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夏詩の旅人

それぞれの夏(後篇)「夏詩の旅人新章2」

作者: Tanaka-KOZO

 2000年1月

僕は友人カズの自宅スタジオで、録音を終えた1stアルバムの、ミックスダウン作業に追われていた。


ミックダウンは、そのアルバムの命とも言える作業だ。

これが上手くいくかいかないかで、作品の評価がまるで変ってくる。


僕は何度もミックスダウンが済んだ曲を聴き返しては、また気になる部分をミックスダウンし直すという作業を繰り返していた。





 2月になった


 2月に入っても終わらない作業に、いいかげん見切りをつけた僕は、音源をマスタリング業者へ託す事にした。

完成したマスタリング音源は、2月の末に出来上がって来た。


マスタリングした音源は、まるで別のものに仕上がって来た。

音域は広がり、音には厚みが出て、そしてクリアな音源になった。


これなら流通して、大手CDショップが相手でも商売できるな…。


そう判断した僕は、その音源を今度はプレス業者へ発注した。

リョウにデザインしてもらったCDが完成し、僕の自宅へ納品されたのは3月の終わり頃となった。


 それを今度はディストリビューター(流通業者)へ搬入し、発売日を5月に決めた。

5月にしたのは、プロモ期間を考えての事であった。


夏をテーマに歌ってる僕の曲が、秋頃にジワジワとブレイクする事はない。

だから4月の一ヶ月間は、各CDショップやFM局への営業活動に力を注ぐ事にしたのだ。




 ディストリビューターから、「レコチョクなどのDL販売はやるのか?」と問われたが、僕はそれをやらない事にした。


僕のような得体のしれないアーティストなら、確かにDL販売した方が売りやすいのだとは分かっていた。

だが僕の対象となる購買者の人数は、CDでもDLでもさほど変わらないはずだ。


DL販売をしたら1曲60円の印税が発生するらしい。

だがDL販売は、合計金額が5000円毎に仕切られて支払われるのだ。


60円が5000円になるまで一体、何人DLしなければならないのだ?

では4900円分でDLが止まったら、それまでが全部パーだ。


そんなバカバカしいシステムなら、CD1枚の印税の方が遥かに良いではないか。


普通CDアルバム1枚の印税は、300円ほどであるが、僕は自分のレーベルから販売するので1枚1500円の印税となる。

その方がずっと合理的だと判断し、僕はレコチョク販売はやらない事にしたのだ。





 4月になった。

僕は都内のアコースティックバーなどを中心に、ほぼ毎週土曜日にはライブを行った。

日曜日はCDショップへ1stアルバムを発注してもらえる様に営業を掛けた。


平日は、会社が終わってから各FM放送局へ挨拶文を作成し、それをコンビニに持って行きCDと一緒に発送した。

その作業は毎夜、深夜2時まで行われ、気が付くとPCの前でうつぶせで眠り、そのまま朝を迎える日などが、あの時はしょっちゅうであった。


だがプロモ活動には手を抜けなかった。

エイマックスに切られ、福岡に帰って行ったサキも、結局事務所が、プロモに力を入れてくれなかったからだ。


たとえプロになっても、よっぽどの話題性がなければ事務所では、ほとんどプロモーションなどしてくれないのが現実だ。


事務所だって、次から次へとデビューしてくるアーティストに、いちいち付き合っていたら大変だ。

彼らは、モノになりそうなアーティストだけに力を入れて行く。


サキの誤算はそこだったのだ。

変にこじんまりとデビューするのであれば、制約の無いインディーズの方が、いろいろ試しながら自分たちでバンバン宣伝する事が可能だった。


これからは、セルフプロモーションをできるアーティストだけが、生き残っていける世界なのかも知れないと僕は感じていた。






5月

発売日よりも早く、amazonでは先行予約販売が始まった。


各CDショップからも注文が入り、ディストリビューターからは追加発注の連絡が僕の元へ来る。

僕は追加分のCDを夜になると、近くのコンビニからディストリビューターへ発送した。



(アニキ!、ありました!田中星児の隣に!)


