第五十九話 休日の泡音
グリーンリーフ堂の扉を閉め、通りに出たところで──
ナナミはふっと肩の力が抜けた。
(……武器、預けちゃったなぁ)
腰にあるはずのスピアーランスの重みがないことに、今さら気づく。
(ナナミ)
すぐそばで、アストラルの静かな声がした。
(今日はもう海に潜るのはやめておいた方がいいわね。
昨日は激しい戦いだったし……それに、武器もないでしょう?)
「……うん」
ナナミは素直に頷いた。
(休みなさい。たまには“何もしない日”も必要よ)
「……そうだね」
そう答えながら歩き出したとき、ふと脳裏をよぎる色があった。
──若草色。
前回の休みの日、受付嬢ミストに連れられて入ったブティック。
少しだけ背伸びして買った、やわらかな若草色のワンピース。
「……せっかくの休み、だし」
ナナミは踵を返し、宿屋へと戻った。
* * *
部屋で着替えを済ませ、鏡の前に立つ。
ひらりと揺れるスカート。
海風を思わせる淡い緑が、なんだか胸をくすぐった。
「……変じゃ、ない?」
(大丈夫よ。よく似合ってる)
アストラルの穏やかな言葉に、ナナミは少し照れたように笑う。
そして宿屋を出る前、いつものようにフロントへ声をかけに行くと──
「……あ」
フロント脇に置かれた水槽の前に、人影があった。
水槽の中では、ナナミが連れてきた二匹のフロート・カニがぷかぷかと宙に浮かび、
小さな泡をぷくり、ぷくりと吐いては、それを追いかけて遊んでいる。
泡が弾けるたび、きらりと光が散った。
「……かわいい……」
その様子を、じっと目を細めて眺めている女性がいる。
潮騒の宴クランの──ニーナだった。
「あれ、ナナミちゃん?」
振り向いたニーナが、ナナミの姿を見てぱっと表情を明るくする。
「そのワンピース……すっごく可愛い!」
「えっ……ほ、ほんと?」
「うん! すごく似合ってる!」
屈託のない笑顔に、ナナミの頬が少し熱くなる。
「ニーナさんは……今日はお休みですか?」
「そうなの。今日はオフ!
だからここ“海辺の子ブタ亭”でご飯食べててね!美味しかった!」
ニーナは水槽に目を戻し、ふふっと笑う。
「帰る前にこの子たち見てたの。
ほら、泡で遊んでるのが可愛くてさ」
まるで示し合わせたかのように、
フロート・カニたちは同時に泡を吐き、
ふわりと浮いた泡を、ちょきちょきとハサミで突こうとしていた。
泡は逃げ、カニは追い、
そして弾ける──ぱちん。
二人は思わず顔を見合わせ、くすっと笑った。
* * *
「……あの、もしよかったら」
ナナミが少しだけ勇気を出して言う。
「私も今日はお休みなんです。
よかったら……一緒に、お茶でも……」
「いいの!? 行く行く!」
ニーナは即答だった。
向かったのは、以前ミストに案内された小さな喫茶店。
落ち着いた木の香りと、紅茶のやさしい蒸気が満ちている。
二人は窓際の席に座り、
紅茶と、クリーム入りのふわふわシフォンケーキを注文した。
「……これ、美味しそう……」
「でしょ? ミストさんに教えてもらった! 私ここ好きなんだ」
ナイフを入れると、しゅわっと空気を含んだ音がした。
口に入れると、もこもこして優しい甘みが口に広がる。
「わぁ……美味しい!」
優しい時間が過ぎていく。
他愛もない話。
最近の依頼のこと、街の噂、好きな食べ物。
その中で、ニーナはふと真剣な顔になる。
「ねぇ、ナナミちゃん」
「はい?」
「ナナミちゃんって……前のクランで嫌な思いしたから……やっぱりクラン入るのは嫌なんだよね?」
ナナミの手が、少し止まった。
「……」
「ナナミちゃんの過去は辛かったと思う、だから無理にじゃないよ?
でもね……」
ニーナは照れたように視線を逸らし、続ける。
「もし、ナナミちゃんがうちに来てくれたら……
私、嬉しい」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
(……クラン)
潮騒の宴。
一緒に戦い、声を掛け合い、背中を預け合った人たち。
一人で潜る自由。
でも、誰かと並ぶ温度。
ナナミの心が、ゆっくりと揺れる。
「……」
すぐには答えられなかった。
ただ、紅茶の表面に映る自分の顔が、
少しだけ迷っているように見えた。
──いままで感じたことがないこの気持ちに、まだ名前はない。
でも確かに、
ナナミの中で“何か”が、動き始めていた。
──次回へ続く。
【ナナミのお財布】
金貨24枚
銀貨23枚




