第三十二話 怒りの海壁
アクア・ヘイヴンの〈ダイヴァーズギルド〉。
潮騒のざわめきと、人々の声の温度が混ざり合うその扉を、ナナミはそっと押し開けた。
「ただいま……!依頼、完了しました!」
「あら、ナナミさん。おかえりなさい」
柔らかな声とともに、受付嬢ミストが微笑む。
その表情だけで、胸の強張りがゆるむ。
「採取依頼〈フロート・オーブ〉ですね。お疲れさまでした。
──納品物は、そのまま《海辺の子ブタ亭》へお届けください。依頼主から品質確認が済んだ後に報酬をお渡しします。」
「えっ、直接……? そっか、わかりました!」
「ただし途中で手に入れた《海晶核》はギルドで買い取らせていただきますね」
ミストは丁寧に買取台帳を開き、ナナミから渡された“青く光る核”を見つめた。
「……まさか《サージ・オッター》を……お一人で?」
「え、えっと……その……はい……」
「すごいです!光海帯の中型種を単独で討伐なんて、ソロだとブロンズ級でやっとな相手です。
──ナナミさんの実力であれば…昇格は近いですね」
「ほ、ほんと……!? すご……うれしい……!」
(ほら、言った通りね。あなたは確実に強くなっているわ)
ミストは銀貨をまとめ、ナナミへ差し出す。
「買取は光海帯ランクB──銀貨四枚になります。お疲れ様でした」
「ありがとうございます……!」
胸の奥があたたかくなる。
少しずつ、自分が“ダイヴァーになれている”実感が積もっていく。
「ではまた。怪我の確認も忘れないでくださいね」
「はいっ!」
◆
ギルドを出た瞬間──
ナナミの足が止まった。
視界の先に、三つの影。
ダイン。
ライアン。
ジャンヌ。
かつてナナミを“使い潰していた”元クラン仲間だった。
「はァ? 誰かと思ったら……」
赤髪の男……ダインが眉をひそめ、ニヤつく。
「まだ生きてたのかよ、雑用係」
「ほんとにいた〜。ナナミって、まだダイヴァーやる気なんだ?」
黒髪の男、ライアンはわざとらしく潜海証を覗き込む。
「ぷっ……アイアン級!」
緑髪の女、ジャンヌは、腰に手を当ててため息をつく。
「ねぇ……本当にまだ潜ってたの? すごいわね、しぶとさだけは一流じゃない」
「……っ」
(ナナミ、大丈夫……落ち着いて……)
アストラルの声が聴こえてはいるものの、突発的な事態のナナミの心には届かない。
「ちょっと〜、そんな怖い顔しないでよ」
ジャンヌが顔を近づけ、わざとらしく微笑む。
「“使われること”しか取り柄がなかった子だって、頑張れば続けられるものなのねぇ?」
「おいジャンヌ、あんま言ってやるなって」
ライアンが笑いながら続ける。
「──雑用がいなくなって、マジで困ってんだよ。
オレらの装備、全部お前に磨かせてたからさ」
「ほんとよ」
ジャンヌはナナミに指を向ける。
「あなたがいなくなってから、もう最悪。
新人に磨かせたら全然ダメで……武器に錆がついたの、見たら笑っちゃった」
三人はあざけるように笑う。
ダインがわざと乱暴にナナミの潜海証をつまんだ。
「ほれ、見ろよ。
アイアン級。クソみてぇに軽い」
自分のシルバー級を目の前に掲げて見せつける。
「これが“努力したやつ”の証だ。
──お前には一生手が届かねぇけどな?」
ナナミの視界が揺れ始める。
胸が締めつけられ、息が浅くなる。
「ねぇ?」
ジャンヌが耳元でささやくように言う。
「戻ってきなよ。あなたがいないと不便なの。
雑用くらいしかできないって、わかってるでしょ?」
「い……いや……」
ナナミは掠れるような声しか出せなかった。
「戻ってこいって言ってんだよ」
ダインが肩を掴み、ぐいと引き寄せる。
「……っ!」
(ナナミが……危ない──)
アストラルの声も霞む。
手が震え、視界の端が白くなる。
その瞬間──
「……おい」
低く響く声が背後から現れた。
三人の動きが止まる。
振り返ると、筋肉隆々の大男──
ブレイカーが立っていた。その顔はナナミが見るいつもの穏やかな顔ではない。青筋が立っている。
「なぁ……お前ら。
俺のギルドのダイヴァーに……何してんだ?」
「な、なんだよ……ブレイカーさん」
ライアンが引きつった声を出す。
「別に、ちょっと話してただけで──」
「“話してた”?」
ブレイカーは一歩前に出る。
ただ歩くだけで、海底の岩盤が鳴るような重さがあった。
「雑用扱いして、腕掴んで、ランクを馬鹿にして、戻れって脅して……
それが“話”か?」
三人が一斉に視線をそらす。
「違う……違いますって……!」
「今日はちょっと……機嫌が悪かっただけで……!」
「ほ、ほらジャンヌ、謝って……!」
ジャンヌも蒼白になりながら、ぎこちなく口を開く。
「……べ、別に……深い意味はなかったのよ……?」
「へぇ──ナナミにはあれだけ言っておいてか?」
声は低い。
けれど、明確に怒りが滲んでいた。
「ウチのダイヴァーであるナナミに文句つけるってことは──俺に文句あるってことでいいんだよな?三人まとめて、今から相手してやろうか?」
三人の顔色が、一瞬で変わった。
「お前ら、バニッシュ・クランだよな?……マスターのエクセイルも同意の上での行動なんだよな?
話つけようじゃねぇか。エクセイルも呼んでいいぜ」
続くブレイカーの言葉に三人の顔色はますます悪くなる。
「ひっ……!」
「べ、別にケンカ売るつもりは──」
「す、すみませんでしたぁッ!!」
まるで逃げるように、三人は全速力でその場を離れた。
潮風だけが、その場に残る。
◆
静寂。
「……ったく、アイツら」
ブレイカーは彼らが逃げた先から視線をナナミに戻す。
そして俯いたナナミに目線を合わせるように、しゃがみこむ。
「ナナミ。大丈夫か」
いまだにナナミの心は、嵐の海のように荒れている。
ナナミは小さく息を吐いた。
震える指を押さえながら。
「……ぁ、あ……ありがとうございます……」
「いい。俺はただ、仲間を守っただけだ」
言葉はぶっきらぼうなのに、優しかった。
「怖い思いしたら──いつでも言え。
ギルドは、お前の帰る場所だ」
ナナミは小さく頷くしかできなかった。
ブレイカーはそれを確認すると、背を向ける。
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
その背中は、海壁みたいに大きかった。
◆
しばらくして、ナナミは深く息を吸う。そして胸元にある金色の石が入った小袋をぎゅっと握る。
すると、心が不思議と落ち着いてきた。
(……ナナミ。よく耐えたわ。もう大丈夫よ)
「……うん……行こ。子ブタ亭……」
足取りはまだ少し重い。
でも──前へ進んでいた。
海辺に続く坂道の向こう、温かな灯りが揺れている。
そこが、今の自分の居場所だ。
ナナミは胸元の潜海証を握りしめ、歩き出した。
――――続く。
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【ナナミのお財布】
金貨15枚、銀貨19枚、銅貨5枚