田中星児とは、僕が子供の頃に「ビューティフル・サンデー」という曲で大ヒットした歌手である。

CDリリースの当日、渋谷のタワレコで、僕の1stアルバムを見つけたグリオが、わざわざケータイで、その証拠画像を送信してくれたのであった。




6月

あるブッキングライブで、僕は「愛川ゼン」というシンガーソングライターと、出会う事となる。


彼も僕と同じ時期に、インディーズデビューしたアーティストであった。

下積みが長かった彼は、僕よりも年齢は少しだけ上であった。


その時に連絡先を交換していた愛川から、後日僕の元へ電話が入った。


電話の内容は、愛川が今、自分の音源をアップしているインディーズ紹介のサイトに、僕にも参加しないか?という事であった。

そのサイトは、関西のラジオ番組と連動しており、毎週インディアーティストのランキングベスト10を放送するという番組らしい。


愛川は、そのサイトで自分の曲が現在2位になっていると、僕に嬉しそうに話していた。

だから君もやった方が良いと、誘って来たのであった。




へぇ…。そんなものがあるんだ…?


僕は軽い気持ちで、サイトにメンバー登録してみる事にした。

そして、1stの楽曲の12曲を全てアップロードしてみた。


販売数に影響するかもとは思ったが、売り上げなんかよりも、より多くの人の耳に届けたいという気持ちの方が強かった。


そして週が明けて、次のランキング10が発表された。

僕の楽曲は、なんと1位~10位まで全て独占する結果となった。


圏外の11位と12位も僕の曲で、愛川の2位だった曲は14位となってしまった。

愛川としては、皮肉な結果となったのであった。


今にして思えば、やつの性格から、僕を咬ませ犬にしてやろうという考えだった事が伺える。




「すごいね!、おっ…、おめでとう…!」

引きつり笑いの愛川が僕に言う。


それから愛川は、猛然と新曲を次々とサイトにアップした。

だが結果は毎週、1位~12位までは僕の曲で、彼の曲はいつもその後になってしまった。


僕の楽曲は、それから半年間ずっとそのサイトを独占した。

半年で終わったのは、ラジオ番組自体が終了してしまい、そのサイトが閉鎖されてしまったからだ。




 ある夜、ベロベロに酔った愛川から、僕のケータイに電話が入った。


酔っぱらった愛川は、怒鳴りながら僕に悪態をついてくる。

ロレツ回っていなくて、何を言いたいのかよく分からなかった。


ただ「お前が目障りだ!」「お前の存在が邪魔で許せない!」「俺の前から消えろ!」とか、そんなワードがバンバン出て来たのを覚えている。

要は、いくら新曲をアップしても、僕をランキングで越えられない愛川が、嫉妬で発狂した様なのだ。


自分から誘っておいて、何を言ってやがるんだこいつは…?


僕は以来、愛川と縁を切るが、今でもあの時のやつが不憫に思えてならない。


ミュージシャンは、こういう偏屈で自己顕示欲の強いやつが実に多い。

だから僕は、ミュージシャンの友達は、あまり多く作りたくないというのがホンネだ。


愛川はオッサンなのに、年齢を隠したりしてアホかと思った。

お前はアイドルになりたいのかよ?

そんな、若い女にチヤホヤされたいのが目的で音楽やってるやつが、俺に勝てるワケね~だろッ!?


僕は愛川に対して、そう思うのであった。





 7月になった。

僕が会社の昼休みに、カフェのテラスでランチをしていると、ケータイ電話が鳴った。


電話の相手は、湘南レディオというFM局の女性パーソナリティーからだった。

夏休みが始まる海の日に、江ノ島の頂上で特設ブースを設置して公開生放送をやるから出ないか?という誘いであった。


出演依頼された番組は、湘南レディオが力を入れている夏の特番であった。

その初日のゲストに、僕は呼ばれる事となったのだ。


そして放送日。

念願の、FMラジオから僕の曲が4曲もかけてもらった。

そして軽いジョークを交えたおしゃべりもし、僕の出演時間は40分にもなった。





8月

僕は相変わらず、毎週のようにライブバーに出演していた。


ある平日。

また昼休み中に僕のケータイが鳴った。


今度は、たまラジの音楽番組を担当している、フリーの女性パーソナリティーからだった。

彼女は、来日した外タレミュージシャンとかも相手にしている、耳の肥えた人物であった。


その彼女から「良い声してますね~♪、どんな顔してるのかしら?」と言われたときは、僕も自分のやって来た事に、自信が持てる気がしてくるのであった。


たまラジ出演は、平日という事だったので、お昼休みの時間帯にしてもらった。


僕は近くの公園で、木の陰に隠れながら電話出演した。

公園にいた周りの人も、まさかこんなところから、僕がラジオ出演してるとは夢にも思うまい(笑)


