第五十四話 グレイスの余白
黒い血を撒き散らしながら──
ワン・アイドの巨体が、海そのものを捻じ曲げる勢いでのたうった。
「グォオオオオオオオオッ……!!」
両目を潰された海魔は激痛の中で暴れ、残った触手を見境なく叩きつける。
海流は乱れ狂い、視界が渦のように歪む。
「まだ動くのかよ……ッ!」
「グレイスさんから離れろ、化け物ッ!!」
アッシュとバルバスが牙を剥くように再び構えた。
身体中が痛み、魔力も削られている。
それでも──引く選択肢だけは存在しなかった。
「アッシュ! もう一発いけるか!?」
「もちろんです。いきますよ、バルバスさん!」
二人は同時に魔力を込め直し、
負傷した身体を無理やり動かしながら海を蹴った。
ワン・アイドの触手が、彼らを迎え撃つように荒れ狂う。
「邪魔するなぁああァッ!!」
バルバスのトライデントが、咆哮のような一閃を描く。
雷鳴めいた魔力が触手に叩きつけられ──
バチィィィンッ!!
触手が痙攣し、その付け根から裂け飛ぶ。
「次は……こっちだ!!」
アッシュのランスが光を帯びて突き進む。
渾身の力を振り絞り、残りの触手へ狙いを定め──
ズバァァァァンッ!!
白い衝撃波がほとばしり、
ワン・アイドの触手がさらに一本、黒い血を撒いて千切れる。
「グォオオオオオオオオオオ──ッ!!!」
絶叫。
痛みと怒りに染まった震動が海底まで響き渡る。
海水が震え、波が揺れる。
「もう少しだ……!」
「ここで倒しきる!!」
だが──その瞬間。
ワン・アイドの身体が不気味に丸まり、
残った触手が海水を巻き上げるように広がった。
「……来るぞ!!」
「全員、構えろッ!!」
次の瞬間。
「グゥゥゥゥゥゥゥ……ォォォオオオ!!」
海が、渦になった。
いや──
ワン・アイド自らが巨大な海流を発生させ、
周囲の海水すべてを巻き込む大渦を作り出したのだ。
「うわっ……!!」
「身体が……動かない……!!」
「くそっ、流されるッ!!」
ダイヴァーたちが次々に渦に囚われ、
まるで海そのものに絡めとられたように身動きが取れなくなる。
アッシュやバルバス、ゴールド級が魔力を込めても前へ進めなかった。
「グレイスさん……ッ! 離れて!!」
「このままじゃ巻き込まれる!!」
しかし、グレイスはまだハープーンを握りしめたままだった。
ワン・アイドの眼窩へ深々と刺さったその柄を、
血で滑る手で、それでも必死に押し込み続けていた。
(ここで……逃すわけ……ない……!)
しかし、海魔の渦は容赦がなかった。
激しく海中が揺れ、視界が悪くなる。
「クソッ、見えねぇ!!」
「グレイスさんッ!!」
渦が勢いを増したそのとき──
ワン・アイドの巨体が、海底方向へ“落ちる”ように沈み始めた。
逃げているのだ。
痛みに狂い、視力を奪われながらも、
渦を発生させ“足場を奪い”ダイヴァーたちの追撃を阻んだまま──
深々と刺さったグレイスのハープーンは抜け、掴んでいたグレイスごと投げ出される。
巨大な海魔は深海へと、絶望的な速さで沈み込んでいった。
「待てッ……!!」
「逃がすなッ!!」
「くそっ……渦が……身体が動かねぇ……!!」
誰も追えなかった。
渦が消えると同時に、ワン・アイドの姿はもう海の暗闇へと消えていた。
「……逃がした、か」
バルバスが悔しげに歯を噛む。
だが、すぐに周囲のダイヴァーたちの様子を確認し──
深く息を吐いた。
「死者は……なし、だな。全員、生きてる」
「本当か……?」
「ああ。あの巨大海魔を止め、両目を潰した。視界は無いだろう。これでワン・アイド……いや、ノー・アイズか。脅威にならねぇよ」
バルバスは海底を指差し、大声で叫んだ。
「作戦は成功だッ!!」
周囲から歓声が上がる。
「ちぎれたデカイ触手、四本もあるぞ!!」
「海晶核も大量に散ってる!」
「これだけ持ち帰れば、街は当分安泰だ!!」
戦いの緊張が一気に弾け、
安堵と興奮の声が渦巻く。
「戦利品を回収し、アクア・ヘイヴンへ帰還するぞ!
参加した勇者たちは全員、宴に参加してくれ!!
飯や酒の持ちは俺たちネーレウス・クランが持つ!」
バルバスの号令に、仲間たちがさらに沸き立った。
◆
作戦成功の歓声が、海中に反響する。
勝利のざわめき、安堵の笑い声、仲間たちの呼応──
そのすべてが、波のように大きくうねりながら広がっていく。
だが、その中心で。
グレイスだけは、まるで別の時間に取り残されたように静かだった。
抜け落ちたハープーンを持ち上げる。
柄にはまだ、ワン・アイド──いや、ノー・アイズの黒い血がこびりついている。
指先に感じるそのざらつきは、彼女が背負ってきた年月そのものの重さだった。
静寂の中、海底の白砂がふわりと舞う。
(……終わったんだよね、アタシ)
心の奥に長く沈み続けていた痛みが、
ようやく波打ったように小さく揺れる。
どれだけ憎んでも、
どれだけ願っても、
戻らないものがあるという事実は変わらない。
それでも──。
あのハープーンが海魔の眼を貫いた瞬間、
胸の奥で固く凍っていた何かが、確かにひび割れたのだ。
ただ、その破片がまだ胸に刺さったままで、
呼吸の仕方すらわからない。
「……仇、取れた……かな」
本当に誰にも聞こえない小さな声。
自分に問いかけたのか、
海に消えていった仲間に問いかけたのか、
それすら自分でわからないほど弱い声だった。
返事はない。
海はただ揺れ、淡く光る砂が漂い続けている。
それでも──ふと、胸の奥が軽くなる。
風も届かない海の底で、
彼女が初めて感じる“ほんの少しの余白”。
泣くほどではない。
笑うほどでもない。
でも、確かに“何かが変わった”と自分でわかる。
グレイスはゆっくりと顔を上げた。
遠くで仲間たちの喜びの声が弾けている。
その輪の中に戻るには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。
けれど──
海の深淵へ消えていった声に、
彼女はそっと、小さく呟く。
「……見てた? アタシ……ここまで来れたよ」
それは、潮騒より小さな声だったが──
きっと海は、すべて聞いている。




