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第1話 信頼の亀裂と冷徹な確証

「翔太くん、もう少し野菜も食べなさいよ。相沢さんのところの教育はどうなってるのかしらね」


冗談めかした口調で笑うのは、向かいの席に座る一ノ瀬家の母、美恵子さんだ。上品な白のブラウスに身を包み、ワイングラスを傾けている。


「おいおい、うちの息子は好き嫌いなんてしないさ。ただ、レナちゃんのお母さんの手料理が美味しすぎて、肉ばかりに箸が進んでしまうんだろ?」

「あらやだ、お上手なんだから」


俺の父が陽気に返すと、テーブルを囲む全員がどっと笑った。リビングの暖色系の照明が、並べられた料理を鮮やかに照らし出している。

今日は月に一度の、相沢家と一ノ瀬家の合同食事会だ。

俺、相沢翔太と、隣に座る一ノ瀬レナは、家が隣同士で、生まれた時からの幼馴染だ。幼稚園から小学校、中学校、そして今の高校に至るまで、俺たちは常に一緒に時を過ごしてきた。

親同士も昔からの友人で、こうして定期的に集まっては食事をするのが恒例行事となっている。


「でも、本当にもう高校三年生か。二人がランドセルを背負っていたのが昨日のことのようだな」


一ノ瀬家の父、剛志さんが感慨深げに呟いた。厳格で曲がったことが大嫌いな性格だが、娘のレナと俺に対してだけは、いつも穏やかな表情を見せる。


「翔太くん。レナは少し抜けているところがあるから、受験勉強の方も見てやってくれているかい?」

「はい、もちろんです。レナは基礎ができているので、少しコツを掴めばもっと伸びますよ」

「そうかそうか。翔太くんがついていれば安心だ。……ゆくゆくは、な」


剛志さんは言葉を濁したが、その「ゆくゆくは」の意味を理解していない者はここにはいない。大学を卒業し、社会人になり、いずれは二人が結婚して家同士が本当の意味で親戚になる。

この場にいる親たち全員が、それを疑っておらず、そして望んでいる。

俺自身もそうだった。隣で澄まし顔でオレンジジュースを飲んでいるレナの横顔を見る。長く手入れされた黒髪、整った目鼻立ち。クラスでも評判の美少女である彼女が、俺の婚約者同然の存在であること。

それは俺にとっての誇りであり、守るべき一番の宝物だった。


「もうお父さんったら、気が早すぎだってば。翔太が困ってるじゃない」


レナが少し頬を膨らませて抗議すると、また笑いが起きる。

テーブルの下で、レナの手がそっと俺の手に触れた。俺が握り返すと、彼女は少しだけ指に力を込め、甘えるように俺の方へ体を寄せてくる。

この温もりこそが真実であり、永遠に続くものだと信じていた。

少なくとも、この瞬間までは。


***


違和感を覚えたのは、その食事会から数週間が過ぎた頃だった。

季節は梅雨に入り、連日の雨がアスファルトを黒く濡らしていた。湿気を帯びた空気が教室に充満し、生徒たちの気だるさを助長させている。


「ねえ相沢、この前の模試どうだった?」

「まあまあかな。数学は目標点に届いたけど、英語が少し」

「相沢の『まあまあ』は信用できないんだよなー。どうせまた学年トップだろ」


友人と他愛のない会話をしながら、俺は視線を教室の後方へと向けた。

そこには、派手な笑い声の中心にいる男、黒木大輔の姿がある。

着崩した制服、過剰な整髪料で固めた髪、そして教師の目を盗んではスマホをいじる不真面目な態度。クラスのカースト上位に君臨する彼は、俺のような真面目な生徒とは対極に位置する存在だ。

普段なら関わることもないし、視界に入れる価値もない。

だが、最近の俺はどうしても彼を目で追ってしまう。


「おい一ノ瀬ぇ、お前マジで真面目すぎんだよ。もっと肩の力抜けって」


黒木が、通りがかったレナに声をかけた。

レナは教科書を抱え、少し困ったような、それでいて嫌悪感を露わにはしない曖昧な笑顔で立ち止まる。


「黒木くん、授業始まるから席に戻った方がいいよ」

「へいへい、優等生サマは厳しいねぇ」


黒木はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、すれ違いざまにレナの肩に手を置いた。

一瞬のことだ。

レナの肩が小さく跳ねる。彼女はすぐにその手を振り払うでもなく、ただ小さく会釈をして俺の元へと歩いてきた。


「……何かされた?」


俺が小声で尋ねると、レナはいつもの可憐な笑顔で首を振った。


「ううん、なんでもない。黒木くんってば、いつもあんな感じで困っちゃう」


そう言って笑う彼女の表情は完璧だった。

幼馴染の俺が見ても、そこには「迷惑なクラスメイトに絡まれた優等生」という記号的な反応しか読み取れない。

だが、俺の鼻腔を微かにくすぐった香りが、脳内の警鐘を鳴らした。

レナが通り過ぎた瞬間に漂った香り。それは彼女が愛用しているフローラル系のシャンプーの香りではなく、もっとスパイシーで、鼻につくようなムスク系の残り香だった。

それは先ほど、黒木の周りに漂っていた安っぽいコロンの臭いと酷似していた。


(考えすぎだ。廊下ですれ違った時に匂いが移っただけかもしれない)


