第3話 誠実なる処刑執行
「正しい道に引き戻すことが、できませんでした……?」
レナの父、剛志さんが私の言葉を反芻するように呟いた。
その表情は、まだ事態を飲み込めていない。困惑と、ほんの少しの苛立ちが混じり合っている。
当然だ。数秒前まで娘の将来を祝い、未来の娘婿との団欒を楽しんでいたのだから。
空気は凍りつき、カチャリと食器が触れ合う音さえもが耳障りに響く。
「翔太、いきなり何を言ってるの? 冗談はやめてよ。変な空気になっちゃうじゃん」
レナが引きつった笑みを浮かべて、私の腕を揺すった。
その手は小刻みに震えている。彼女の野生の勘が、ここにある「致命的な何か」を察知しているのだろう。
だが、私は彼女の顔を見ない。
視線はまっすぐに、剛志さんと美恵子さん、そして私の両親に向けたままだ。
「皆さん、お手元の資料をご覧ください。これが、私がここ数ヶ月間、一人で抱えていた真実です」
私はテーブルの上に置いた数冊のファイルを、それぞれの前に滑らせた。
私の両親用、レナの両親用。そして、レナ本人用だ。
全員がおそるおそる、まるで爆発物に触れるかのような手つきで、その黒い表紙をめくった。
最初に聞こえたのは、美恵子さんの短く鋭い悲鳴だった。
彼女は口元を手で覆い、信じられないものを見る目でファイルを見つめている。
剛志さんの顔色が、赤から青、そして土気色へと急速に変化していく。
私の両親は、言葉を失い、ただ呆然とページをめくっていた。
そこにあるのは、紛れもない事実の羅列だ。
一ページ目。
日付と時刻が刻印された写真。
場所は駅前の繁華街。レナが黒木大輔の腰に手を回し、路上でキスをしている一枚だ。
この日は確か、「図書館で勉強してくる」と言って家を出た日だったはずだ。
「な、なにこれ……嘘よ、こんなの!」
レナが金切り声を上げた。
彼女は自分の手元にあるファイルを見て、血相を変えて立ち上がろうとした。
だが、私は冷静に彼女を制した。
「座っていてください、レナさん。説明はまだ終わっていません」
「説明って、これ合成でしょ!? 今どきAIとかなんでもできるじゃん! 翔太、あんた誰かに騙されてるんだよ!」
必死の形相で否定するレナ。
その目には涙が浮かんでいる。それが演技なのか、恐怖からくるものなのかは分からない。
剛志さんが、震える声で尋ねた。
「翔太くん……これは、どういうことだ。レナが、他の男と……?」
「はい。お父様たちがご覧になっている通りです。その写真は序の口に過ぎません。ページをめくってください」
私の指示に従い、大人たちが重い手つきでページをめくる。
そこには、地図アプリのGPSログと、それに対応する写真が時系列順に並べられていた。
「進路合宿」と称して出かけた先週末。
行き先は山奥の勉強施設などではなく、避暑地にある個人の別荘だった。
「これは、黒木大輔という同級生の家の別荘です。レナさんは『スマホを没収された』と言っていましたが、実際にはここで二泊三日、彼と二人きりで過ごしていました」
「ち、ちがう! これは……みんなで行ったの! 写真に写ってないだけで、他の子もいたんだよ!」
レナが食い下がる。
往生際が悪いとはこのことだ。だが、その反論も想定内だった。
「いいえ、二人きりです。次のページに、別荘の入り口に設置されていた防犯カメラの映像から切り出した画像があります。出入りしたのは、レナさんと黒木君の二人だけ。食料の買い出しも二人。そして夜、二階の寝室の明かりが消えるまで、他の誰も出入りしていません」
私が淡々と事実を突きつけるたびに、レナの逃げ場が塞がれていく。
合成だと言えば、GPSのログと照合する。
友達がいたと言えば、防犯カメラの証拠を出す。
私は、弁護士の伯父と相談して集めた完璧な証拠の数々を、ただ事務的に読み上げていった。
「私は……気づいていました。数ヶ月前から、彼女の様子がおかしいことに」
私は静かに語り始めた。
怒りではなく、悲痛な懺悔のように。
「最初は信じたくありませんでした。レナさんは僕の大切な婚約者で、お父様とお母様が手塩にかけて育てた素晴らしい女性ですから。僕の勘違いであってほしい、何かの間違いであってほしいと願いながら、調査を続けました。でも……出てくるのは、裏切りの証拠ばかりでした」
