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第2話 最後の晩餐への招待状

「ただいま、翔太! ごめんね、連絡遅くなっちゃって」


日焼け止めと制汗スプレーの混じった匂いが、玄関を開けた瞬間に鼻腔をくすぐった。

二泊三日の「進路合宿」から帰ってきた一ノ瀬レナは、少し疲れたような、しかしどこか高揚した表情で俺の部屋の敷居を跨いだ。

その手には、駅前の土産物屋で買ったであろうクッキーの箱が握られている。


「おかえり、レナ。お疲れ様。合宿、大変だった?」


俺は努めて普段通りの声色で出迎えた。

心臓の鼓動は一定だ。以前のように、彼女の笑顔を見て胸がときめくこともなければ、裏切りを知った直後のように怒りで視界が赤く染まることもない。

今の俺にあるのは、標本を観察する昆虫学者のような、冷徹な好奇心だけだった。


「もう、すっごく大変だったよ! 先生ったら厳しくてさ、スマホも夜まで預かりだし、休憩時間もほとんどないし。でも、翔太のために頑張らなきゃって思って乗り切ったよ」


レナは靴を脱ぎ捨てると、慣れた様子で俺のベッドに腰掛けた。

その仕草一つ一つが、かつては愛おしかった。

だが今は、彼女が語る言葉のすべてが、俺の手元にある「事実」との答え合わせにしかならない。

先生が厳しかった? 黒木の別荘には監視する大人などいなかったはずだ。

スマホ預かり? 実際には黒木とのツーショット写真をSNSの裏垢に上げ続けていたじゃないか。

翔太のために? よくもまあ、そんなセリフが吐けるものだ。


「そうか、偉いなレナは。……あれ、首元、蚊に刺されたのか?」


俺はわざとらしく、彼女の鎖骨のあたりを指差した。

襟の広いTシャツから覗く白い肌に、ファンデーションで隠しきれなかった赤い鬱血痕がわずかに見えていた。

レナは「えっ」と短く息を呑み、反射的に手を首元にやった。


「あ、うん! 山の方だったから虫が多くてさ。もう、痒くて嫌になっちゃう」

「薬、あるけど塗るか?」

「ううん、大丈夫! それより翔太、寂しかったでしょ? 埋め合わせしなきゃね」


彼女は誤魔化すように話題を変え、甘えた声で俺に抱きついてきた。

俺の胸に顔を埋める彼女からは、いつものシャンプーの香りに混じって、微かに男物の香水の残り香と、煙草の臭いがした。黒木は喫煙者だ。

俺の背筋を、生理的な嫌悪感が駆け抜ける。

かつては安らぎだったその体温が、今は汚泥のように不快で重苦しい。

だが、俺は彼女を突き飛ばしたりはしなかった。

その代わりに、彼女の背中に手を回し、優しくポンポンと叩いた。


「ああ、寂しかったよ。でも、来週の日曜には食事会があるだろ? その時にもっとゆっくり話そう」

「うん! 楽しみにしてるね。お父さんも張り切って予約取ってくれたし」


レナは無邪気に笑った。

彼女は気づいていない。

その首元の痕が、虫刺されなどではないことを俺が見抜いていることも。

その香りが、彼女の不貞を雄弁に物語っていることも。

そして、来週の食事会が、彼女と彼女の家族にとっての「処刑台」になることも。

俺は彼女の頭を撫でながら、心の中で冷ややかに呟いた。

(今のうちに精一杯笑っておくといい。それが、君の人生最後の「心からの笑顔」になるだろうから)


