第三十九話 海の長老
青い海が、どこまでも広がっていた。
ナナミ、グレイス、ホープ、ニーナの四人は、静かに海中へダイブする。
魔力膜に包まれた身体はひんやりとした水に沈み、耳に届くのは自分の心音と、泡の弾ける音だけ。
「こっちよ。座標までそれ程遠くないわ」
先頭を泳ぐグレイスが魔力を声を込めて三人へ話す。耳元に澄んで届く。
心がどきどきしていた。
けれど──怖くはなかった。
“仲間と一緒”というだけで、こんなにも心は軽くなるのだろうか。
(……ナナミ、緊張してるわね。でも大丈夫よ。あなたはひとりじゃないもの)
髪飾りから、アストラルが優しく囁く。
「うん。緊張する……けど、それ以上にどきどきするよ」
そうアストラルへ告げ、ナナミはグレイス達と共に青い海を進んでいく。
(ふふ。今のナナミなら大丈夫。私もついてるわ)
♦
「──見えてきたわ。あれよ」
グレイスの声の合図と同時に、ナナミは前方に目を凝らした。
ゆらり。
海が、揺れたように見えた。
いや──違う。
海そのものが、“動いた”のだ。
「……え……」
息を呑む音が、自分のものか他の誰かのものか分からない。
視界いっぱいに広がる巨大な影。
深海の大地が隆起したかのような、果てしなく続く曲線。
そして、ゆっくりと、ゆっくりと動くその姿。
ギガント・ホエール。
「……でっ、でっ、でっけぇーー!」
ホープが驚きの声を漏らす。
「お、おっき……なにこれ……ほんとに生き物……?」
ニーナの声は震えていた。驚きと興奮が入り混じったような震え方だ。
ナナミは言葉すら紡げないまま、その光景をただ見つめた。
巨大なる海魔の背には、大小さまざまな鉱石が隆起し、海藻がふわりふわりと揺れ、
光る真珠藻が淡く煌めく。
(ふふ……圧倒されるのも無理ないわ。これは“祝福された海”だけが見せる光景よ)
アストラルの声が、静かな感嘆を帯びる。
さらに──その周囲には、ギガント・ホエール自身が発している魔力の薄霧が漂っていた。
淡く青白い霧が光を受けて揺らぎ、
光る海藻と鉱石の輝きがきらきらと水中に反射し、
まるで星々が海の底に降ったような神秘的な光景をつくり出している。
(……こんなの……)
胸が熱くなる。
(こんなの……見たこと、ない……)
言葉が出なかった。
ただ――ただ感動が胸の底から込み上げる。
「すごいでしょ? ギガント・ホエールは“海の長老”とも言われてるの。
めったに姿を見せないけれど、こうして現れた時は、海がちょっとだけ祝福されるのよ」
グレイスが優しく微笑みながら言った。
その言葉が、この幻想的な光景にぴったりだった。
「……でも、気をつけて。薄霧が出てる時は、小型海魔も集まりやすいの」
グレイスが後ろにいる三人を振り返る。
「ナナミちゃんは周囲の哨戒。自分の身を第一に考えて。
ホープ、ニーナ──いつも通り?」
「任せてくださいグレイスさん!」
「大丈夫です、行けます!」
頼もしい声が返ってきた。
その時だった。
ギガント・ホエールの方角から、五つの影が一斉に飛び出してきた。
「来るわよ──!」
グレイスが鋭く告げる。
濁った赤の胴体と黒の鱗。膨らんだエラ。棘のような紫のヒレ。
オーガ・カサゴが三体。
そして周囲をすばやく旋回しながら体色を変化させる
シェード・フィッシュが二体。
「ホープ、ニーナ──シェードをそれぞれ抑えて!