「翔太……」
私の母が、涙を浮かべて私を見つめた。
息子の苦悩を知り、胸を痛めているのだ。
「僕は何度も、彼女にチャンスを与えました。『今日は何をしてたの?』『困ったことはない?』と聞きました。もしそこで、『実は好きな人ができた』と正直に言ってくれれば、僕は身を引くつもりでした。でも、彼女は笑顔で嘘をつき続けました。『翔太だけだよ』と、僕の目を見て言ったその足で、黒木君の家に向かっていました」
私は一度言葉を切り、深く息を吐いた。
そして、最も残酷なページを開くように促した。
「最後のページをご覧ください。これは、レナさんと黒木君のLINEのやり取りです」
そこには、肉体関係を示唆する生々しい言葉だけでなく、彼女の本性が刻まれていた。
剛志さんの目が、ある一点に釘付けになる。
『親がマジでうざい。門限とか厳しすぎて死ぬ』
『わかるー。で、どうやって抜け出すの?』
『「翔太と勉強」って言えばイチコロだよw あのパパ、翔太のこと盲信してるからチョロいもん』
『お前のおやじ、堅物そうだもんな』
『ほんとそれ。頭固いし、説教長いし。早く結婚して家出たいわー。翔太なら私の言いなりだし、ATMとしては優秀だからキープしとくけど、刺激がないんだよね』
『悪女だなーw』
『パパとママには、いい子のフリしてれば小遣いもらえるしね。ほんと、あの親から生まれたとは思えないくらい、私って演技派だと思わない?』
室内には、エアコンの空調音だけが響いていた。
剛志さんの手が、小刻みに震えている。
血管が浮き上がり、握りしめられたファイルがくしゃりと音を立てて歪んだ。
「ち、ちがうのパパ! これは、その場のノリで……本心じゃなくて!」
レナが顔面蒼白で弁明しようとする。
しかし、その言葉は火に油を注ぐだけだった。
剛志さんがゆっくりと顔を上げた。
その目には、今まで見たこともないような激しい怒りと、深い絶望が宿っていた。
彼は、愛する娘に裏切られたのではない。
彼が信じ、愛し、誇りに思っていた「娘」という存在そのものが、ただの虚像だったと突きつけられたのだ。
それも、一番信頼していた私、相沢翔太の手によって。
「翔太くん」
剛志さんが、絞り出すような声で私を呼んだ。
「……はい」
「君は、これを全部知っていて……今日まで黙っていたのか」
「はい。申し訳ありません」
私は席を立ち、テーブルの横に移動して、土下座せんばかりに深く頭を下げた。
「すぐに報告すべきでした。でも、怖かったんです。これを伝えれば、お二人がどれほど傷つくか。そして、僕たちの関係が壊れてしまうことが。だから、僕の力で彼女を説得しようとしました。彼女が目を覚ましてくれるのを待ちました。でも……無理でした。僕の魅力不足のせいで、彼女を黒木君から取り戻すことはできませんでした」
「そんなこと……!」
「いいえ、僕の責任です。僕がもっと頼りがいのある男なら、彼女は浮気なんてしなかった。僕がもっとしっかり彼女を見ていれば、こんな嘘をつかせずに済んだ。……お父様、お母様。大切な娘さんを、ここまで堕落させてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
完璧な論理のすり替えだ。
加害者はレナだ。私は被害者だ。
しかし、私が「監督不行き届き」を謝罪することで、レナの罪は「個人の過ち」から「相沢家と一ノ瀬家の信頼関係への背信」へと昇華される。
そして何より、厳格な剛志さんのプライドを刺激する。
「他人の家の息子に、自分の娘の不始末を謝罪させてしまった」という事実が、彼にとって何よりの屈辱となるはずだ。
ダンッ!!
突如、剛志さんがテーブルを拳で叩きつけた。
グラスの水が跳ね、カトラリーが踊る。
「ふざけるなッ!!!」
その怒声は、私に向けられたものではなかった。
彼は血走った目で、隣に座る娘を睨みつけた。
「パ、パパ……?」
「お前……よくも、よくも今まで、私の目を、母さんの目を、そして翔太くんの真心を……!」
言葉にならない怒りが、剛志さんの体を突き動かした。
彼は立ち上がり、右手を高く振り上げた。
パァァァァンッ!!