当初、出演時間は10分だと言われていたが、相手の女性パーソナリティーさんが、どんどんノッテきて、気が付いたら後のコーナーを押し除け、僕を30分もしゃべらせてしまうのであった。




 こうして、その年の夏が終わった。


CDは3ヶ月で100枚売れた。

100枚と聞いて少ないと思うかも知れないが、時代はCDが売れなくなっている傾向にあったのだ。


オリコンでは200枚以下の売り上げは公表されない。


紅白のトリを毎年勤めていた、あの大物女性歌手でさえ、その年にリリースされたシングルが200枚以下で、未公表となっていた。

それほどCDの売り上げは、低迷していたのである。


僕の信条は、付き合いや義理で、人に無理やり買ってもらう事は絶対にしない。

そんな事で売り上げ枚数を増やしても、何にもならないからだ。


そうやって興味のない人にCDを売っても、埋もれてしまうだけなのだからと、僕は思っていたのだ。


大物紅白歌手には、大手レコード会社がバックについて、TVで宣伝して、多くの関係者がノルマで買わされている事などを考えると、僕の1stが3ヶ月で、知人以外から100枚売れたというのも、そんなに悪くないんだと思った。


それに僕のCDの印税は1枚1500円だ。

普通、自主製作じゃないCDアルバムの印税は、1枚300円あれば良い方なのだ。


大物紅白歌手の売り上げ枚数が、たとえ199枚であっても、運営費や印税収入率で考えたら、僕の方が全然利益が出ているのである。

投資した費用を考えたら、まだまだ元を取り返してはいないが、次の2ndアルバムに向けた原動力にはつながった。





9月

サーフ系雑誌“F”で同僚の中出氏が、なんと結婚した!


毎週のように、合コンや、「耳かき膝まくら」に通っていた中出(ナカデ)氏が結婚するという事で、同僚たちは驚いた。

実は彼には、何年も付き合っている彼女がいたようで、その彼女の妊娠が発覚した事でのデキ婚だったのである。




これにはデザイナーのリョウも、中出氏に対して不信感をバリバリに募らせる。

だってリョウは中出氏に、「彼女が欲しい」と頼まれて、何回もやつの為に合コンを設定させられていたからだ。


「ちょっと!中出さんッ!、来月の合コンどうするつもりだったんですかッ!?」

怒ったリョウが、中出氏に詰め寄った。


「大丈夫!大丈夫!、結婚してもちゃんと出席しますから…」と中出氏。


「……ッ!」

口をあんぐりと開けたリョウが、中出氏の前で固まった。


「そんな事、許されませんよッ!」

あまりにもいい加減な中出氏に、キレるリョウ。


「大丈夫!大丈夫…!、私の人生、バーリトゥード(何でもあり)ですから…」

そう言うと中出氏は、中指でメガネのフレームをクイッと押し上げるのだった。




 中出氏の結婚式当日。


僕やグリオなど、“F”誌の同僚たちは披露宴に出席した。

結婚式は彼の地元からほど近い、立川のホテルで行われた。


両家の来賓者は、友人関係だけの招待であった。

お互いの両親は勿論、親戚関係者も呼んでいなかった。


新婦側のお披露目は別途、沖縄で後日パーティーを行うらしい。

中出氏の奥さんは東京都羽村市生まれだが、彼女の母親の実家が沖縄なので、そうするらしい。


そんな中出氏の結婚式は、異様な雰囲気の中、始まった。

それは、新婦の方が思ったよりも出席者数が多かった為、人数が集められなかった中出氏が、現在進行中の浮気相手女性まで、頭数に入れて招待するという、暴挙に出たからである!