俺は自分の中の黒い疑念を必死に押し込めた。

レナに限ってそんなことはない。あんなに厳格な家庭で育ち、俺との将来を親公認で約束されている彼女が、あんな不良と関わりを持つはずがない。

そう自分に言い聞かせながら、俺は次の授業の準備を始めた。

しかし、一度芽生えた疑念の種は、雨水を吸って瞬く間に根を張り始めていた。


放課後、俺は図書室へ向かおうとしてレナを誘った。


「ごめん翔太、今日はパス。進路指導室に呼ばれてて、その後も先生の手伝いがあるから遅くなるの」

「そうか。じゃあ駅で待ち合わせして一緒に帰ろうか?」

「ううん、いつ終わるか分からないから。先帰ってて」


レナは申し訳なさそうに眉を下げ、合わせるように手を合わせた。


「分かった。あまり無理するなよ」

「うん、ありがとう翔太。大好きだよ」


その言葉に嘘はないと思いたかった。

だが、彼女が教室を出て行った後、俺はすぐには帰宅しなかった。

進路指導室は職員室の隣にある。俺は用事があるフリをして職員室の前を通り過ぎたが、進路指導室の扉は開いており、中は無人だった。

先生の手伝いといっても、今はテスト期間前で職員室への入室は制限されているはずだ。

心臓の鼓動が早くなる。嫌な汗が背中を伝う。

俺は下駄箱へ向かい、自分の靴を履き替えると、校門の影に身を潜めた。

探偵ごっこのような真似はしたくない。自分の彼女を疑って尾行するなんて、最低の行為だという自覚はある。

それでも、確認せずにはいられなかった。この胸のつかえを取り除き、「なんだ、俺の勘違いだったじゃないか」と笑って安心したかったのだ。


十分ほど待っただろうか。

生徒たちの波が引いた頃、校門からレナが出てきた。

先生の手伝いなど嘘だったことは明白だ。彼女は携帯を耳に当て、楽しそうに何かを話している。

そして、その数メートル後ろから、黒木が歩いてきた。

二人は校門を出てしばらくは距離を保っていたが、人通りの少ない路地に入った瞬間、磁石が吸い寄せられるように距離を詰めた。

黒木が馴れ馴れしくレナの腰に手を回す。

レナはそれを拒絶するどころか、自分から彼の肩に頭を預けた。


「……嘘だろ」


喉の奥から乾いた音が漏れた。

俺の脳裏に、先日の食事会での光景がフラッシュバックする。

親たちの前で見せた、あの慎ましやかな笑顔。俺の手を握り返してきた指先の感触。

それら全てが、一瞬にして色あせた偽物に見えてくる。

怒りが湧くよりも先に、俺の心を満たしたのは、底知れぬ冷たさだった。

まるで体温が急速に奪われていくような感覚の中で、俺の思考だけが、奇妙なほど冷静に回転を始めた。


今ここで飛び出して、二人を問い詰めるべきか?

「何をしているんだ」と怒鳴り込み、レナを連れ戻すべきか?

いや、それは悪手だ。

二人はまだ「一緒に歩いているだけ」と言い逃れができる状態だ。腰に手を回している程度なら、「ふざけていただけ」「無理やりされた」と言い訳される可能性がある。

レナは頭の回転が速い。俺が感情的になればなるほど、彼女は被害者を装い、俺を「嫉妬深い束縛彼氏」に仕立て上げるだろう。

それに、もしここで騒ぎになれば、何も知らない両親たちに中途半端な形で情報が伝わってしまう。

俺の両親はともかく、レナの両親は厳格だ。確たる証拠もなしに娘の不貞を突きつけられても、信じようとはしないかもしれない。むしろ、俺が娘を侮辱したと激怒する可能性すらある。


(……証拠がいる)