乾いた破裂音が、高級レストランの個室に響き渡る。
レナの体が大きく仰け反り、椅子ごと床に倒れ込んだ。
頬には、くっきりと赤い手形が浮かび上がっている。
暴力は肯定されるものではない。だが、この瞬間の剛志さんを止められる人間はいなかった。
「痛っ……パパ、ひどい……!」
「黙れ!! ひどいのはどっちだ! 翔太くんが、どんな思いでこの資料を作ったと思っている! お前が男と遊び呆けている間、彼はずっと一人で苦しんでいたんだぞ! 親のことも、彼のことも馬鹿にして……恥を知れ!!」
剛志さんの怒号は止まらない。
美恵子さんは顔を覆って泣き崩れている。
「私の育て方が間違っていたのね……あんなにいい子だと思っていたのに……」と、嗚咽混じりに繰り返す母の姿は、レナにとってどんな罵倒よりも堪えただろう。
床に這いつくばったまま、レナは私を見上げた。
助けを求める目だ。
「翔太なら止めてくれる」「翔太なら許してくれる」。そんな甘えがまだ残っている。
だが、私は彼女を見下ろしながら、ただ悲しげに首を横に振った。
「ごめんね、レナ。僕にはもう、君を庇う資格がないんだ」
その言葉は、「君はもう僕の守備範囲外だ」という死刑宣告に等しい。
レナの顔から、最後の一滴の希望が抜け落ちていくのが見えた。
ここで、沈黙を守っていた私の父が口を開いた。
静かで、しかし絶対的な冷たさを持った声だった。
「一ノ瀬さん。……非常に残念ですが」
父はファイルを閉じ、テーブルの上に置いた。
「この婚約の話は、なかったことにさせていただきます」
「もちろんです……! 合わせる顔もありません……!」
剛志さんが、涙ながらに頭を下げる。
「相沢さん、そして翔太くん。本当に、本当に申し訳ない。娘の教育がなっていなかった。私の責任だ。どんな償いでもする。慰謝料も支払う。だから……」
「金銭の話は、後日弁護士を通じて行いましょう。ただ」
父は私を見た。そして、力強く頷いた。
「息子は、この数ヶ月間、地獄のような苦しみを味わいました。幼馴染としての情けと、裏切られた絶望の間で揺れ動いていました。その息子の決断を、私は尊重します。……もう二度と、翔太にレナさんを近づけないでいただきたい」
「……約束します。二度と、視界に入ることすらないよう、私が責任を持って対処します」
剛志さんは、床で震えるレナを睨みつけたまま断言した。
「いや! 嫌だよ! 翔太、待って! 私、翔太がいないと……!」
レナが泣き叫びながら私の足元に縋り付こうとした。
だが、その手は私に届く前に、剛志さんによって乱暴に引き剥がされた。
「触るな! お前なんかに、彼に触れる資格はない!」
「パパ離して! 翔太ぁぁぁ!」
騒ぎを聞きつけた店員が、慌てた様子で個室のドアをノックした。
この場はもう、食事会としての体を成していない。
地獄の釜の蓋が開いたのだ。
私は、倒れた椅子や散乱したファイルを冷ややかに見つめた。
胸の奥にあった重い塊が、すうっと消えていくのを感じる。
これが「スカッとする」ということなのだろうか。
いや、もっと静かで、虚無に近い感覚だ。
ただ、やるべきことをやり遂げたという達成感だけがあった。
「行きましょう、父さん、母さん」
私は両親を促し、出口へと向かった。
背後では、まだレナの泣き叫ぶ声と、剛志さんの怒鳴り声、美恵子さんの嗚咽が響いている。
だが、私は一度も振り返らなかった。
かつて愛した女性が、社会的に、そして家庭的に抹殺される瞬間を、私はこれ以上見届ける必要はなかった。
種を撒いたのは彼女であり、育てたのは彼女の両親だ。
私はただ、その腐った果実を収穫し、彼らの食卓に並べたに過ぎない。
店の外に出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。
都市のネオンが、いつもより鮮やかに見える。
「翔太」
父さんが私の肩に手を置いた。
「よくやったな。辛かっただろう」
「……うん。でも、これで良かったんだと思う」
「ああ。お前は間違ってない。立派だったよ」
母さんも私の背中をさすってくれた。
家族の温かさが染みる。
そして同時に思う。
あのレストランに残された一ノ瀬家には、もう二度とこんな穏やかな時間は訪れないのだと。
「さて、帰ろうか。お腹空いただろ? 家で何か作ってやるよ」
「うん、そうだね。母さんのカレーが食べたいな」
私たちは、背後のビルを見上げることもなく、駅へと歩き出した。
私のポケットの中には、弁護士から預かったもう一つの封筒が入っている。
それは明日、黒木大輔とその両親に送られる内容証明郵便の写しだ。
レナへの断罪は終わった。
次は、間男である黒木への制裁だ。
彼には、レナ以上に容赦ない現実を突きつけてやるつもりだ。
学校での地位、家庭での立場、そして将来。その全てを奪う準備はできている。
歩きながら、ふと空を見上げた。
月が綺麗だった。
レナと見上げたどの月よりも、一人で見上げる今の月の方が、ずっと美しく、清々しく感じられた。




