閑話 エクセイルの痛み
──巨大な影が迫る。
エクセイルは目を閉じたまま、ただ槍を握りしめるしかなかった。
(……ここまでか)
その瞬間。
暗海域が“爆ぜた”。
「──どけェッ!!」
怒号とともに、黒い何かが水を裂き、エクセイルの前へ飛び込んだ。
次の瞬間──轟音。
海流が暴風のように弾け、ドレッド・シャークの突進軌道が強制的に逸れた。
巨大な影が横へ吹き飛ぶ。
その前に立つのは──
「……ブ、ブレイカー……っ?」
黒髪短髪、頬に鋭い十字傷。
鋼のような胸板と腕を持つ、どこからどう見ても“力”でできたような男。
ダイヴァーズギルド副長──ブレイカー。
「間に合ったか……ったく……!」
彼は肩を回しながら、苛立ち半分、安堵半分の声を漏らす。
「言ったよな? “無茶するな”って。」
ドレッド・シャークが怒りに震えながら姿勢を立て直す。
ブレイカーはそれを一瞥し、鼻で笑った。
「お前を殺すつもりか……いいぜ、来いよ化け物。」
その目には、怯えも迷いもなく──
ただ巨大海魔に対する純粋な戦闘意欲だけが宿っていた。
海が震えた。
ドレッド・シャークが再び突進。
ブレイカーは迎え撃つ。
衝突。
暗海域そのものが揺らぐほどの衝撃。
周囲の水圧が波紋のように広がり、エクセイルでさえ身体を押される。
「おらぁッ!!」
ブレイカーが握る巨大なランスが、怪物の鱗を容易く砕く。
怒涛の連撃。
一撃一撃が深海の水を震わせ、暗がりを光が走るほどの威力。
ドレッド・シャークは逃れようとするが──
「逃がすかァッ!」
最後の一撃が、サメの眉間を貫いた。
──ゴシャッ!!
巨体が激しく痙攣し、そして、動かなくなった。
戦闘は、ほんの十数秒で終わった。
「……はぁ……はぁ……」
エクセイルは力が抜け、ふよふよと漂う。
ブレイカーが振り返る。
「生きてるか。」
「あ、ああ……助かった……」
「助かったじゃねぇ。死ぬとこだったんだよ。」
低く、しかし優しい声だった。
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■アクア・ヘイヴンへの帰還途中
ブレイカーに肩を抱えられるようにして浮上しながら、エクセイルは口を開いた。
「……どうして、来たんだ……?」
「言ったろ、無茶だって。
お前……自分が追放したナナミが深海核持ってきたから飛び込んだんだろう」
エクセイルは目をそらす。
「放っといたら間違いなく死ぬと思った。
だから一人でも追った。それだけだ。」
「……そうか……」
沈黙。
海の気配だけが二人の間を漂う。
やがて、エクセイルがぽつりと漏らす。
「……俺のクラン……バニッシュクランは……
海神クランの末席で……ずっと馬鹿にされてきた。」
重く湿った感情が滲んでいた。
「だから……俺は強くなりたかったんだ。
見返したかった。
だけど、クランの奴らは……浅い層で満足して……
訓練もろくにしなくて……。」
拳が震えている。
「温度差が……あまりにも酷くて……
俺は……どうすりゃいいのか……」
ブレイカーはしばらく黙っていた。
深海の色を帯びた光が、二人の影を揺らす。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……エクセイル。
お前は海神に馬鹿にされるのが嫌で努力してきたんだよな?」
「ああ……」
「ナナミも……立場こそ違えど、根本は同じじゃなかったか?」
「──っ」
エクセイルは息を呑む。
脳裏に浮かぶのは、かつて同じクランの末席として肩身の狭い思いをしていた少女。
虐げられ、笑われ、こき使われ、それでもずっと一人で訓練を続けていたナナミの姿。
だが──結局、自分は彼女の気持ちを深く聞いたことがなかった。
「お前さ……ナナミがどんな気持ちで必死に訓練していたと思う?」
その少女は努力していたことは知っている。だからこそ、向き合うことを心のどこかで拒否していたエクセイルにその言葉は響く。
「…………っ」
返せない。
喉が震えるのに、声が出ない。
エクセイルは視線を落とし、ただ俯くしかなかった。
ブレイカーは何も言わない。
責めるでも、諭すでもなく、ただ静かに見守っていた。
暗海域から上がる光が、遠く揺れている。
エクセイルの胸の奥に、ゆっくりと、重い痛みだけが沈んでいった。
それは海魔から受けた攻撃の痛みによるものではなかった。
⸻エクセイル深海挑戦ダイヴ編……完