***


食事会の三日前。俺は学校帰りに、とある雑居ビルの一室を訪ねていた。

ドアの横には『神宮寺法律事務所』というプレートが掲げられている。

ここは、俺の母方の伯父が経営している個人事務所だ。

伯父は昔から俺を可愛がってくれていて、今回の件を相談した際も、最初は驚いていたが、証拠を見せると表情を一変させ、協力を約束してくれた。


「……翔太くん。改めて資料を確認させてもらったが、これは凄いな」


応接室のソファに座るなり、伯父は分厚いクリアファイルを机に置いた。

そこには、俺が数ヶ月かけて収集したレナと黒木の不貞の証拠がすべて収められている。

日付入りの写真、SNSの解析データ、GPSのログ、そして復元したチャット履歴。

探偵を雇ったとしても、ここまでの精度で集めるのは難しいだろうと伯父は言った。


「黒木大輔との不貞行為は明白だ。特にこの合宿と称した旅行の写真は決定的だね。言い逃れは不可能だよ」

「はい。僕としては、単に別れるだけでなく、社会的な責任も問いたいんです」

「ああ、分かっている。慰謝料請求の準備は整っているよ。相手が未成年とはいえ、これだけ悪質性があれば親権者への監督責任も含めて追求できる。特に黒木家は資産家だそうだから、金銭的な解決は容易だろうが……君の狙いはそこだけじゃないんだろう?」


伯父は眼鏡の奥の鋭い瞳で俺を見据えた。

俺は静かに頷く。


「金銭は二の次です。僕が望むのは、彼らが犯したことの重さを、彼ら自身とその家族に理解させることです。そして、僕と僕の家族が、これ以上彼らに利用されないように、完全に縁を切ることです」


俺の声は自分でも驚くほど落ち着いていた。

復讐という言葉は激情を伴うものだと思っていたが、実際のそれは、事務処理のように淡々としたものだった。

感情を挟む余地はない。あるのは「因果応報」という名のシステムを作動させるための手順だけだ。


「分かった。食事会の直後、相手方の両親に内容証明を送る手はずを整えておこう。君が提示した条件──接触禁止命令や、事実関係の学校への報告についても、示談の条件として盛り込む」

