第六十話 揺れる心と、変わらない優しさ
紅茶の湯気が、ゆっくりと天井へ昇っていく。
ニーナの
「来てくれたら、私嬉しい」
という言葉が、まだ胸の奥に残る。
けれど──
ナナミは、すぐに答えを返すことができなかった。
「……ごめんなさい」
声は小さく、でも逃げなかった。
「今は……決められなくて……」
ニーナは、驚いた様子も見せず、ただ静かに頷いた。
「うん」
それだけだった。
責めるでも、急かすでもない。
その沈黙に背中を押され、ナナミは言葉を続ける。
「……ニーナさん、前に……覚えてますか?
ギガント・ホエールで……バニッシュと会った時」
ニーナの表情が、少しだけ引き締まる。
「覚えてるよ」
夕焼けの海。
ダインの声。
肩を掴まれた感触。
思い出すだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
「……あの時、みなさんに話しましたけど……」
「頭では……もう大丈夫だって思ってても……」
ナナミは、カップの縁を指でなぞった。
「クランって聞くと……」
「また、ああなるんじゃないかって……」
声が、わずかに揺れる。
「役に立たないって言われて……怖くなって……」
癒えきってはいない“感覚”だけが、今も残っている。
ニーナは、遮らずに聞いていた。
「……正直に話してくれて、ありがとう」
そう言ってから、にこっと笑う。
「じゃあさ」
「今日は、その答え、聞かなくていいね」
「……え?」
「無理に誘うのはしない」
あまりにもあっさりしていて、ナナミは目を瞬かせた。
「だってさ」
「ナナミちゃんが怖いまま入るクランなんて、意味ないもん」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。
ニーナは、ふと話題を変えた。
「そういえばさ」
「さっき宿屋で見たフロート・カニ」
「あ……うん」
「前に一緒に潜った時、言ってたよね」
「宿の人たちにお礼したい、連れて帰りたいって」
ナナミは、小さく頷いた。
「あの時さ、自分の依頼でも報酬でもないのに……ナナミちゃん、迷わなかった」
ニーナは、少し照れたように笑う。
「ナナミちゃんの、そういうところ……私は、すごく好き」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
「人のために動けるダイヴァーってね、簡単そうで……なかなか出来ないんだよ」
ニーナは、まっすぐナナミを見る。
「だから私は、ナナミちゃんに来てほしいって思った」
それ以上、クランの話はしなかった。
その“引き際”が、ナナミの心を強く揺らした。
* * *
喫茶店を出たあと、二人は店先で別れた。
「また、一緒に潜ろうね!それだけは、約束!」
「……はい」
夕暮れの街を歩きながら、
ナナミは胸元の金色の石が入った子袋をそっと抱えた。
「ルミナ……アストラル……わたしどうしたらいいのかな……」
(ふふ。ニーナはナナミの事、とても気に入っているようね)
* * *
宿に戻り、部屋で静かに目を閉じる。
(ナナミ、少し魔力を巡らせましょう)
「うん……やってみる」
アストラルとともに行う、ゆっくりとした魔力循環の訓練。
呼吸に合わせ、魔力が身体をなぞる。
(怖さが残るのは、弱さじゃない)
(それでも向き合おうとしている。それが強さよ)
その言葉に、ナナミは小さく頷いた。
「アストラルがいるお陰で……わたしは心も少しずつ強くなれてる。ありがとう」
髪飾りに宿る女性の、微笑んだ小さな声が聞こえた。
* * *
夕食の時間。
食堂には、香ばしい匂いが満ちていた。
白身魚の香草焼き。
貝と野菜の濃厚スープ。
木の実が入った焼きたてのパン。
「いっぱい食べてね」
ダイアンが、にこやかに言う。
「ナナミちゃんが連れてきてくれたフロート・カニね」
「フレデリカもテリィも、ずっと水槽にべったりなのよ」
「それにね……カニを見に来るついでに食事するお客さんも増えたの」
厨房では、スコットが黙々と皿を仕上げていたが、
ふと手を止め、一言だけ。
「……ありがとう」
それだけで、十分だった。
胸が、じんわりと温かくなる。
「……よかった」
料理は、どれも優しい味がした。
今日もまた、誰かの役に立てた。
それが、何より嬉しかった。
(……ひとりじゃない)
まだ答えは出ていない。
でも──
ナナミの心は、確かに“前より少し軽く”なっていた。
──続く。