言い逃れのできない、客観的で、致命的な証拠が。

俺は震える手でスマートフォンのカメラを起動し、遠目から二人の後ろ姿を一枚だけ撮影した。

解像度は荒いが、レナの特徴的なバッグと、黒木の派手な髪型ははっきりと写っている。

だが、これだけでは足りない。

俺は感情のスイッチを切り替えた。

恋人としての「相沢翔太」はここで死んだ。今ここにいるのは、自分と家族の名誉を守るために事実を解明する「調査者」だ。


その日以降、俺の行動は一変した。

レナに対しては、今まで通り接した。「優しい彼氏」の仮面を被り、彼女の嘘に気づいていないフリを続けた。

彼女の嘘は日に日に雑になっていった。

「友達と勉強会」「部活の延長」「母さんの買い物に付き合う」。

その全てを、俺は笑顔で「頑張ってね」「偉いね」と肯定した。

肯定されるたびに、レナは安堵し、そして微かに俺を侮るような目をするようになった。「翔太はチョロい」「私が何をしても疑わない」と、そう思っているのが手に取るように分かった。


俺は並行して、証拠収集を進めた。

まずは、黒木のSNSだ。

彼は鍵付きのアカウントを持っていたが、別のアカウントを経由してフォロワーの繋がりを解析し、彼の取り巻きの女子の公開アカウントから、黒木の行動パターンを把握した。

黒木の部屋と思われる写真がアップされているのを見つけると、その背景に映り込んでいる小物を詳細にチェックした。

見覚えのあるピンク色のシュシュ。レナが俺とのデートでつけていたものだ。

さらに、テーブルの上に置かれたコンビニのレシート。日付と店舗名が読み取れる。

俺はそれを保存し、自分の手帳に記録している「レナが嘘をついて会えなかった日」と照合する。

完全に一致した。


次に、物理的な行動確認だ。

レナのスマホを見ることはリスクが高い。だが、俺たちは家族ぐるみの付き合いで、お互いのスマホのパスコードを知っている(と彼女は思っているが、俺は彼女が最近パスコードを変えたことを知っていた。指の動きを盗み見て、新しいコードも把握済みだ)。

ある日、レナがトイレに立った隙に、俺は彼女のスマホを起動した。

LINEの通知設定はオフになっていたが、アプリを開けば履歴は残っている。

『大ちゃん』という登録名のトークルーム。

そこには、目を覆いたくなるようなやり取りが並んでいた。


『昨日はマジよかった。レナ、あんな声出せんだなw』

『もう、大輔くんのエッチ。翔太にはあんなことされたことないよ』

『あいつ真面目っ子だもんなー。つまんなくね?』

『うん、退屈。でも結婚するなら翔太かな。親もうるさいし、お財布としては優秀だし』

『うわ、悪女w でもそういうとこ好きだわ』

『今度はいつ会える? 親には塾の合宿って嘘つくから、またお泊まりしたい』


指先が冷たくなる。

怒りというよりも、吐き気がした。

俺との将来を「退屈」と断じ、親への信頼を「嘘をつくための道具」として利用している。

俺が大切にしてきた「誠実さ」や「信頼」は、彼女にとっては何の価値もない、ただの「使い勝手のいい鎖」でしかなかったのだ。

俺は冷静に、トーク履歴をスクロールし、画面全体を自分のスマホで撮影した。

スクショを転送すると履歴が残る可能性があるため、アナログだが確実な方法を選んだ。

生々しい言葉の数々、きわどい写真の送り合い。その全てを、俺は事務的に記録していく。

トイレの水が流れる音が聞こえ、俺は素早くスマホを元の位置に戻した。


「お待たせー。あ、そのケーキ美味しそう」


戻ってきたレナは、何も知らずに俺の皿の上のケーキを指差した。

数分前まで、間男に「翔太は退屈」と送っていたその口で、俺に笑いかけている。

そのグロテスクなまでの二面性に、俺は恐怖すら覚えた。

もし俺が気づかなければ、このまま騙され続け、結婚し、一生をこの「仮面の妻」と過ごしていたかもしれないのだ。

そう考えると、黒木という存在に感謝すらしたくなった。彼のおかげで、俺はこの地獄の入り口で踏みとどまることができたのだから。


「うん、美味しいよ。レナも食べる?」

「いいの? あーん」


俺は笑顔でケーキを彼女の口に運んだ。

これが、彼女に対する最後の慈悲だ。

これから俺が振り下ろす鉄槌に比べれば、この甘いクリームの味など、記憶にも残らないだろう。


証拠は揃いつつあったが、最後の一手が必要だった。

「浮気をしていました」という事実だけでなく、「俺の力ではどうにもならなかった」という証明だ。

単に浮気を暴くだけなら、今すぐこのLINEを親に見せればいい。

だが、それでは足りない。

レナの両親は厳しいが、娘を溺愛してもいる。下手をすれば「魔が差しただけ」「相手の男にたぶらかされた」として、レナを擁護し、内々で処理して終わらせようとするかもしれない。

