰かに騙されてるんだよ!」


必死に否定したけれど、翔太は淡々と事実を積み重ねていく。

言い逃れができないレベルの証拠。

GPSの記録まであるなんて。探偵でも雇ったの?

いや、翔太が一人でやったと言った。

あの忙しい受験勉強の合間に?

私に笑顔を向けながら、裏では冷徹にこの資料を作っていたの?


恐怖で震えが止まらなかった。

私が「転がしている」と思っていた男は、実はずっと上空から私を見下ろしていたのだ。

私は道化だった。

裸の王様のように、バレバレの嘘を纏って得意気になっていた、ただの馬鹿な女だった。


「翔太くん……これは、どういうことだ」


パパの声が震えている。

恐る恐る顔を上げると、そこには鬼のような形相があった。

今まで私を溺愛してくれていたパパの顔じゃない。

信頼を裏切られ、プライドを傷つけられた男の、殺意すら感じる怒りの顔だ。


「申し訳ありません。すぐに報告すべきでした」


翔太が深々と頭を下げる。

やめて。謝らないで。

翔太が謝れば謝るほど、私が「どうしようもない悪女」であることが強調される。

「僕の力が足りなかった」「もっと魅力があれば」なんて、嫌味にしか聞こえない。

パパの怒りの矛先が、翔太ではなく、私に一点集中していくのが分かる。


「ふざけるなッ!!!」


パパの手が振り上げられた。

次の瞬間、視界が弾け、激痛が走った。

床に叩きつけられた衝撃で、何が起きたのか分からなかった。

頬が熱い。耳鳴りがする。

パパに殴られたことなんて、一度もなかったのに。


「恥を知れ!!」


怒号が降り注ぐ。ママは泣き崩れている。

相沢家の両親は、冷ややかな目で私を見ている。

そして翔太は……私を見てもいなかった。

助けを求めて縋ろうとしたけれど、パパに引き剥がされた。

翔太は私に言った。

「ごめんね、レナ。僕にはもう、君を庇う資格がないんだ」

その言葉は、優しさではなく、死刑宣告だった。

彼は私を見限ったのだ。完全に、徹底的に。


レストランから連れ出され、家に帰ってからのことは、地獄のような記憶として焼き付いている。

スマホは没収。部屋中の私物が漁られ、パソコンも取り上げられた。

大輔との写真は全てパパに見られ、その度に罵倒された。

ママは「死んでお詫びしたい」と泣き続け、家庭は完全に崩壊した。

私の居場所だった「温かい家庭」は、一夜にして針のむしろに変わった。

学校にも行かせてもらえず、部屋に閉じ込められる日々。

聞こえてくるのは、両親の争う声と、ため息だけ。


数日後、遠くの全寮制高校への転校が決まった。

そこは刑務所のような場所だと聞いた。

携帯禁止、外出禁止、恋愛禁止。

卒業後は工場で働くことが決められているという。

私のキラキラした未来は? 東京の大学に行って、キャンパスライフを楽しんで、翔太と結婚して幸せになる未来は?

全部、消えた。

あの一瞬の快楽の代償として、私の人生の全てが奪われた。


転校の前日。私は監視の目を盗んで、窓から逃げ出した。

向かう先は一つしかなかった。

翔太。

彼なら、最後は許してくれるはずだ。

だって、私たちは幼馴染で、彼は私を愛していたんだから。

私が泣いて謝れば、きっと情にほだされて、「仕方ないな」って笑ってくれる。

そうすれば、パパだって考え直してくれるかもしれない。


息を切らして、いつもの高台の公園に向かう。

彼はそこにいた。

夕日を背にして立つ彼は、神々しいほど遠く見えた。


「翔太!」


私はなりふり構わず彼に駆け寄った。

ボロボロの服、泥だらけの足。プライドなんてどうでもいい。

元の生活に戻れるなら、なんだってする。


「私、反省してるの! 本当に好きなのは翔太だけなの!」


必死に訴えた。

でも、翔太の目は凍りついたままだった。

昔のような、温かい光はどこにもない。


「黒木君に対しても失礼だよ。……君は二人ともの心を弄んだんだ」


正論だった。

ぐうの音も出ないほどの正論。

そして彼は、とどめを刺した。


「君をご両親に免じて許すよ」


一瞬、希望が見えたと思った。

でも、それは勘違いだった。


「でも、僕の人生に君はもう必要ない。二度と関わらないでくれ」

「僕の中で『一ノ瀬レナ』という人間は、もう死んだんだ」


その言葉を聞いた瞬間、私の膝から力が抜けた。

ああ、本当に終わったんだ。

翔太は怒っているんじゃない。

私に関心がないんだ。

道端の石ころと同じ、どうでもいい存在になったんだ。

それが、どんな罵倒よりも私の心を抉った。

私たちが積み上げてきた十数年の時間は、「過去のデータ」として削除されたのだ。


「さようなら、一ノ瀬さん」


彼は背を向け、歩き出した。

私がどれだけ泣き叫んでも、名前を呼んでも、一度も振り返らなかった。

その背中は、以前よりも大きく、そして自由に見えた。

私という重荷を捨てて、彼は新しい未来へと進んでいく。

私だけが、泥沼の中に置き去りにされた。


翌日、私は父の運転する車に乗せられた。

車窓から見える景色が、見慣れた街から、灰色の知らない景色へと変わっていく。

スマホはない。友達もいない。彼氏もいない。

あるのは、厳格な規則と、終わりのない労働の日々だけ。


車の中で、私は自分の手をじっと見つめた。

この手で、私は幸せを掴んでいたはずだった。

優しい婚約者、安定した未来、愛してくれる両親。

でも、私は自分からその手を離し、欲望という名の泥を掴んでしまった。

その泥は、私の手を汚し、人生を汚し、もう二度と洗っても落ちないシミとなって残ってしまった。


「……翔太」


もう届かない名前を、小さく呟く。

もし、時間を戻せるなら。

あの雨の日、大輔の誘いを断っていたら。

いや、もっと前。翔太の優しさを「退屈」だなんて思わなければ。

たらればを数えるたびに、涙が溢れてくる。


でも、もう遅い。

本当に、何もかもが手遅れだった。

車の揺れに身を任せながら、私はただ、色を失った世界をぼんやりと眺め続けるしかなかった。

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