第六十二話 その一歩
ナナミの指先が、依頼書の端に触れた。
紙を引き抜くと、乾いた音がして内容が露わになる。
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《討伐・採取依頼》
対象座標:X-34、Y27、Z-165
区域:鉱脈マリモ群生帯
報酬:最低報酬金貨1枚+鉱石回収分
討伐対象:スケイル・フィッシュ
鉱石を捕食し、鱗が硬質化した中型海魔。
鉱脈マリモを食い荒らし、資源被害が拡大中。
早期討伐および残存鉱石の回収を求む。
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「……深度、165……」
思わず、息を呑んだ。
今まで潜ってきたのは、せいぜい60前後。
150を超える数字は、依頼書の上で見るだけでも重みが違う。
「……大丈夫、かな……」
胸の奥に、ひやりとした感覚が走る。
その瞬間──
(ナナミ)
アストラルの声が、落ち着いた響きで届いた。
(今までにない深度だから、不安になるのは当然よ)
「……うん」
(でもね)
少し、声が柔らぐ。
(訓練を重ねた今のナナミなら、対応できる)
(私の太鼓判でも……まだ不安?)
問いかけに、ナナミはすぐ答えられなかった。
怖い。
正直に言えば、それは間違いない。
深くなればなるほど、光は薄れ、
水圧も、魔力消費も、敵の質も変わる。
「……行ったことないし不安、だよ」
小さく、けれどはっきりと言った。
「でも……」
ブルーランスの感触を、思い出す。
フィアスの言葉。
アストラルの確信。
「アストラルが、そう言うなら……挑戦してみたい、って……思う」
一歩、前に出るために。
(……そう)
アストラルの声に、微かな誇らしさが混じった。
(その覚悟があれば、十分よ)
ナナミは、依頼書を胸に抱き、受付へ向かった。
* * *
「……深度165?」
ブレイカーは、依頼書を見て眉をひそめた。
「いきなり150超えか」
ブレイカーはナナミを見つめる。
「ナナミ、お前……魔力量は多い方じゃないだろ」
責める口調ではない。
心配しているのが、はっきり分かる。
「はい……」
ナナミは、正直に頷いた。
「でも……危ないと感じたら、すぐ撤退します」
その言葉に、ブレイカーはナナミの顔を見つめる。
逃げ腰ではない。
無謀でもない。
状況を分かって、なお挑む目。
「……ふぅ」
短く息を吐き、依頼書に判を押した。
「……ブロンズ級で資格はある。よし。受託だ」
そして、少しだけ声を低くする。
「気をつけろよ」
「お前になにかあったら……ミストが悲しむ」
「……っ」
思わず、胸がきゅっとなった。
「はい。必ず、無事に戻ります」
「その言葉、忘れるな」
ブレイカーは、それ以上何も言わなかった。
* * *
装備を整え、港へ向かう。
青い槍身が、朝の光を受けて静かに輝いていた。
(行きましょう)
「うん」
ナナミは、深く息を吸い──
海へ、身を投じた。
* * *
水が、全身を包み込む。
泡が弾け、光が揺れる。
潜海証が示す深度は50。
それを過ぎ、深度100。
周囲の色が、ゆっくりと青から藍へ変わっていく。
「海の色が……深くなってきた」
耳鳴りのような静けさ。
水圧が、じわじわと身体にのしかかる。
(問題ないわ。落ち着いて)
突如──
三体の海魔が現れる。
アシカ型の中型海魔、サージ・オッターが一頭。
魚型の小型海魔、シェード・フィッシュが二匹。
「……っ!サージ・オッター……!それもシェードまで同時に!」
サージ・オッターが、低く唸るような鳴き声を発した。
丸い体躯に似合わない鋭い牙。
前肢のヒレを広げ、こちらを威嚇するように水を蹴る。
その周囲を、シェード・フィッシュが二匹。
光を嫌う黒い影のような魚体が、ゆらり、ゆらりと距離を詰めてくる。
ナナミの喉が、きゅっと鳴った。
(……三体同時)
深度100を超えた地点。
逃げ場の少ない中層域。
鼓動が、少しだけ早くなる。
(ナナミ)
アストラルの声が、すぐに重なった。
(慌てないで。訓練した通りよ)
「……っ」
(まず、魔力)
アストラルの声は冷静だった。
(“溜めない”。循環させて、流し続ける)
(深度が深いほど、一気に使うと息切れするわ)
ナナミは、はっとして呼吸を整える。
胸の奥で、魔力を“溜める”癖。
それをやめ、ゆっくりと全身へ巡らせる。
肩。
背中。
脚。
水圧に押されていた身体が、少し軽くなった。
(そう。今の動き方なら、無駄がない)
サージ・オッターが、こちらへ突進の体勢に入る。
(次に、防御)
アストラルの声が、左腕を示す。
(アームガードを意識して)
(受け止めるんじゃない。“いなす”のよ)
ナナミは、左腕に装着したアームガードを見る。
淡い黒鉄で補強された装甲。
訓練では、何度もそれで衝撃を流す練習をした。
(真正面で受けない)
(角度をつけて、水ごと弾く)
「……うん」
ブルーランスを構え直し、
左半身をわずかに前へ。
(シェード・フィッシュは視界の端でいい)
(先に来るのは……)
「サージ・オッター……!」
(ええ。主導権を渡さないで)
アストラルの声は、最後に少しだけ柔らいだ。
(ナナミ)
(あなたは、もう“潜れる”わ)
ナナミの不安が、すっと静まる。
訓練の日々。
積み重ねた失敗と成功。
そして今、手にした相棒。
ナナミは、槍を強く握った。
ここからが──
本番だ。
──続く




