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アビス・グランブルー 〜クラン追放された最底辺ダイヴァー、わたしはやめたくなかった〜  作者: ロートシルト@アビス・グランブルー、第四章も毎日20時更新!
第三章 アイアン級

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第五十四話 グレイスの余白

 黒い血を撒き散らしながら──

 ワン・アイドの巨体が、海そのものを捻じ曲げる勢いでのたうった。


「グォオオオオオオオオッ……!!」


 両目を潰された海魔は激痛の中で暴れ、残った触手を見境なく叩きつける。

 海流は乱れ狂い、視界が渦のように歪む。


「まだ動くのかよ……ッ!」

「グレイスさんから離れろ、化け物ッ!!」


 アッシュとバルバスが牙を剥くように再び構えた。

 身体中が痛み、魔力も削られている。

 それでも──引く選択肢だけは存在しなかった。


「アッシュ! もう一発いけるか!?」

「もちろんです。いきますよ、バルバスさん!」


 二人は同時に魔力を込め直し、

 負傷した身体を無理やり動かしながら海を蹴った。


 ワン・アイドの触手が、彼らを迎え撃つように荒れ狂う。


「邪魔するなぁああァッ!!」


 バルバスのトライデントが、咆哮のような一閃を描く。

 雷鳴めいた魔力が触手に叩きつけられ──


 バチィィィンッ!!


 触手が痙攣し、その付け根から裂け飛ぶ。


「次は……こっちだ!!」


 アッシュのランスが光を帯びて突き進む。

 渾身の力を振り絞り、残りの触手へ狙いを定め──


 ズバァァァァンッ!!


 白い衝撃波がほとばしり、

 ワン・アイドの触手がさらに一本、黒い血を撒いて千切れる。


「グォオオオオオオオオオオ──ッ!!!」


 絶叫。

 痛みと怒りに染まった震動が海底まで響き渡る。

 海水が震え、波が揺れる。


「もう少しだ……!」

「ここで倒しきる!!」


 だが──その瞬間。


 ワン・アイドの身体が不気味に丸まり、

 残った触手が海水を巻き上げるように広がった。


「……来るぞ!!」

「全員、構えろッ!!」


 次の瞬間。


「グゥゥゥゥゥゥゥ……ォォォオオオ!!」


 海が、渦になった。


 いや──

 ワン・アイド自らが巨大な海流を発生させ、

 周囲の海水すべてを巻き込む大渦を作り出したのだ。


「うわっ……!!」

「身体が……動かない……!!」

「くそっ、流されるッ!!」


 ダイヴァーたちが次々に渦に囚われ、

 まるで海そのものに絡めとられたように身動きが取れなくなる。


 アッシュやバルバス、ゴールド級が魔力を込めても前へ進めなかった。


「グレイスさん……ッ! 離れて!!」

「このままじゃ巻き込まれる!!」


 しかし、グレイスはまだハープーンを握りしめたままだった。

 ワン・アイドの眼窩へ深々と刺さったその柄を、

 血で滑る手で、それでも必死に押し込み続けていた。


(ここで……逃すわけ……ない……!)


 しかし、海魔の渦は容赦がなかった。

 激しく海中が揺れ、視界が悪くなる。


「クソッ、見えねぇ!!」

「グレイスさんッ!!」


 渦が勢いを増したそのとき──


 ワン・アイドの巨体が、海底方向へ“落ちる”ように沈み始めた。


 逃げているのだ。


 痛みに狂い、視力を奪われながらも、

 渦を発生させ“足場を奪い”ダイヴァーたちの追撃を阻んだまま──


 深々と刺さったグレイスのハープーンは抜け、掴んでいたグレイスごと投げ出される。


 巨大な海魔は深海へと、絶望的な速さで沈み込んでいった。


「待てッ……!!」

「逃がすなッ!!」

「くそっ……渦が……身体が動かねぇ……!!」


 誰も追えなかった。


 渦が消えると同時に、ワン・アイドの姿はもう海の暗闇へと消えていた。


「……逃がした、か」


 バルバスが悔しげに歯を噛む。


 だが、すぐに周囲のダイヴァーたちの様子を確認し──

 深く息を吐いた。

 


「死者は……なし、だな。全員、生きてる」

 

「本当か……?」

 

「ああ。あの巨大海魔を止め、両目を潰した。視界は無いだろう。これでワン・アイド……いや、ノー・アイズか。脅威にならねぇよ」


 バルバスは海底を指差し、大声で叫んだ。

 


「作戦は成功だッ!!」

 


 周囲から歓声が上がる。


「ちぎれたデカイ触手、四本もあるぞ!!」

「海晶核も大量に散ってる!」

「これだけ持ち帰れば、街は当分安泰だ!!」


 戦いの緊張が一気に弾け、

 安堵と興奮の声が渦巻く。


「戦利品を回収し、アクア・ヘイヴンへ帰還するぞ!

 参加した勇者たちは全員、宴に参加してくれ!!

 飯や酒の持ちは俺たちネーレウス・クランが持つ!」


 バルバスの号令に、仲間たちがさらに沸き立った。



 作戦成功の歓声が、海中に反響する。

 勝利のざわめき、安堵の笑い声、仲間たちの呼応──

 そのすべてが、波のように大きくうねりながら広がっていく。


 だが、その中心で。


 グレイスだけは、まるで別の時間に取り残されたように静かだった。


 抜け落ちたハープーンを持ち上げる。

 柄にはまだ、ワン・アイド──いや、ノー・アイズの黒い血がこびりついている。

 指先に感じるそのざらつきは、彼女が背負ってきた年月そのものの重さだった。


 静寂の中、海底の白砂がふわりと舞う。


(……終わったんだよね、アタシ)


 心の奥に長く沈み続けていた痛みが、

 ようやく波打ったように小さく揺れる。


 どれだけ憎んでも、

 どれだけ願っても、

 戻らないものがあるという事実は変わらない。


 それでも──。


 あのハープーンが海魔の眼を貫いた瞬間、

 胸の奥で固く凍っていた何かが、確かにひび割れたのだ。


 ただ、その破片がまだ胸に刺さったままで、

 呼吸の仕方すらわからない。


「……仇、取れた……かな」


 本当に誰にも聞こえない小さな声。

 自分に問いかけたのか、

 海に消えていった仲間に問いかけたのか、

 それすら自分でわからないほど弱い声だった。


 返事はない。

 海はただ揺れ、淡く光る砂が漂い続けている。


 それでも──ふと、胸の奥が軽くなる。


 風も届かない海の底で、

 彼女が初めて感じる“ほんの少しの余白”。


 泣くほどではない。

 笑うほどでもない。

 でも、確かに“何かが変わった”と自分でわかる。


 グレイスはゆっくりと顔を上げた。


 遠くで仲間たちの喜びの声が弾けている。

 その輪の中に戻るには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。


 けれど──


 海の深淵へ消えていった声に、

 彼女はそっと、小さく呟く。


「……見てた? アタシ……ここまで来れたよ」


 それは、潮騒より小さな声だったが──

 きっと海は、すべて聞いている。

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