「ありがとうございます。……それと、レナの処遇についてですが」

「ああ、一ノ瀬さんの方だね。婚約破棄に相当する事案だ。君のご両親への精神的苦痛も考慮すれば、向こうの家にとってはかなり厳しいことになるだろう」


伯父は少しだけ哀れむような目で天井を見上げた。

一ノ瀬家と相沢家は、親同士も仲が良い。この一件は、その友情をも粉々に破壊することになる。

だが、それを壊したのは俺ではない。

信頼という土台をシロアリのように食い荒らした、レナと黒木だ。

俺はただ、腐り落ちた建物を撤去するに過ぎない。


「準備は万端だ。あとは君が、その引き金を引くだけだよ」

「はい。……必ず、やり遂げます」


事務所を出ると、空は茜色に染まっていた。

都市の喧騒が遠くに聞こえる。

俺の鞄の中には、伯父が作成してくれた法的な書類のコピーと、整理された証拠ファイルが入っている。

それは物理的な重さ以上に、俺の心にずしりとした確信を与えてくれた。

これでもう、引き返すことはできない。

そして、引き返すつもりも毛頭なかった。


***


翌日、学校でのことだった。

昼休みの食堂に向かう廊下で、俺は黒木大輔とその取り巻きたちと鉢合わせた。

避けて通ることもできたが、向こうが俺に気づき、ニヤニヤと笑いながら道を塞いできた。


「よお、相沢。お勉強は捗ってるか?」


黒木が俺の肩に馴れ馴れしく手を置く。

その手は、先日レナの肌を愛撫していた手だ。

吐き気が込み上げてくるのを理性で抑え込み、俺は無表情で彼を見返した。


「ああ、おかげさまでね。黒木こそ、最近は忙しそうだな」

「ん? まあなー。俺、人気者だからさ。いろんな『付き合い』があんのよ」


黒木は意味深に言葉を強調し、取り巻きたちと顔を見合わせて下品な笑い声を上げた。

彼らは知っているのだ。黒木が俺の彼女を寝取っていることを。

そして、俺という「真面目なガリ勉」が、何も知らずにのうのうとしている様を嘲笑っているのだ。

優越感。背徳感。

他人の大切なものを汚し、それを嘲ることでしか自尊心を満たせない哀れな生き物たち。


「そういえばさ、一ノ瀬ってお前のことすげー褒めてたぜ? 『翔太は優しくて、何も言わなくても分かってくれる』ってよ」

「へえ、そうか」

「大事にしてやれよ? まあ、お前みたいな堅物じゃ、あの子の『本当の良さ』を引き出せてるかは怪しいけどなw」


挑発だ。

明らかに、自分の方がレナを深く知っている、お前は表面しか知らない、とマウントを取ってきている。

本来なら、ここで激昂して殴りかかるのが彼の期待するリアクションなのだろう。

だが、俺の心は氷のように冷たかった。

彼が「本当の良さ」と呼ぶものが、ただの肉欲と裏切りにまみれた醜態であることを、俺はもう知っている。


俺は黒木の顔をまっすぐに見つめ、口角をわずかに上げた。


「ああ、大事にするよ。最後まで、きっちりと『責任』を持つつもりだ」


俺の言葉に、黒木は一瞬きょとんとした顔をした。

俺の目があまりに真剣で、そしてどこか不気味な光を宿していたからかもしれない。

だが、すぐにまた薄ら笑いを浮かべて、「真面目すぎんだよ、バーカ」と捨て台詞を吐いて去っていった。


遠ざかる背中を見送りながら、俺は心の中で彼に告げた。

(その「責任」の意味を、君もすぐに知ることになる。未成年だからといって、許されると思わないことだ)

