第二話 黒い渦ーアビスリフトー
ナナミは追放され、拠点を離れてから行き先もなく彷徨った。
夜の海辺に座り込むころには、涙で目の奥がじんじんと痛い。
そのとき――胸の奥が、突然ざわりと泡立った。
「……いまの……?」
違和感に顔を上げる。
いつもなら月光が海に細い帯を描いている。しかし今夜だけは、海が“沈んでいる”ように見えた。
海面の一角だけ、落ちるように黒い。
「……嘘、でしょ……?」
黒――ではない。
色が存在しない、“穴”のような黒。
水がそこだけ、どこかに吸い込まれている。
訓練の記録映像で唯一、見たことがあった。
――アビスリフト。
深海へと繋がる、一点型の落下渦。
発生範囲は狭いが、触れたものを例外なく深淵へ落とし込む。
生存者はゼロ。
(ありえない……こんな海域で発生なんて……)
そう否定した瞬間、海面が脈打った。
“呼吸”のように膨らみ、収縮し、
その中心の黒が――微かに光を伸ばした。
ぞわり、と背筋が震える。
(……何が起こっているの……? とにかく逃げなきゃ……)
混乱と涙で乱れた感情だが、禍々しい黒き渦の中心を見て逃げようとしたが…。
まるで、深海の穴が“ナナミだけを認識した”かのように。
――風が一気にひっくり返る。
「っ……!」
アクア・ヘイブン全体が揺れた。
髪が、外套が、黒い穴へ引っ張られる。
「やだっ……!」
しかし――ナナミは、もう渦の吸引範囲に入っていた。
(逃げなきゃ……でも……無理……!
アビスリフトに触れたら、終わり……私……)
足を踏み出した、その瞬間。
――ガコンッ!!
「きゃっ……!」
局所的に引かれた桟橋の端が大きく沈み、ナナミの身体が宙に跳ねた。彼女の荷物が手から離れて床に投げ出された。
そして伸ばした指先は手すりを掠めず、空を切る。
浮遊感。
重力が消える。
「あ……」
そして黒い落下渦へ向かって落下いく。
「いや……いやあああっ!!」
悲鳴は風に千切れ、ナナミはアビスリフトへ飲み込まれた。
◇
水面を割った瞬間、胸が焼けるように痛む。
深海の魔力密度が高すぎて、身体が拒絶反応を起こしていた。
「っ……く……!」
魔力が暴走する。
ナナミの意志とは無関係に、身体強化が強制展開されていく。
(こんなの……私の魔力量じゃ……ありえない……!)
海が、ナナミの魔力を掴み、
引き出し、形を変え、強化している。
落下は止まらない。
アビスリフトの内部は重力すら歪み、速度はさらに増していく。
(死ぬ……本当に……!)
手足は虚しく水を掻く。
抵抗など意味を持たない。
光が遠ざかり、上の世界が小さな穴へと変わる。
「誰か……助けて……!」
声は泡になって消えた。
そして――
最深の闇が、静かに開いた。
青い光がふわりと、深海の闇で揺れる。
まるで、深海そのものが“息づいている”ような光。
「……え……」
光はナナミの魔力の乱れに反応するように、優しく脈打つ。
その光に――抗えない。
呼ばれている。
ナナミは手を伸ばした。
そして彼女は、そのまま
“深海”へ――さらに深く、深く落ちていった。