私はオーガ三体を引き受ける。
ナナミちゃんは私たちの後ろの死角をカバーして!」
グレイスの水を切るようなハンドサインがすばやく飛ぶ。
二人は即座に分散し、各々の敵へ向かう。
「了解!」
「いっくよー!」
ホープとニーナが水を切り裂いてシェード・フィッシュに突っ込む。
ナナミは指示通り、後退しながら周囲の死角へ目を配る。
(……すごい……! 全然、慌ててない……!)
(落ち着いて、ナナミ。あなたは“見る役”として十分よ。焦らなくていいわ)
アストラルが、ナナミの緊張をそっとなでるように和らげる。
驚いている間にも戦闘は一気に動きだす。
ホープは両手短槍を構え、鋭い突きを放つ。
シェード・フィッシュが体色を変えて攪乱するが──
「ほら、そこだろ!」
迷いのない一撃が突き刺さり、シェード・フィッシュの体が弾ける。
ニーナも跳ねるような泳ぎで翻弄された魚型の海魔を追い詰め、短剣に魔力を纏わせた。
「動きわかりやすいよっ!」
にぱっと笑いながら、鋭く連撃。
シェード・フィッシュは抵抗する間もなく沈んでいく。
(強い……二人とも……ブロンズ級ってこんなに……)
ナナミの胸が高鳴る。
そして、グレイス。
彼女は背負っていた巨大なハープーンには触れず、
代わりに細身の槍を取り出していた。
白銀の槍身が、薄霧と光を受けて輝く。
「三体まとめて来なさい」
静かな声で告げ──次の瞬間、グレイスの姿が水を裂いて消えた。
オーガ・カサゴが三方から突進する。
しかし槍が一閃した瞬間、
水が弾け、魔力の筋が奔り──
一体。
さらに回転しながら──二体目。
体勢を崩すことなく──三体目を正確に貫く。
三体のオーガ・カサゴは、ほんの数秒で沈黙した。
「……は、え……」
ナナミは思わず呟く。
その一連の動きは、流れるようで、迷いがなく、
“美しい”とさえ感じた。
(……見た? ナナミ。あれが“本物のゴールド級”の実力ね。あなたも、いつかああなれる)
アストラルの囁きは、確信に満ちていた。
「はい、クリア。ナナミちゃん、索敵ありがとう。助かったわ」
振り返ったグレイスの笑顔は穏やかで、戦闘を終えたばかりとは思えないほど余裕があった。
「い、いえ……! 私、ただ見てただけで……」
「見てるのが大事なんだよ。
死角から強襲受けるだけで全滅することだってあるんだから」
ホープがにかっと笑う。
「うんうん! それにナナミちゃんが後ろ見ててくれたから海魔に集中して動けたよ!」
ニーナも元気に頷く。
(……仲間って……こういう……)
胸の中で、温かいものが広がった。
「じゃあ行きましょう。ギガント・ホエールの背へ」
グレイスが手招きする。
四人はゆっくりと、巨大なる背中へと近づいた。
近づけば近づくほど、光る海藻や鉱石が美しく輝き、
まるで海の神殿に足を踏み入れるような感覚になる。
「……きれい……」
ナナミの声は自然と漏れていた。
「気をつけてね。ゆっくり動くから足場は安定してるけど、急に揺れることもそれなりにあるわ」
グレイスの言葉に頷きながら、
ナナミ、ホープ、ニーナはそれぞれ採取道具を取り出す。
柔らかい海藻、金色に光る鉱石、細い蔓のように絡まる真珠藻──
手を伸ばすだけで、そこには宝物のような資源があった。
「じゃあ、採取開始よ。
ナナミちゃん、無理しないでね。私も近くにいるから」
「……はい!」
(大丈夫。ここは“もう怖い場所じゃないわ”。あなたの仲間がそばにいるもの)
アストラルの声は、そよ風のように優しかった。
ナナミの声は、少し弾んでいた。
こうして四人は──
海の長老の背で、初めての共同作業を始めるのだった。
⸻続く




