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第4話 不可逆の断絶と新しい空

あの「食事会」から一週間が経った。

季節は初夏を迎えようとしていたが、私の周囲で吹き荒れる嵐は、ようやくその破壊の爪痕を確定させようとしていた。


教室の空気は、以前とは少し違っていた。

私の隣の席──一ノ瀬レナの席は、あの日以来ずっと空席のままだ。

そしてもう一つ、教室の後方でいつも騒がしかった黒木大輔の席も、今日から空席になっていた。


「おい、聞いたかよ。黒木のやつ、退学になるらしいぜ」

「マジ? 親父さんが学校に乗り込んできて、すげー剣幕だったって」

「なんでも、とんでもない額の慰謝料請求されたとかで、実家に勘当されたらしいよ」


ひそひそと交わされる噂話が、私の耳にも届く。

情報の伝播は早い。特に他人の不幸に関するニュースは、光の速さで広まるものだ。

だが、彼らが語る内容は噂の域を出ていない。真実はもっと淡々としていて、そして残酷だ。


黒木大輔への制裁は、私の予想以上に迅速に行われた。

食事会の翌日、伯父の事務所から黒木家へ内容証明郵便が届いた。

そこには、不貞行為の証拠、精神的苦痛に対する慰謝料請求、そして今後一切、私と私の家族、そして一ノ瀬家に関わらない旨の誓約書が同封されていた。

当初、黒木本人は学校で私を見かけると、「てめぇ、ふざけんなよ! 親にバレて殺されるかと思ったぞ!」と掴みかかろうとしてきた。

彼はまだ事態を甘く見ていた。「親に怒られる」程度で済むと思っていたのだ。

だが、彼の父親は違った。

地元の名士であり、世間体を何よりも重んじる黒木の父親にとって、息子が「幼馴染の婚約者がいる女性を寝取り、証拠を突きつけられて訴えられた」という事実は、許し難い汚点だった。


私は直接見てはいないが、弁護士の伯父の話によれば、黒木家での話し合いは一方的な断罪だったらしい。

父親は弁護士の前で息子を殴り飛ばし、「お前のような恥晒しに継がせる家はない」と宣告した。

黒木が自慢していたバイクは没収され、自由に使えるクレジットカードも停止。

そして、示談の条件として「即刻の自主退学」と「地方の更生施設(という名目の厳しい全寮制高校)への転校」が決定した。

慰謝料は親が支払ったが、それは息子を守るためではない。「手切れ金」としてさっさと厄介払いをし、自分の社会的地位を守るための経費処理に過ぎない。


昨日、荷物をまとめに学校へ来た黒木と、廊下ですれ違った。

かつての威勢は見る影もなく、生気のない顔でうつむいていた。

私と目が合った瞬間、彼は何か言いたげに口を開いたが、すぐに視線を逸らして逃げるように去っていった。

彼も理解したのだろう。自分が「遊び」だと思って手を出した火遊びが、自分の人生そのものを焼き尽くしてしまったことを。

彼がこれから送る生活に、私の知ったことではない。

ただ、二度と私の視界に入らないという約束さえ守られれば、それでいい。


***


一方、一ノ瀬レナの処遇は、より家庭内での断絶という色合いが濃かった。

あの日、レストランから連れ帰られた彼女は、即座にスマホを没収され、部屋に軟禁状態となった。

パソコンも取り上げられ、外部との連絡手段は完全に絶たれた。

学校へは、父親の剛志さんが「体調不良による療養」と連絡を入れたが、実際には転校の手続きが進められていた。


数日前、剛志さんと美恵子さんが、改めて我が家へ謝罪に訪れた。

二人はやつれていた。特に美恵子さんは、心労で一気に老け込んだように見えた。

剛志さんは、私の両親と私に対し、畳の部屋で正座をし、額を床に擦り付けて謝罪した。


「本当に、申し訳ありませんでした。翔太くんの人生を、娘が汚してしまったこと……一生かけて償います」


差し出された封筒には、黒木家への請求額と同等の慰謝料が入っていた。

私の父は一度は断ったが、剛志さんの「これを受け取ってもらわなければ、私の気が済まない。けじめをつけさせてくれ」という悲痛な懇願に負け、受け取ることにした。

そして、レナの今後についても報告があった。


「あの子とは、縁を切るつもりです」


剛志さんは、絞り出すように言った。


「もちろん、未成年ですから法的な親子関係までは切れません。ですが、精神的にはもう他人です。来週、北関東にある全寮制の女子校へ転校させます。そこは携帯電話の持ち込みも禁止、外出も制限される厳しい学校です。卒業後は、親戚の工場で住み込みで働かせるつもりです。……甘やかして育てた結果がこれです。これからは、自分の足で、地を這ってでも生きていく厳しさを教え込みます」