彼への制裁も、既に準備済みだ。

彼が大切にしている「クラス内での地位」も、親の金も、遊び場も、全て奪い去ってやる。

それが、彼が俺に向けた嘲笑への対価だ。


***


決戦の日曜日は、皮肉なほどの快晴だった。

朝から家の中は慌ただしかった。

母さんは「せっかくのお祝いだから」と新しいワンピースを着て鏡の前で念入りに化粧をしているし、父さんも普段より高い整髪料を使って髪を整えている。


「翔太、ネクタイ曲がってるぞ。今日は一ノ瀬さんたちとの大事な席なんだ。ビシッとしなさい」


父さんが俺のネクタイを直しに来てくれた。

その顔は誇らしげで、息子が立派に成長し、良きパートナーと共に人生を歩もうとしていることを心から喜んでいるようだった。


「ありがとう、父さん。……ごめんね」

「ん? なんだ、改まって」

「いや、なんでもないよ」


これから起こることを思えば、胸が痛まないと言えば嘘になる。

両親はレナを本当の娘のように可愛がっていた。

今日の食事会が、その関係を断ち切る場になることは、彼らにとって残酷なショックとなるだろう。

だが、隠し通して結婚し、後で発覚して泥沼になるよりは、今ここで膿を出し切る方が彼らのためでもある。

そう信じるしかなかった。


午後5時。

俺たちは、街一番の高級ホテルの最上階にあるレストランへと向かった。

予約席には、既に一ノ瀬家の面々が到着していた。

窓からは美しい夕暮れの街並みが見渡せる、最高のロケーションだ。


「やあ、待っていたよ! 今日は主役の到着が最後だなんて、大物だなぁ翔太くんは!」


レナの父、剛志さんが豪快に笑って立ち上がり、俺の肩を叩いた。

その隣では、美恵子さんが微笑んでいる。

そしてレナは、清楚な白いワンピースに身を包み、俺を見てはにかんでいた。


「ごめんなさい、道が少し混んでいて」

「いいのよ。私たちも着いたばかりだから。さあ、座って」


席に着くと、和やかな雰囲気の中で食事が始まった。

前菜が運ばれ、会話が弾む。

話題の中心は、もっぱら俺の大学推薦の話と、これからの二人の将来についてだ。


「翔太くんが推薦取れれば、レナも安心だ。二人で同じ東京の大学に行ければ一番いいんだがな」

「そうですね。レナには、僕がしっかり勉強を教えますから」

「頼もしいなぁ! 翔太くんがいれば、うちの娘も安泰だ。なあ、レナ?」

「うん、お父さん。翔太がいれば、私、なんだってできる気がするの」


レナが俺を見つめる目は、演技とは思えないほど澄んでいた。

彼女の中で、「浮気をしている自分」と「翔太の良きパートナーである自分」は、完全に矛盾なく共存しているのだろう。

バレなければいい。翔太は優しいから大丈夫。

そんな甘えと侮りが、彼女の思考を麻痺させている。


ふと、レナがテーブルの下でスマホを操作しているのが見えた。

俺は自分のスマホをポケットの中で操作し、以前仕込んでおいたミラーリング機能で画面を確認した。

表示されていたのは、黒木とのLINE画面だった。


『今、食事会なう。親たちが盛り上がってて超ダルいw』

『お疲れー。相沢のやつ、どんな顔してんの?』

『なんかニヤニヤしてる。私が自分のこと好きだと思ってるんだろうなー。単純で笑える』

『マジでw まあ、そいつに飯奢らせて、後で俺と遊ぼうぜ』

『うん! 今日は早めに切り上げて、夜そっち行くね♡』


画面の中の文字が、俺の網膜に焼き付く。

目の前で「翔太がいればなんでもできる」と言った数秒後に、この書き込みだ。

怒りを通り越して、感心すら覚えるほどのクズっぷりだった。

俺はスマホをポケットにしまい、グラスの水を一口飲んだ。

冷たい水が喉を通り、胃の中に落ちていく感覚を確認する。


「……翔太? どうしたの、顔色が少し悪いみたいだけど」


レナが心配そうに顔を覗き込んできた。

その手は、俺の腕に触れようとしている。

俺はさりげなくその手を避け、ナプキンで口元を拭った。


「いや、大丈夫だよ。ただ、少し緊張しているだけだ」

「緊張? どうして? 知ってる人ばかりなのに」


不思議そうに首を傾げるレナ。

その無知さが、今は哀れでならない。

俺は彼女の目を見て、静かに、しかしはっきりと告げた。


「今日は、とても『大切なお話』があるからね」


俺の言葉に、剛志さんと美恵子さん、そして俺の両親も注目した。

彼らは皆、俺がレナへのプロポーズめいた宣言でもするのだと期待している表情だ。

剛志さんに至っては、「おっ、ついに男を見せるか!」とばかりに身を乗り出している。


鞄の中から、あのクリアファイルを取り出す。

その重みは、俺たちの十数年の関係の重みであり、そして彼女の罪の重さだ。

テーブルの上に置かれたファイルは、高級なテーブルクロスの上で異質な存在感を放っていた。


「……翔太、それは?」


レナの声が、少しだけ震えた。

本能的に、何かがおかしいと察知したのかもしれない。

だが、もう遅い。

賽は投げられた。いや、俺が投げたのだ。


「食事の途中ですが、聞いていただきたいことがあります」


俺は椅子から立ち上がり、全員の顔を見渡した。

そして最後に、レナの両親に向かって深々と頭を下げた。


「お父さん、お母さん。……そしてレナさん」


会場の空気が一変する。

期待に満ちた空気が、得体の知れない緊張感へと変わっていく。

俺は震える手ではなく、確固たる意志を持った手で、ファイルの表紙を開いた。


「申し訳ありません。僕の力では、レナさんを正しい道に引き戻すことができませんでした」


その言葉が合図だった。

これから始まるのは、温かな食事会ではない。

信頼という名の皮を被った怪物を解体する、誠実なる断罪の儀式だ。


俺の視界の端で、レナの顔から血の気が引いていくのが見えた。

だが、俺はもう彼女を見ない。

俺が見ているのは、これから訪れる「正しさ」だけだった。

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