第四十五話 鎧袖一触
夜の海は、昼とはまるで別物だった。
水面の温度は急激に冷え、波が脈を打つようにうねり始める。
「……なんか、さっきから海の流れ、変じゃないですか」
新人のひとりが震える声で言った。
「はァ?ただの潮変わりだろ。黙ってろ」
ダインは苛立ちを隠さず吐き捨てる。
だが──彼自身も、妙な違和感を覚えていた。
足元の海が、まるで巨大な生き物が息を吸い込んでいるように、
ゆっくりと“沈んで”いく。
波が、静かすぎる。
「……ねぇダイン、見て。あれ」
ジャンヌの声が、ひどく小さく震えていた。
黒い海の向こう──
海面を押し割るように、巨大な触手の影が立ち上がる。
次いで、海を押しのけるように浮かび上がったのは──
巨大なイカ型の海魔。
アクア・ヘイヴンの貨物船さえ小舟に見えるほどの巨躯。
本来なら左右に並ぶはずの巨大な複眼のうち、
片側だけが、深くえぐれた傷跡になっていた。
新人のひとりが震え声で呟く。
「な……なんだあれ……イ……イカ……? いや、デカすぎ……!」
冷たい闇の中で唯一輝くのは、
残された片目のぎょろりとした光だけ。
「……片目……?」
ジャンヌがそう漏らした瞬間──
海が“吠えた”。
波の流れが逆巻き、下から強烈な渦が巻き上がる。
◆
新人たちは恐怖で立ちすくんでいた。
だが──ダインとライアンだけは違った。
「へへ……!レアもんかよ、コレ……!」
ライアンはニチャアと笑みを浮かべる。
「だよなぁ?ダイン。シルバー級の俺らなら余裕だぜ。新人ども、お前らは荷物もって帰っとけ。足手まとい」
「えっ、ぼ、僕ら──」
「聞こえなかったのか?帰れって言ってんだよ!」
その怒号に押され、新人たちは我先にと逃げ出す。
残ったのは──
ダイン、ライアン、そして青ざめたジャンヌだけ。
「……ねぇ二人とも。これ、絶対にやばい!大きさが違う……渦を呼ぶなんて普通の海魔じゃ──」
「ビビってんじゃねぇよジャンヌ。お前も攻撃しろ」
「稼げなかったのはナナミのせいだ。コイツの海晶核でチャラだろ。三等分な」
ジャンヌは唇を噛んだ。
◆
「行くぞッ!」
ダインとライアンが、海中を蹴って跳ぶ。
槍が放つ魔力が青く軌跡を描く。
対する《片目の海魔》は……微動だにしない。
それは、あまりにも巨大だった。
黒光りする皮膚。
岩のような触手。
「オラァァァァッ!!」
「ぶち抜けッ!!」
ダインとライアンの槍が同時に突き刺さる。
──が。
手応えがない。
槍先は、わずかに固い皮膚を掠める程度だった。
「……は?」
「なんだ……これ……」
その瞬間、
《片目の海魔》のひとつだけの眼が、ギョロリと回転した。
正確に、二人を見据えて。
そして──片目の奥で、光が“怒り”に揺れた。
ダインの背筋が、氷のように凍りつく。
「……ッッッ!!」
次の瞬間。
──ビュゴ!
波を割る音が聞こえた時には、触手が動いた後だった。
海が割けるほどの一閃。
水圧が爆ぜ、光が歪む。
「ぎッ──!?!?」
「う、ああっ!!」
ダインとライアンは
触手の一撃で吹き飛ばされ、彼らの武器も魔力膜も一瞬で砕け散った。
衝撃で血を吐き、魔力膜を失った彼らは海水が喉まで流れ込む。
その光景にジャンヌの心臓が跳ねた。
「──ダイン!!ライアン!!」
必死で飛び込み、二人を抱えるように引き寄せる。
自分の魔力膜を広げ、二人を包む──それが精一杯だった。
「は……ぁ……じ、ジャンヌ……?」
「喋るな!!魔力膜、割れてる……!逃げるよ……!」
魔力膜が軋む。
息が漏れる。
それでも、守るしかなかった。
──そんな三人のすぐ目の前で。
《片目の海魔》が、ゆっくりとその巨体を傾けた。
ギロリ。
片目が、三人を睨む。
海が震えた。
「ッ……!」
ジャンヌは全身を硬直させる。
死ぬ。
殺される。
そう確信できるほどの圧が、視線だけで押し寄せた。
だが──
《片目の海魔》は、それ以上近づいてこなかった。
興味を失ったかのように、ゆっくりと向きを変える。
触手が深海へ沈み、巨体が黒い海へ消えていく。
渦がゆっくりとほどけた。
「……助かった……でも、どうして……」
呆然と呟くジャンヌ。
ダインとライアンは血を流しながら、かろうじて息をしていた。
彼らは奇跡的に生き延びたが──
それは《片目の海魔》が襲う価値すら感じなかったからにすぎなかったかもしれない。
夜の海は再び静かになり、
アクア・ヘイヴンの灯りだけが遠くに揺れていた。
――続く。