「それでは新郎のヨシノブさんに、ご友人からお祝いメッセージが届いておりますので、読み上げて行きたいと思います…」

披露宴の司会者がマイクを手に言う。


「では、お読みいたします…」


「ヨシノブさん久しぶり…、あんたよくもまぁ、ぬけぬけと私にこんな報告をしてきたものね…、あれッ?、あれッ?」

「しっ…、失礼いたしました…。手違いで間違えたメッセージを読み上げてしまい申し訳ございません…」


動揺する司会者。

新郎新婦席に座る中出氏は、「ん!?」という顔をした。


「では、改めまして…、メッセージを読み上げさせて頂きたいと思います…」

額に汗をかく司会者。


「は~い元気ナカデちゃん!、最近お店に顔出さなから心配してたのよ。顔出さないって言っても、まだ一週間だけどね。だってナカデちゃんは毎日来てたから…」

「えっ、あたしは誰かって?、あたしは吉原のミドリちゃんでぇ~す…。あれぇ~?」


ははははは…。


笑うしかない司会者。

ざわつく披露宴会場。


「それでは、メッセージはこの辺に致しまして、ご友人からお祝いの言葉をお願いします」

「では新郎のご友人である、桜木ルミさん、お願いいたします」


司会者がそう言うと、僕の隣の円卓に座っていた女性が、スクッと立ち上がり、マイクがある壇上へと進んで行った。


マイクを握る女性。

するとイキナリ中出氏を睨みつけて、叫び出した!


「おいッこらッヨシノブッ!、てめぇ何考えてんだよッ!」

「先月まであたしと結婚するってほざいてて、こらどうゆう事だよッ!?、説明しやがれッ!」




ブローザー・ブロディみたいな、ロン毛ソバージュの女が、髪を振り乱して怒り出す。

その様相は、まるでプロレスの試合を終えたばかりのリングに乱入して来た、超獣コンビさながらの姿であった。


「あたしとこの女と、一体どっちを取るんだよぉ~!」


警備員に取り押さえられながらも、マイクを離さずに怒鳴り続けるブロディ。

中出氏は、「ん?」という顔をして、何が起きているのか把握できていない様だった。


ブロディが無理やり外へ連れ出されそうになると、他のテーブル席に座っていた新郎の友人女性たちも、壇上へ走り出して加勢する。


中出氏に罵声を浴びせ掛ける、新郎の来賓客女性たち。

披露宴会場は大パニックと化した。


うわぁ~…!

こんな結婚式初めて観たぜ…。


僕は、女性たちに胸倉を締め上げられている中出氏を眺めながら、そう思うのだった。


バシャ~ンッ!


中出氏は女性の1人から、グラスのビールを顔にぶっかけられていた。

やつの結婚披露宴は、まさにバーリトゥード(何でもあり)となるのであった。




 年が明けて2001年4月。


二階堂マイコが、我が編集部に入社した。

リョウにも後輩社員が、ついに入社したのである。


リョウは後輩のマイにつきっきりで、一生懸命仕事を教えていた。

その甲斐もあって、マイは編集部の仕事を早くから、どんどん吸収していった。


彼女は文章を書くのと、写真を撮るのが得意であったので、僕が担当していた、宿や飲食店の取材などを主に任せる事にした。

僕やリョウやグリオとも親しくなり、よく仕事帰りには皆で駅前の居酒屋で飲んだりする仲となった。



 それと余談であるが、実はマイが入社した翌週に、もう1人女性が入社して来ていたのも報告しておこう。

ツノダ花子という35歳の女性で、元々は僕よりも古くから、“F誌”編集部で働いていたらしい。


ホンコンとタシロが退職した事で、バタついてた編集部の応援という事で編集長が呼び戻したのだった。




「今日は、以前働いてた女性が、入社してくるらしいぞ…」

僕がグリオに言う。


「知ってますよ。また可愛いコだったらイっすね!」


「あ!、来たぞ」

編集長に連れられて、新しい女性が編集部に入って来た。




「みなすぁん、こんぬつわ。ツノダ花子どぇす!」


編集長に紹介されたツノダ花子が、みんなの前でそう挨拶をした。

花子は、昔の事務員さんが、よく袖に巻いていたカバーを両肘に付けていた。




ツノダ花子は、もの凄く訛っていた。

もっさりしたタイプで、背は高くないが、筋肉質で体格が良くて、がっちりしていた。

顔はモンゴル力士横綱の朝章龍にそっくりで、朝章龍がオカッパ頭にした様な感じの女性であった。



「ブスじゃないですか…」

グリオが僕に向いて、目の前の花子の事をそう言った。


バキッ!