それでは意味がない。俺が受けた裏切りに見合うだけの、社会的・精神的な制裁が必要だ。

そのためには、俺が「誠実な被害者」であり、レナが「救いようのない加害者」であることを、誰もが認めざるを得ない舞台が必要だった。


チャンスはすぐに訪れた。

来月、黒木の誕生日があることをSNSの調査で知っていた。

そしてレナが、「進路合宿」という名目で、二泊三日の外泊許可を親から取ろうとしていることも、彼女の親との会話から把握していた。

場所は黒木の親が所有する別荘だということも、彼らのLINEから判明している。


決行日はそこに定めた。

俺は、探偵顔負けの機材を準備した。

高感度カメラ、ボイスレコーダー。そして、今までの調査結果をまとめた時系列の資料。

それらを整理しながら、俺は淡々と計画を練り上げた。

感情はいらない。涙もいらない。

必要なのは、残酷なまでの事実と、それを提示する完璧なタイミングだけだ。


「翔太、来週末なんだけどさ、学校の選抜メンバーで勉強合宿があるんだ」


数日後、予想通りレナが切り出してきた。

夕暮れの帰り道、二人の影が長く伸びている。


「へえ、すごいな。選抜メンバーなんて」

「うん、だからスマホとかも没収されちゃうかも。連絡つかなくなっても心配しないでね」

「分かった。応援してるよ。……頑張ってね」


俺は彼女の目を見て、深く頷いた。

その「頑張ってね」には、「精一杯、地獄への階段を登ってくれ」という皮肉が込められていたが、レナがそれに気づくはずもない。


「ありがとう! 翔太大好き!」


彼女は俺に抱きつき、頬にキスをした。

その唇の感触を、俺は一生忘れないだろう。

愛しさからではない。

これが、俺たちが「恋人」として交わす、最後の接触になるからだ。


迎えた合宿(という名の不倫旅行)の当日。

俺はレナを見送った後、すぐに動き出した。

目的地は黒木の親の別荘がある避暑地だ。

電車を乗り継ぎ、現地へ向かう。

心は不思議と凪いでいた。

これから目にする光景が、自分を深く傷つけることは分かっている。

だが、それ以上に、この茶番劇に終止符を打てるという安堵感があった。


別荘の近くに潜み、数時間を過ごした。

やがて、一台の高級車が到着し、中から黒木とレナが降りてきた。

周囲に誰もいないことを確認すると、二人は路上で熱烈なキスを交わした。

シャッター音が静寂を切り裂くことはない。俺のカメラは無音だ。

レンズ越しに見る幼馴染の姿は、まるで知らない他人のようだった。

いや、あれが彼女の本性なのだ。俺が見ていた清楚なレナこそが、虚像だったのだ。


二人が別荘の中に入り、しばらくして二階の部屋の明かりがついた。

カーテンが閉められる瞬間、二人が抱き合いながらベッドに倒れ込むシルエットが見えた。

十分だ。これ以上見る必要はない。

俺は冷え切った指先でカメラの録画を停止し、データを保存した。

この映像が、彼女の人生を終わらせる凶器になる。

そして、俺の人生を新しい場所へと進めるための鍵にもなる。


帰りの電車の中、俺は一通のメッセージを作成した。

宛先は、俺の両親と、レナの両親を含めたグループLINE。

文面はシンプルに、しかし断りようのない内容で。


『大学の推薦が決まりそうなので、ご報告と御礼を兼ねて、来週の日曜日に食事会を開きたいです。大切なお話があります』


送信ボタンを押す。

既読がつく。

すぐに「おめでとう!」「楽しみにしているよ」という返信が次々と届く。

レナの父親からは『娘も喜ぶだろう。一番高い店を予約しておこう』というメッセージまで来た。


画面を見つめながら、俺は小さく息を吐いた。

舞台は整った。

あとは、その幕を上げるだけだ。

「大切なお話」の意味を、彼らが知るのは一週間後。

その時、この「親公認」という温かい檻は崩壊し、中から醜悪な真実が溢れ出すことになる。


窓の外を流れる夜景を見ながら、俺は誰にも聞こえない声で呟いた。


「さようなら、レナ」


それは、かつて愛した少女への、本当の別れの言葉だった。

電車の揺れに身を任せながら、俺は静かに目を閉じた。

瞼の裏には、もう彼女の笑顔は浮かばなかった。

あるのはただ、整理された証拠ファイルと、来るべき「断罪の日」への静かな決意だけだった。

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