「……そうですか」


私は短く答えた。

かつて愛した女性が、そこまで過酷な環境に追いやられる。

心が痛むかと自分に問いかけてみたが、返ってきたのは静かな納得感だけだった。

自業自得。因果応報。

彼女が黒木の別荘で快楽に溺れていた時、彼女は自分の意志でその道を選んだのだ。

ならば、その道の先にある崖から落ちるのもまた、彼女の責任だ。


「翔太くん。あの子が君に会いたいと泣き叫んでいますが、会う必要はありません。いや、会ってはいけない。君はもう、前を向いて歩いてください」


帰り際、剛志さんは私の肩を強く握り、涙目でそう言った。

被害者である私に、加害者の父親が「幸せになってくれ」と願う。

その歪な構図こそが、今回の事件が残した最大の傷跡なのかもしれない。


***


そして、今日。

レナが転校のために家を出る、前日の夕暮れ。

私は日課のジョギングをしていた。

コースはいつも通り、河川敷を通って、昔よく遊んだ高台の公園へ抜けるルートだ。

息を切らしながら坂道を登りきると、眼下に街の景色が広がる。

オレンジ色の夕日が、街並みを優しく包み込んでいる。


「……翔太」


背後から、掠れた声が聞こえた。

心臓が一瞬だけ大きく跳ねたが、すぐに冷静さを取り戻した。

振り返ると、そこに一ノ瀬レナが立っていた。


彼女の姿は、私の記憶にある「清楚で美しい幼馴染」とはかけ離れていた。

手入れされていた長い髪はボサボサで、着ている服も部屋着のようなスウェット上下。

足元はサンダル履きで、泥で汚れている。

おそらく、家の窓から抜け出してきたのだろう。

監視の目を盗み、必死の思いでここまで走ってきたことが見て取れた。


「……明日、出発なんだってな」


私は汗を拭いながら、努めて事務的に声をかけた。

レナは肩で息をしながら、一歩、また一歩と私に近づいてくる。

その瞳は充血し、目の下には濃いクマができている。


「うん……行きたくない。行きたくないよ、翔太」

「お父さんが決めたことだろ。僕に言ってもどうしようもない」

「どうしようもなくないよ! 翔太が言ってくれれば……翔太が『許す』って言ってくれれば、パパだって考え直してくれるかもしれない!」


レナは必死に訴えかけてきた。

自分勝手な理屈だ。まだ、私が彼女を救ってくれると信じている。

彼女の中の私は、いつまでも「優しくて都合のいい翔太」のままなのだ。


「私、反省してるの。本当に、バカだったって思ってる。黒木くんなんて、ただの遊びだったの。本気じゃなかったの! 私が本当に好きなのは翔太だけなんだよ!」


彼女は叫びながら、私の腕に縋り付こうとした。

私は半歩下がって、その手を避けた。

レナの手が空を切り、彼女はバランスを崩してその場にへたり込んだ。


「……遊びだった?」


私は冷ややかに彼女を見下ろした。


「それが一番の罪だって、まだ分からないのか? 君にとっては遊びでも、僕にとっては真剣な婚約だった。君が『刺激がない』と切り捨てた僕との時間は、僕にとってはかけがえのない宝物だったんだ」

「ちがう、そんなつもりじゃ……」

「黒木君に対しても失礼だよ。彼は彼なりに、君との関係を楽しんでいたんだろうからね。君は二人ともの心を弄んだんだ」


私は、ポケットからスマートフォンを取り出した。

画面には何も表示されていないが、それが彼女への威圧になる。

もし彼女がこれ以上暴れるようなら、すぐに剛志さんに連絡するつもりだ。


「レナ。お父さんが昨日、家に来て土下座していったよ」

「え……?」

「君のしたことの責任を取って、額を床に擦り付けて謝ってた。あんなにプライドの高かった剛志さんが、涙を流してね。立派だったよ。君なんかより、よっぽど誠実で、親としての責任を果たそうとしていた」


レナの目から、大粒の涙が溢れ出した。

父親の姿を想像したのだろうか。それとも、自分のせいで親が恥をかいた事実にようやく直面したのだろうか。


「だから、僕は君を許すことにした」

「……えっ? ほ、ほんとう?」


レナが顔を上げた。

その表情に、希望の光が差す。

「やっぱり翔太は優しい」「許してくれるんだ」。そんな安堵の色が浮かぶ。

その浅ましさに、私は最後のトドメを刺す言葉を選んだ。


「勘違いしないでくれ。法的に訴えない、という意味での『許す』だ。君のご両親に免じて、これ以上の慰謝料請求や、君を追い詰めるような真似はしない」


私は一呼吸置き、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。


「でも、僕の人生に君はもう必要ない。二度と関わらないでくれ」

「……え?」

「君がどこで何をしようと、僕には関係ない。野垂れ死のうが、誰と付き合おうが、興味もない。僕の中で『一ノ瀬レナ』という人間は、もう死んだんだ。過去の記憶も含めて、全部ゴミ箱に捨てて、データを消去した」

