元彼の思い出は、これから最愛の彼になる
「お腹すいた。ご飯まだ?」
仕事でくたくたになり、やっとの思いで重い足を動かして家に帰った。
玄関のドアを開けるなり顔を出した彼の一言目はそれだった。
「はあーーーー」
大きなため息をつく。
「ごめんね、遅くなって。
今から準備するね」
笑顔で気丈を気取り、自分の部屋に入る。
素早くパジャマに着替えて、ちょっとだけ布団に転がる。
「あー、つかれた」
このまま目を閉じれば眠れそうだけど、彼に怒られる。
深呼吸を何度かして気合を入れて起き上がる。
「いよっしっ」
彼のご飯を用意する。
その間も彼はソファーのいつもの席に座っているだけで何もしない。
見張るようにこっちを見てご飯の催促をしている。
すこし気まずくなってテレビをつけた。
(今日16時頃、〇〇通り交差点にて車同士の衝突事故がありました。)
画面には原型を保っていない大きい車、運転席と助手席が燃え尽きて後部座席が丸見えの車が映し出されている。
道路にはガラスの破片が飛び散っていて、血にも見える黒い跡が残っていた。
現場には似つかわしくないほど、アナウンサーはサラッと台本を読み上げる。
その様子をまた、似つかわしくない表情でボーっと画面を見る。
私の焦点がテレビにあっているのか分からないけど、彼の視線に気づかないふりをするために見続ける。
「なんでぶつかるくらい早く走るの?」
彼が聞いてきた。その目はこっちではなくテレビを見ている。
「なんでだろうね、慣れてくると調子に乗っちゃうんじゃない。」
「へえ、そうなんだ
ぼくにはよく分からないなあ」
…そうでしょうね。
家の中でゴロゴロして、仕事もしないで、ご飯を待ってればいいだけなんだから。
私は心の中で毒づく。
疲れのせいか無性に腹が立ってきた。
普段の不満が溢れ出てくる。
彼の世の中を全く知らない感じが嫌い。
偉そうに座っていて何もしなくても許されるのも嫌い。
自分の都合のいい時しか来なくて、こっちの言うことは聞いてくれないから嫌い。
嫌い嫌い嫌い嫌い。
イライラする。
ご飯を作る手にも力だ入る。
まだまだ私も大人になりきれてない。
なんで一緒にいるんだろう。
決まりきった答えにたどり着くまで平均台を渡るように頭を働かせる。
たどり着いた答えは当たり前で、いつも通りのものだった。
…疲れるから嫌なところばっかり浮かんでくるんだ。
なんとか自分を落ち着かせ、完成したご飯をお皿に移す。
彼はまだニュースに視線を当てている。
だが、テレビではなく、その奥の何かを見ているように見えた。
ご飯を手に彼の近くまで行く。
「ん」
「おまたせ」も言わずに差し出した。
いつもなら置いた瞬間食べるのに、今日はご飯を見てもいない。
テレビの奥をずっと見ている。
「どうしたの?」
…。
答えはかえってこない。
そのまま1分くらいが過ぎた。
彼は小さな口を開けて
「…ごめんね」
と言った。
か細く萎れた悲しい声。
何に対してのごめんねなのだろう。
聞こうとしたが思いがけない言葉に驚き、喉がかすれて声にならない。
テレビの奥を見つめ、考えふけっていた目がゆっくりとこっちを見る。
「いいよ」を待っているでもない彼の表情に胸を締め付けられた。
私のせいだ。
全部、全部。
何も言えないまま俯く。
足元には彼にそっくりな猫のスリッパが見える。
彼がうちに来たのは1年前。
元彼とデートしている時にお店で出会った。
「なあ、この猫かわいくね?」
「すっごくかわいい!!」
「こいつにするか!」
「うん!」
毛が茶色とグレーを合わせたような、トラ模様の彼。
「にゃお」
と大きな黒目をアピールしていた。
私の家に彼を迎えて、しばらく3人で楽しく過ごしていた。
元彼がうちに来るのを辞めるまでは。
彼とふたりになり、私は荒んでいった。
元彼に好かれたくて買った猫。
元彼がいないなら…。
元々動物が好きじゃなかった。
小さい頃に噛まれたり追われたり、いい思い出がなかったからだ。
そんな気持ちで彼とすごしていた。
自分勝手で最低なやつ。
直接は言わないが、心の中で何度も毒づいた。
そんな態度を彼は見ていた。
きっと心の中も知り、深く傷ついていたことだろう。
ごめんは私のセリフなのに。
声に出せない自分がまた妬ましい。
彼はご飯に手をつけず、とぐろを巻いていた。
彼はお腹がすいて怒った目で私を見ていたわけではなかった。
なんて寂しい思いをさせてしまったの。
なんてひどいことを…。
ごめんね
ごめんね
声に出そうとするが、出てくるのは涙ばかり。
視界がぼやけて喉が熱くなる。
「ひっく…うっ」
我慢しても嗚咽が漏れる。
彼は起き上がり足元に来てくれた。
彼はいつも来てくれたじゃないか。
帰ってきた時、泣いている時。
「ごめ…んっ」
「にゃおっ」
しゃがみこんで頭を撫でる。
絞り出したごめんに彼は答えてくれた。
笑顔を見せると、安心したようにご飯を食べに行った。
明日はもっと美味しいご飯を作って、一緒に食べよう。