「グエッ!」


グリオに、いきなりラリアットを喰らわす花子!

僕は一瞬、何が起こったのか把握できないまま固まった。


「ぐぅぇぇぇ…、何しやがるぅぅ…?」

沈み込んでるグリオが、喉を押さえて苦しそうに言う。


「おめ…、レデーに向かって、すつれーな事いうやつだな…?」


花子がグリオを見下ろしながら言う。

花子はスタン・ハンセンみたいに、袖に巻いていたカバーを肘までずり上げて、ラリアットを喰らわした様だ。


「す…、すいませんでしたぁ…、ぐぅぇぇぇ…」

グリオが苦しそうにして、花子に謝った。


グリオが詫びると花子は、スッと身をひるがえし、元の場所に立った。


「ツノちゃ~ん♪、また以前みたいに、宜しく頼むよぉ~!」

すると何もなかったかの様に、編集長が花子に言う。


「オッケーどぇすッ!」と花子。


「私、新人なんです。分からないことがあったら、いろいろ教えて下さい…」(リョウ)


「オッケーどぇすッ!」と花子。


「私もまだ入社したばかりなので、宜しくお願いします」(マイ)


「オッケーどぇすッ!」と花子。


「ははは…、何だ?『オッケーどぇすッ!』って…」

グリオが花子を指しながら笑って、僕に言う。


バキッ!


「グエッ!」


またグリオに、いきなりラリアットを喰らわす花子!


「不意討ちとは卑怯な…、ぐぅぇぇぇぇ…」

沈み込んでるグリオが花子に言う。


「不意討ちしなきゃ、ヒットマン・ラリアットの意味ねぇだろぉ!」と花子。


「ぐぅぅ…、ヒットマン・ラリアットって…、全日の阿修羅原かよ…?」

喉を押さえながら、苦しそうな表情のグリオが言う。


「おめさ…、とどめ刺されてぇみてぇだな?」(グリオに凄む花子)


「ぐぇっほッ!、けっ…、結構どぇすッ!」

驚いて咽かえったグリオが、片手で花子を制止ながらそう言った。


僕ら編集部の連中は、その光景を唖然として見守るのであった。

こうしてグリオと花子の因縁は生まれたのである。





5月

GWの連休中、僕はサーフ系雑誌“F”の編集部連中らと多摩川へBBQに来ていた。

そのBBQをやる場所は、中出氏がお勧めする河原であった。


僕は、その場所が分からないので、中出氏の運転する車に先導されながら、僕の運転する車は目的地の河原へと到着した。


 到着したその河原の対岸には、サマーランドが見えていた。


水辺では美しい鳴き声を出す、カジカガエルの鳴き声が響く。

まだ5月であったが、陽射しは強くて暑い日であった。





「オーライ、オライ、オ~ラ~イ…、オッケーどぇ~す!」


仲間たちの車を誘導する花子。

花子は、くの字に身体を前に曲げながら、両手を正面に突き出して車を停めた。


僕とグリオはその姿を遠巻きに眺めていた。


「見事なもんだな…」

僕が言う。


「どこがですか…?」

グリオがふてくされて言う。


「彼女の自宅は、千葉のガソリンスタンドなんだそうだ」


僕がそうグリオに言ってる間にも、花子は他の車を誘導していた。


オーライ、オライ、オ~ラ~イ…、オッケーどぇ~す!


「ガソリンスタンド~?、どうりで…、そんな感じですよ」

「見て下さいよ、あのケツ!、あんだけデブなのに、ケツが1番デカいじゃないですかぁ!」


グリオの言葉を聞いて、僕は遠くで車を誘導している花子の方を見た。


「なんすかあの体形は、まるでハクション大魔王の土瓶みたいなスタイルじゃないですかぁ!」

「よくあんなデカパン売ってたよなぁ!?」


グリオがそう言った“デカパン”とは、花子が今日穿いているショートパンツの事だ。


「おいおい、お前そんな事いってると、またラリアット喰らわされるぞ(笑)」


「へッ!、聞こえませんよ!こんな離れてちゃ…」

「まったく、なんであんなやつBBQに呼んだんですか!?」


オーライ、オライ、オ~ラ~イ…、オッケーどぇ~す!