「そ、そんな……嫌だ、嫌だよ翔太! 私たち、ずっと一緒だったじゃない! 幼馴染で、婚約してて……やり直せるよ! 私、何でもするから! 翔太の言うこと何でも聞くから!」


レナは半狂乱になって、地面に手をついて懇願した。

かつてクラスのマドンナと呼ばれた少女の、見る影もない姿。

だが、私の心は凪いだ湖のように静かだった。

哀れみすら湧かない。ただ、「ああ、やっと終わるんだ」という安堵感だけがある。


「もう遅いんだ、レナ」


私は静かに告げた。


「信頼っていうのはね、積み木みたいなものなんだ。十年かけて積み上げても、崩れるのは一瞬だ。そして、一度崩れた積み木は、二度と同じ形には戻らない。……君が自分で蹴飛ばしたんだよ」

「あ、あぁ……」

「さようなら、一ノ瀬さん。元気で」


私は彼女に背を向けた。

「レナ」という呼びかけではなく、「一ノ瀬さん」という他人行儀な呼び名。

それが、私から彼女への最後通告だった。


「待って! 置いていかないで! 一人にしないでぇぇぇ!!」


背後で絶叫が響く。

泣き叫び、地面を叩く音。名前を呼ぶ悲痛な声。

だが、私の足は止まらない。

振り返ることもない。

この坂道を下れば、そこには私の日常が待っている。

嘘のない、裏切りのない、清々しい日常が。


しばらく歩くと、レナの声は遠ざかり、代わりに川のせせらぎと、虫の音が聞こえてきた。

私は大きく息を吸い込んだ。

夕暮れの空気は甘く、そして自由の味がした。


***


それから一ヶ月後。

私の生活は、驚くほど平穏なものになっていた。

レナの姿は街から消えた。風の噂では、予定通り北関東の寮に入り、厳しい規律の中で生活しているらしい。外部との連絡が一切取れないため、彼女が今何を思い、どう過ごしているのかを知る由もないし、知りたいとも思わない。

黒木も同様に、姿を見せなくなった。


私はといえば、第一志望の大学から推薦の内定をもらった。

あの騒動の中で勉強に集中するのは大変だったが、むしろ「勉強だけが裏切らない」と自分に言い聞かせて没頭したのが功を奏したのかもしれない。


放課後の教室。

私は一人、窓際の席で参考書を開いていた。

隣の空席には、今は花瓶も何も置かれていない。ただの机だ。

もうすぐ席替えがある。次は誰が隣に来るだろうか。

男でも女でも構わない。普通に会話ができ、普通に笑い合える相手なら、それだけで十分だ。


「相沢くん、ちょっといい?」


声をかけられて顔を上げると、クラス委員長の女子が立っていた。

手にはプリントの束を持っている。


「あ、ごめん。進路調査票の回収だよね。すぐ出すよ」

「ううん、急ぎじゃないから大丈夫。それより、さ」


彼女は少し言い淀み、照れくさそうに頬を掻いた。


「今度、クラスの有志で打ち上げするんだけど、相沢くんも来ないかなって。……相沢くん、最近なんか憑き物が落ちたみたいにスッキリした顔してるから、誘いやすいなって思って」

「え? そうかな」


私は自分の顔を触った。

鏡を見ていないから分からないが、以前のような張り詰めた空気は消えているのかもしれない。


「うん。前はなんか、近寄りがたいオーラがあったけど、今は柔らかくなったよ。……だから、来てくれたら嬉しいな」

「……そっか。ありがとう」


私は素直に笑顔を返した。


「行くよ。せっかくの誘いだしね」

「本当? やった! じゃあ詳細はLINEするね!」


彼女は嬉しそうに手を振って、友人の元へ戻っていった。

その背中を見送りながら、私は鞄に参考書をしまった。


窓の外には、突き抜けるような青空が広がっている。

かつて私の世界は、レナという存在を中心に回っていた。

彼女が笑えば嬉しくて、彼女が悲しめば辛かった。

だが、その世界はあまりに狭く、そして脆かった。


今の私は、誰のものでもない。

この広い空のように、どこへでも行けるし、誰とでも関われる。

傷跡はまだ残っているかもしれない。

人を信じることに、少し臆病になっている部分もあるかもしれない。

けれど、それは決してマイナスではない。

痛みを越えた分だけ、私は強くなった。

本物の誠実さが何なのか、本物の信頼がどうやって築かれるのかを、身を持って学んだのだから。


「さて、帰るか」


私は立ち上がり、鞄を肩にかけた。

隣の空席を一瞥する。

そこにはもう、未練も憎しみもない。

ただの「通過点」としての記憶があるだけだ。


私は教室のドアを開けた。

廊下の向こうから、新しい風が吹き込んでくる。

その風に背中を押されるように、私は一歩、また一歩と、未来へ向かって歩き出した。

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