藍の術師
アラストルとの生活は、私にとってかなり楽なものだった。
私の仕事は、朝食と夕食の支度と買出し、それに洗濯だけだ。空いている時間は外を自由に歩いて良いし、何より、寝る場所と食料が確保されているというのはとても助かった。
ただ一つ、気に入らないことと言えば、アラストルが私を子供扱いすると言うことだ。
彼曰く「十八?十分ガキだろ」との事で、何か手伝うごととに、金貨を一枚くれるのだ。
彼には妹が居たらしく、子供の扱いは慣れているとの事だが、他人の面倒を見るのが好きなのかもしれないと私は思う。
クレッシェンテはとにかく物価が高い。
いや、高いと言うよりはぶっ掛けている店が多いのだ。
だから買い物をするにもいちいち交渉をしなくてはいけない。それが少しばかり面倒だ。
日本では市場にでも行かない限りそんな機会は無い。少なくとも私の出身地ではスーパーマーケットで値切るなどはまず無かった。
尤も、このクレッシェンテにはスーパーマーケットなどは無い。食料品は全て市場か専門店で買う。そうなると便利なのは市場だが、市場にはいかにも妖しげな商人が多かった。
「えっと、トマトとチーズと…チュロス?なにそれ」
アラストルに渡された買い物メモの一番最後によくわからない、おそらくは食品と思われるものが書かれていた。
ひょっとしたらそういう食材があるのかもしれないと、市場を見回してみるが、商品名など書いている店の方が珍しい。
とりあえずトマトやチーズを買い求め、時々は思い切った値段交渉を楽しんだ。
値段交渉では八割くらい引ければ大勝利と言った感じだが、大抵の店ではせいぜい六割が限界だ。
それでも七割は引かせるというのはだいぶ交渉に慣れていた証だろう。
そう思っていたときに、不思議な人に出会った。
彼女は市場で交渉もせずに、相手の言い値で払っていた。所謂カモだろう。
どこと無くぼんやりとしている彼女はとても美しく、思わず見惚れてしまった。
彼女はクレッシェンテでは珍しく、和装をしている。ひょとしたら私と同じ日本人かもしれないと思って声を掛けてしまった。
「あの」
「はい?」
「もしかして日本の方ですか?」
そう訊ねると、彼女は首を傾げる。
「ニホン?なんですか?それは?」
彼女の言葉でなんとなく、この世界には『日本』という国は無いのだと感じる。
「すみません。私の勘違いだったようです」
「いえ、これも何かの縁ですから」
そういえば、と私は思う。
この国の人間は信仰を持っていないのにも関わらず、縁とか運命とか因果とかそう言った言葉が好きなようだ。
「失礼ですが、どちらの出身ですか?」
「私は日ノ本です」
彼女は優しく微笑んだ。
あたりに蝶が舞うような、そんな錯覚に陥る。
彼女を見ると本当に蝶のような美しさと儚さを持っているのだ。
彼女は私に興味を示したようだった。
彼女にチュロスのことを訊ねると、角の店に売っている揚げ菓子のことだと教えてくれた。
そして、買い物を済ませると、お茶に誘われたので、この国のことを教えてもらうことにした。
だけども、彼女もあまり詳しくは知らないようだった。
その短いようで濃厚なお茶の時間に私が得た情報は、彼女の名が「リリム」と言うことと、彼女は十年前より後の記憶がなぜか全く無く、朝起きたら十年経っていたなどと良くわからないことを言っていた。
その話を聞いて、私は彼女がとても不思議な雰囲気を纏っていることも、なんとなく納得できる気がした。
「あなたは何のお仕事を?」
「下働き、かな?主な仕事は買出しと料理と洗濯です。空き時間は割りと自由だからこうやって今みたいに過ごせるよ」
実際、かなり自由だからこそ、図書館に行って不本意ながらジルに出逢ってしまったりするのだ。
「そう、私は…あら?何をしていたかしら?」
リリムはとても記憶力が無い。それだけは凄く良く解った。
「それで、異世界の方、行き場はあるの?」
「ええ、今の雇い主の家に住み込みだから」
雇い主、と言うよりは飼い主かも知れない。
何気に餌付けされているような気もしなくはなかった。
だけどもリリムはただふわふわと微笑んで、周囲に青い炎のような朧気な蝶を飛ばしていた。
リリムと別れ、アラストルの家に戻ると、彼はさして興味無さそうに「帰ったかぁ」と気の抜けたように言い、そして、書類に目を落とした。
おそらくは仕事を持ち帰ってしまったのだろう。
そういえば最近抜け毛が酷いとか言って気にしていた。
おそらくは上司からの毛根への直接的なダメージが原因だろうと思っているのだが、彼が「ストレスのせいだ」と言うのでそういうことにしておこう。
「アラストル、夕食はどうする?」
「お前に任せる。意外と料理が上手いから何食っても旨い」
『意外と』は余計だが、とりあえずは誉められている。
「じゃあ、とりあえずなんかチーズ使うモン作るよ」
クレッシェンテの料理は良く解らないが、トマトとチーズを使った料理がとにかく多い。
大抵のものにトマトソースやケチャップを掛けるし、肉や魚や野菜にもチーズがぶっかかっている。
前にアラストルが「玻璃とは大違いで助かる」などと言っていたことから、彼が以前にも誰か拾って面倒を見て居たのだと窺えた。
「なぁ」
突然彼が口を開いて驚いた。
「なに?」
「お前、リリムに会ったか?」
「え?」
突然、彼に言われ、何故解ったのかと驚く。
そして、アラストルと彼女の接点が見えない。
「会ったけど?」
「そうか。青い蝶が一匹付いてる。気に入られたな」
「え?」
「蝶がくっついてくるって事は、リリムに気に入られてるってことだ」
「へぇ…アラストル、知り合いなの?」
「…ああ。上司の妻だ」
あまり会いたくはねぇがと彼が零す。
だけども私には、何故リリムに会いたくないかは理解できなかった。
なにせ彼女はジルとは違って大人しい。
とても人に害があるようには見えなかった。
もっと彼女の話を聞きたかったけれど、アラストルはそれきり黙りこんでしまったので聞けなかった。
ただ一つ、解ったことは、リリムは時の魔女が探している人間ではないと言うことだ。
どちらかと言うと彼女は時の魔女とかそういった人たちの方に居ると思う。
「アラストル」
「なんだ?」
「この国は魔女が多いの?」
そう訊ねるとアラストルは忌々しそうに言う。
「魔女や魔術師も確かに居るが、あまり好ましくはねぇ、とりあえず関わるな」
「あ、うん」
どうやらクレッシェンテでは魔術師はあまり好まれないようだ。
魔術と科学の融合した世界であっても魔術は忌み嫌われるのだろうか。
特に宗教なども内容なので、宗教的な理由だと言うことは考えにくい。
「アラストルは魔女が嫌いなんだ」
「別に好きでも嫌いでもねぇがあまり関わりたくはねぇな。あいつらは何をしでかすかわからねぇ」
どうやらクレッシェンテで魔術が嫌われるのは、『得体の知れないものへの恐怖』かららしい。
どこの世界でも異端は排除される。
異邦人だと言うことは、あまり口に出さない方が良いのかもしれないと思った。