グリオが30mくらい先にいる花子を見ながら言う。


「一人だけ誘わないワケにもいかんだろう…」(僕)


「せっかくホンコンが辞めて、編集部に平穏な日々がやって来たってのに…、あのデカパンせんせぇがよぉ~ッ!」(グリオ)


「なんで先生なんだよ?(笑)」

悪態をつくグリオに、僕は笑いながら理由を聞く。


「理由なんかありませんよ。デカパンだから、デカパンせんせぇなんですよ!(笑)」

グリオが意地悪そうな笑顔で言う。


バキッ!


「グエッ!」


さっきまで向こうにいたはずの花子に、ラリアットを喰らうグリオ!


「ぐぅぇぇぇ…、お前は…、瞬間移動できるのかよぉぉぉ…?、ゲホッゲホッゲホッ…」

喉を押さえながら苦しそうに言うグリオ。


「わたすは、こう見えても、高校時代は陸上部でスプリンターだったんどぇす!」(花子)


「お前が陸上部ぅ~?、ゲホッゲホッゲホッ…」(グリオ)


「わたすのロケットスタートは、“木更津のベン・ジョンソン”と言わしめたんどぇす!」(花子)


「ベン・ジョンソンは、ドーピングで永久追放されたじゃんかぁ…?、ゲホッゲホッ…」とグリオ。


睨み合う2人。

こうしてグリオと花子の因縁は、ますます深まって行くのであった。





 さて、それから準備が整った僕らは、ビールで乾杯し、BBQはスタートした。

運転手だった僕と中出氏だけは、キリンフリーを飲んでいたけどね…。


リョウとマイが仕込みを済ませた、肉や野菜を、彼女たちがBBQコンロで焼き始める。

煙がジュワ~と、コンロから沸き上がった。


食事がある程度進むと、僕らはなんとなくバラバラに自由行動をする様になっていた。


川の水に足を浸して、折り畳みイスに座り、話しているリョウとマイ。

タープの中でレジャーシートを敷き、涼んでいた久保木と春日は横になって寝ていた。


花子は、マムシを捕まえて酒を造るんだと言って、里山の中へと入って行った。


そして、僕とグリオと中出氏は、みんなのいる場所から少し離れたところで、ビール片手に立ち話をしていた。



「知ってるか?、グリオは今、鶯谷の女と付き合ってるんだぜ!」

僕が中出氏に、ニヤニヤしながら言う。


「ホントですかッ!?、僕は以前、吉原の女と付き合ってましたよ!」

目を輝かせながら、グリオにそう言う中出氏。


「いや…、そういうのじゃないんですよ…」(困り顔のグリオ)


「違うのか?」(笑いながら言う僕)


「いや…、まぁ…、そうですけど…」とグリオ。


「いつから付き合ってるんですか?、鶯谷の女と…?」

中出氏がグリオに聞く。


「中出さん、誤解してますよ…。中出さんの奥さんは、どこの女ですか?」(グリオ)


「どこの女って…?」

どういう意味と聞く中出氏。


「住んでた実家です」(グリオ)


「羽村です」(中出氏)


「じゃあ奥さんはどこの女ですか?」(グリオ)


「羽村の女です」(中出氏)


「僕は、鶯谷の女です」(グリオ)


「すごいじゃないですかッ!、僕は以前、吉原の女と…」(中出氏)


「だからぁ…」(グリオ)





「え~ッ!、鶯谷の女って、今住んでる実家の最寄り駅が、鶯谷っていう意味だったんですかぁ!?」(中出氏)


「そ~なんですよ。アニキは酷いんですよ」

「この前、山手線の中で、『こいつ今、鶯谷の女と付き合ってるんだよ!』って、突然言い出すもんだから、近くにいたサラリーマンが、僕の事見ながらニヤニヤするんですよ!」


