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心のお注射クリニック

作者: 谷まどか

 里子は心が沈んで痛い。とても痛い。実は明日、幸子が働いている食品会社で前任の高子先輩から引き継いだ、合計2年ががりの新商品の企画案を社内コンペで競わないとならない。里子は心が痛くて痛くてたまらない。だって、リーダーだった高子先輩は赤ちゃんを授かり現在育休中なのだ。入社以来ずっと親身にお世話してくれた高子先輩。先輩のためにどうしてもこの企画案を通したいのだが、里子は人前でしゃべる自信がないのだ。手塩にかけてきたこの企画案はとても良い案だが自分が説明する事で失敗したら、どうしようと気が重い。

「お疲れさまです」

里子は会社を出て、ふらふら歩いていた。歩いている道中も明日のプレゼンの事しか頭に浮かばない。すると、いつもと同じ道のはずだったが、右手に雑貨屋、左手にコーヒー店、という通りのちょうど手前に、見慣れない看板が立っていた。

「心のお注射クリニック?なにこれ?」

そして暖簾もだ。

「クリニックなのに暖簾?すごくミスマッチ」

里子がその店の前でキョロキョロしている間も他の歩行者は見向きもしない。まるで「心のお注射クリニック」という看板も暖簾も何も見えていないかのようだ。里子は勇気を振り絞り、暖簾をくぐり昔の古民家風の引き戸を開けた。

「こんばんわー」

中から出てきたのは、おばさん?おじさん?どちらか見分けがつかなかった。

「どうされましたか?」

おばさんだった。大福みたいに顔がまんまるいおばさんだった。里子は

「あのぉ」

「何かお悩みがあってお立ち寄りになったのね?」

「はい、えと、その」

里子ははっきり言えない。そして質問した。

「こちらは何をする場所ですか」

「この店の看板が見えたという事は何か悩まれてるよね?」

「実は私は人前で話すことができないのですが」

里子は話し始めた。話すのが苦手だがどうしても明日のプレゼンを成功させないとならないこと。すると

「ここはね、あなたが叶えたい願いを叶えるお注射をする場所です」

「注射?」

「人前で上手に話せる注射はこれだね。どう?やってみる」

「うーん、でも、知らない人から注射をされるのは怖いです」

里子は答えた。おばさんは

「本当に必要で願った時だけ看板が出てくるから、あなたなんとかしたいんでしょ?」

おばさんが聞く。里子は注射をお願いした。その注射は思っていた注射とは全然違う。病院でされるのとは違ったのだ。おばさんは里子の腕に水鉄砲を充てた。そして「ピュンッ」と水を放つ。

「なんじゃこりゃ」

里子の感想は本当にこんな感じだった。

「終わったよ、あんたが望んだ時に望んだ形で勇気が湧く注射さ」

おばさんが言う。

「お代金は?」

と里子が聞くともうその場所はいつも通っている道だった。なんだか狐につままれたようなそんな気持ちだった。

 翌朝、目が覚めるといつも通りの朝だったが、なんだか里子は早口言葉が言いたくなって、開口一番

「ある日昼ニヒルなあひるヒルにひるんだ」

呟いていた。早口言葉はとてもご機嫌な声色だった。それからすぐ食事を済ませて身支度をし、いつも通り出社したそして社内コンペの時間になった。不安な気持ちは変わらないのだ。だが、昨日までの憂鬱な気持ちとは打って変わり、心には勇気がみなぎった。里子の口は勝手に次から次へと言葉が出てきた。

「今回、企画した商品は、昨今、世界的にそして日本でも日に日に高まっているサステナブル思想に寄り添った商品です。消費者が感じる価値、そして、これからの未来へ向けての活動を意識して熟慮を重ねてきました」

なんだかペラペラ喋っていた。皆驚いていた。いつもの里子は誰かの後ろにくっついている八島里子だったのに、今日はひとり人前できちんとミッションを完結出来たのだ。話し終えると拍手が起こった。なんだか里子はとても満足していた。結果的に里子が高子先輩と考え出した案は不採用だった。しかし里子は満たされた気持ちだった。

 仕事が終わり里子は、昨日あった場所に向かった。また看板が出ていた。看板が出ているということは里子にはなにかまだ叶えたい願いがあるらしい。心も痛いということなんだろう。引き戸を開け中に入るとおばさんが

「来ると思ってたよ。まだ強く叶えたい思いがあるようだね」

里子は叶えたい願い、またもや、思っていたがなかなか出来ずにいたことだった。同僚の早田に秘めた思いだった。里子はあまり積極的なタイプではなかったが、早田とは心から楽しく話せるのだった。早田は少しだけ年上の先輩で、里子が困るといつも親切にしてくれた。里子に、というか他のみんなにも優しい。仕事で困っていても丁寧に教えてくれた。というか今でも、だ。今回の社内コンペも高子が休みに入った後は、最後まで相談に乗ってくれたのは早田だった。いつの間にか里子は親切な先輩、という気持ちが恋心にいつの間にか変わっていた。強く意識したのは最近だった。里子はおばさんに経緯いきさつを話した。そしておばさんは以前と同じように水鉄砲で腕に水をかけた。翌朝、里子の口は滑らかで、またもや

「ラバかロバかロバかラバか分からないので ラバとロバを比べたらロバかラバか分からなかった」

良くもまあ、口をついて流暢な早口言葉が出てくるのであった。出勤した里子はドキドキしていた。けれどなんだか昨日と同じで自信はないのだが、勇気は湧いていた。昼休みになった。偶然給湯室で早田にあった里子は突然早田に

「愛することによって失うものは何もない。しかし、愛することを怖がっていたら、何も得られない。バーバラ・デ・アンジェリス」

と話しかけた。哲学者が愛について定義した言葉が出たのだ。だが、なんだか次はもう喋りたくなかった。そんなこんな考える前にお注射なんかしなくても、愛について上手に語らなくてもいい。自分の中にある伝えたい事はただひとつなんじゃないかな。そう思った。魔法もおまじないも何にもいらない、哲学も関係なく、そして上手に喋れなくてもいいから。

「あなたのことが好きです」

考え出して話した言葉はこの言葉だった。早田は少し驚いていたけれど

「里子ちゃんには哲学的な言葉なんかより、素直な言葉が似合うよ、ありがとう。あっちでコーヒー飲もうか」

そう言ってくれた。里子にはもう勇気の出るお注射なんて必要なかった。

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