第五十三話 宿敵への咆哮、放たれた一閃
アッシュが右から、バルバスが左から──水を裂き、一直線にワン・アイドへ向かっていた。
海が震え、重い水圧がひずむ。
巨大海魔ワン・アイドの巨躯は、まるで海そのものが形を取ったかのように圧倒的で、
振るわれる触手一本が海流を歪ませ、潮の流れを逆巻かせていた。
「いきますよ、バルバスさん……! 私は右!」
「ああ! なら俺は左から刺す!!」
互いの視線が交差し、息が一致する。
その表情には恐怖ではなく、熟練の信頼と闘志だけが燃えていた。
ふたりは同時に魔力を全身へ巡らせる──
海水が震え、周囲に白い泡が細く渦を描く。
ワン・アイドの唯一の眼は前方のシルバー級へ釘付けになっており、
まだ二人の接近を捉えていない。
「……ッ! 今だッ!!」
アッシュが海を切り裂くように右側へ旋回し、
ランスに蒼白い光が走った。
バルバスは逆側で海底を蹴り、
トライデントの刃先に雷鳴のような魔力を凝縮させる。
軌跡が二本の白い閃光となり──
同時に、触手へ叩きつけられる。
ズバァァァンッ!!
音すら呑み込む海中で、衝撃が水をぶち割ったように炸裂した。
黒い海水が跳ね散り、
ワン・アイドの分厚い触手が左右一本ずつ、豪快に千切れ飛ぶ。
「ブォォォォォォォォォ──!!」
怒号とも悲鳴ともつかない咆哮。
その一つだけの巨大な眼が、ぎょろりと二人を捕えた。
「しま──っ!」
残った触手が唸りを上げ、
稲妻のような速さで二人へ襲いかかる。
「うおおおっ!?」
「ぐっ……ッ!」
アッシュもバルバスも咄嗟に武器を構え、
全身へ魔力を集中、衝撃を受ける。
触手と武器が噛み合う瞬間──
海そのものが爆ぜるような重圧が押し寄せ、
ふたりの身体は大きく海中へ弾き飛ばされた。
それでも、折れず、死なず。
ぎりぎりで生存を掴み取る。
「くそっ……!でも、決まった……!」
「効いてる……!!」
ふたりが体勢を立て直すその瞬間──
◆
黒い水流を切り裂き、
ひとつの影が、ワン・アイドの死角から疾風のように飛び込む。
「……!! グレイスさん!?」
「あの距離から……行った……!」
ナナミたちの視界に、その姿が鮮明に映った。
グレイスの背中から抜き放たれたのは、
常に彼女が背負っていた、異様に大きなハープーン。
重い。
体格に対して明らかに過剰なほどの巨大さ。
武具としても、常時持ち歩くには不便すぎる代物。
だが──
それを背負い続けてきた理由が、今ナナミには理解できた。
すべては、この瞬間のため。
あのハープーンは“護るため”ではなく、
“討つため”に作られた武器だと。
◆
──グレイス目線──
かつて海底で消えた仲間の血と叫び。
水が赤く染まり、最期の声すら海に呑まれたあの日。
(──アタシは、絶対に忘れない)
グレイスは何年もその重さと共に生きてきた。
仲間を奪った海魔への憎しみと、
“倒す”という誓いを、背に負って歩き続けた。
海の街に笑顔が増えるたび、
自分だけが過去に縛られている気がして、
苦しくなる夜も何度もあった。
それでも、決して手放さなかった。
(この瞬間のために、アタシは生き残った……そして背負い続けた!)
グレイスの心臓が、ひとつ強く脈打つ。
海中の時間がねじ曲がったように静まり返り、
ワン・アイドの巨大な眼が正面から迫る。
待ち望んだ瞬間。手を伸ばし続けた瞬間。
「──仇だッ!!!」
魂の底から迸る、怒りと悲しみの咆哮。
ハープーンに魔力が満ち、
刃が眩い白光を放った瞬間──
海流が逆巻き、その瞬間の海の流れすら変える。
グレイスが全身の筋肉をしならせ、
その巨大なハープーンを真正面から突き込んだ。
ドガァァァァァァァァンッ!!!!
海が割れた。
そう錯覚するほど、途方もない衝撃が走る。
遥か後方にいたナナミの頬すら、
衝撃波が“風”のように撫でていった。
「うそ……海の中なのに……風みたい……!」
ワン・アイドの眼の中心へ──
ハープーンが深々と、骨も肉も貫いて突き刺さる。
黒い血が噴水のように噴き上がり、
周囲の海水を一気に濁らせた。
「グォオオオオオオオオオオォォォォォッ!!!!!」
海底まで震えるほどの絶叫。
ワン・アイドの巨体がのたうち、
周囲の海流が渦を巻く。
岩場が揺れ、海底の砂が巻き上がり、
周囲にいたダイヴァーたちが思わず身体を固めた。
◆
「い、いった……!!」
「グレイスさんの一撃だ!!」
「残った眼を──貫いたぞ!!」
歓声とも、驚愕ともつかない声が上がる。
海中の空気が一気に爆ぜたように沸き立つ。
誰もが知っている。
あの一撃がどれほどの意味を持つのか。
「すげぇ……本当に……刺さった……!」
「信じられねぇ……!あの硬い皮膚を……!」
その中心で──
グレイスはまだハープーンを離していなかった。
震える腕で、宿敵に最後の力が届くまで押し込み続ける。
胸の奥の傷が、初めて“前へ進む”音を立てた。
(これで……やっと……)
ワン・アイドは苦悶の咆哮を上げながら、
もがき、うねり、海中を暴れ狂う。
そのど真ん中に立ちはだかりながら、
グレイスはただひとつの想いだけを胸に、
宿敵への渾身の一撃を刻みつけていた。




