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往きて還る、忘却の河【夏のホラー2023参加作品】



「……あら?」


 気付けば見覚えのない場所にいた。深い霧に覆われた周囲の様子はほとんど見えない。でも、どこかの河原だということだけは理解できる。数歩先を水が流れていて、足元には大ぶりの小石がいくつも転がっている。着物の袖からは痩せた皺だらけの手が覗いていた。薬指から指輪がずり落ちそうで、私は左手を上向ける。長く手入れをしていないせいで、指輪の光は鈍い。


「お父さーん、おられますかー?」


 周囲を見回し、夫の姿を探した。結婚当初からあまり旅をする夫婦ではなかったけれど、遠出をしたなら一緒にいるはずだと思ったからだ。


「呼んだか」


「ひゃっ……もう、脅かさないでくださいな。年なんですから、心臓が止まってしまいますよ」


 夫はすぐ隣に立っていた。足音はしなかった。夫が着ている浴衣は彼のお気に入りで、「あれはまだ乾いてないのか」とよく聞かれたものだった。一番に乾くようにと、いつも日の当たる端っこで乾かしていた浴衣。見慣れたはずのそれに、懐かしさを覚えるのはなぜだろう。


「行くぞ」


「行くって、どちらに?」


 夫は川岸に向かって歩いていく。岸には木製の小舟が停められていた。舟には誰も乗っておらず、川の流れに合わせて揺れている。


「もう……」


 黙って舟に乗り込んだ夫を追いかける。揺れる舟の手前で戸惑っていたら、夫が手を引いて乗せてくれた。夫は慣れた手付きで舟を固定していたロープを外し、舟に備え付けられた長い棒を握って漕ぎ始める。舟が岸から離れていくことに心細さを覚えていたら、夫が漕ぐ手を止めて私に目を向けた。


「結婚して何年になる」


「いやですよ、また歳を忘れたんですか? 六十二年です。こないだ金婚式のお祝いも子どもたちから頂いたでしょう」


「金婚式は五十年の祝いだ。この間なものか」


「あら、そうでしたか?」


 そう言われてみれば、金婚の祝いをくれた孫にはその場で成人祝いを渡した気がする。その孫ももう一児の母だ。最近の夫婦は子供を持っても共働きが普通なのだと、彼女と正月に話した覚えがある。


「いやですねえ、歳を取ると時間の流れが速くって。でも、皆が帰ってくる盆正月がすぐに巡ってくるのはいいですよね」


「そうか」


「そうそう、お父さん。先日のお盆にね、かっちゃんが曾孫を連れてきたんですよ。暑かったから、お墓には連れて行きませんでしたけど。赤子はいいですねえ、もう可愛いったら。育てるほうは大変ですけどね、でも、育児は楽しかったですねえ……」


「そうか」


 夫がまた舟を漕ぎ始める。霧が濃くなった。


「……あら?」


 どうして私は小舟に乗っているのだろう。深い霧で周囲はよく見えない。私は赤いワンピースを着て座っていた。はっとして左手を確認すると、真新しい指輪が小指にはまっている。よかった、まだ慣れなくて、たまに落とすのだ。


 私に背を向けて立つ達彦さんが舟を漕いでいる。プレゼントしたポロシャツを彼が着ているということは、私はデートの途中にうたた寝でもしたんだろう。だって彼があれを着てくれるのは、休日に二人で出かける時だけだから。


 達彦さんが不意に手を止めて、振り返る。私は首を傾げた。


「ねえ達彦さん、どこに行くの?」


「行くんじゃない、帰るんだ」


「ふうん……? ねえ、また旅行に行きましょうよ。新婚旅行で行ったハワイも良かったけど、国内の温泉もいいんじゃない? 達彦さん、いつも忙しそうだから。たまにはゆっくりしましょうよ」


「……」


「あっ、都合が悪くなるとすぐ黙る。温泉は嫌? でもハワイでだって、ずっと仏頂面で……あ。そういえばハワイで買ってくれたワンピース、やっぱり着ていく場所がないのよ。リゾート地なら着られると思うの。ねえ、いいでしょう?」


「……」


 達彦さんは答えずに私に背を向け、また舟を漕ぎ始める。霧が濃くなった。


「……あら?」


 どうして私は小舟に乗っているのだろう。しかもデパートの制服で。指には何もはまっていない。おかしいな、何かアクセサリーを身に着けていた気がしたのだけど。霧が濃くて、舟を漕いでいる父の姿すら霞んで見える。父が手を止めて私に顔を向けてきた。


「おまえ、仕事はどうだ」


「もう。お父さんってば、会うたびそればっかり! 慣れたわよ。もう三年目のベテランですうー」


 ふくれっ面を返したけれど、父の表情は霧のせいでよく見えない。きっと向こうも同じだろう。たまに帰ればいつもこれだ。心配してくれているのだろうけれど、父からも母からも同じ質問ばかりされればうんざりもする。しかも結婚はまだかだの見合いをしないかだの続くのだ。


「……」


 珍しくそこで質問を止めた父が前を向き、また舟を漕ぎ始める。霧が、濃くなった。


「……あれ?」


 どこだろう、ここ。おふね? あしがとどかなくて、ブラブラする。あっちもこっちもまっしろ。よくみえないけど、だれかがたってる。じっとみたら、しっているひとだった。


「ママ!」


 ぴょいとおりたら、ふねがゆれた。じゃまないたをくぐって、ママのあしにぎゅってした。


 ながいぼうをもっていたママが、ふりかえって、わたしのあたまをなでてくれた。


「あなたは、幸せだった?」


「?」


 しあわせって、なに? めをパチパチしていたら、まっしろになって、なにもみえなくなった。


「お帰りなさい」


 だれかがわたしにそういった。


「ただいま!」


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― 新着の感想 ―
[良い点] 題名とキーワード、そして冒頭の様子から亡くなったのだと分かるのに、会話を聞いていると全く怖さを感じない独特の空気感が素敵でした。 もしも最後の質問が幼くなるよりも前の『私』にかけられていた…
[良い点] あの世への帰り道、途切れ途切れに思い出すのは幸せだった瞬間かと。 戻りの船を漕ぐのが愛する人なのは幸せですね。 少しずつ忘れて戻る… 怖いような、安堵のような不思議な物語でした。 [一言…
[一言] 静かに過去を辿っていったのですね。 幸せだったのか。 それは、物語を読んだ人に委ねられているのだろうな、と思いました。 穏やかで幸せな人生だったのだろうな、そんな風に思います。 読ませていた…
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