そう言ったグリオの後ろにいた僕は、声を殺して、ククククク…と下を向いて笑っていた。





「えっ!、アニキまたアルバム出すんですかッ!?」

BBQ帰りの車の中、助手席に座るグリオが僕に言う。


「ああ…、来年の5月に2ndアルバムをリリースする」

ハンドルを握る僕が、グリオに言った。


「よく金が続きますね」


「印税が入って来たからな」


「じゃあ豪遊しましょうよ。その金で…」


「バカ言うなよ!、そこまで儲かってないよ。まだまだ赤字だ!」

「2ndは前回の反省を踏まえつつ、在庫が残らない様に調整して枚数をプレスする。俺にニーズがある購買者数も大体読めてきたからな…」


「じゃあまた素材を撮影しに、海へ行くんですか?」


「そういう事だ」


「僕はもう行きませんよ」


「分かってる。お前は鶯谷の女が出来たからな…(笑)」


「まぁ、そういう事です」


「今回は、リョウとマイとで行ってくるよ」


「どうぞ今回は好きにやって下さい。もう僕にはカノジョが出来たんで、関係ありませんから…」


「なんだよ、前回はホンコンの二の舞がどうのこうのと言ってたくせに…」


「僕はカノジョと結婚を考えてるんで、もう良いんです」


「ほう…、そうか…。お前確か17歳以上の女は、女じゃないとか以前言ってたよなぁ~?」

「しゃべっちゃおうかな~?、今のカノジョに…」


「ヤメテ下さいよッ!、人の幸せを壊すのはッ!」


「分かった分かった…。まぁとにかく6月には素材撮影を終わらせて、7月からはレコーディングにまた入る。そしたらまたお前とは、しばらく飲みに行けないからな…」


「大丈夫です。僕はカノジョと会うのに忙しいですから…」


「はいはい…」

僕はそう言うと、(グリオも27歳になって、結婚とかを考える齢になったんだなぁ…)と、感慨深く思うのであった。






6月

僕は休日になると、リョウとマイを引き連れて、伊豆や湘南に撮影しに行った。


CDジャケットのデザインは、またリョウにお願いする事にした。


今回の2ndアルバムは、僕にとって正念場だった。

1stアルバムだけで終わるインディーズが多い中で、この2ndアルバムを作るという事が、大きな意義となるのだ。


インディーズだからって、せせこましくやりたくない。

僕はメジャーレーベルと同じ土俵で、どこまで自分がやれるのか挑戦してみたかったのだ。




 翌年の2002年4月

僕はカズの自宅スタジオでのレコーディングも終了し、2ndアルバムのプロモーション準備に掛っていた。

時代はネット通販が中心となっており、HMVなどの大手CDショップなどは店舗を閉鎖していた。


そういう事もあり、僕は今回の2ndアルバムの営業は、CDショップにはやらないで、他の方法を試してみる事にした。

まずは、2ndアルバムの楽曲を有線放送へ登録してみる事にした。


有線放送へ登録するには事前審査がある。

僕は有線放送へ2ndアルバムを送り、審査結果を待った。


数日後、有線放送の審査は無事パスする事ができた。


続いて僕は、1stアルバムでお世話になった湘南レディオのスポンサーとして、湘南レディオのHPにバナー広告を打つ事にした。 




それから、湘南レディオの広告担当者のご厚意で、7月から8月の2ヶ月間だけのバナー広告契約を、僕の誕生日が6月という事で、6月から、サービスでバナー広告を出してくれるという、粋な計らいを受ける事となった。


更にその広告担当者の女性は、自局の番組へ、いろいろと掛け合ってくれて、6月から8月に掛けては、湘南レディオの各番組で、僕の2ndアルバムの曲がルーティンで流れる様にして頂いたのだ。





 こうして5月には、無事に僕の2ndアルバムはリリースされた。


 FMラジオでは、その他に今回初となる、FM西東京の番組ゲストにも呼ばれる事となった。

その日は平日の16時からの収録だったので、勤めている会社を早退して出演をした。


そして福岡のFM局からもオファーが入った。

九州の放送局という事で、放送局からの出演とはならなかったが、それでも遠方の地で、僕の曲が流れるという事が大変嬉しかった。


まさか聴いている事は無いとは思うのだが、エイマックスに契約を切られ福岡へ帰省したサキが、もしもこの放送を聴いてたら、どんなに嬉しい事だろう。

僕が元気に音楽を続けている事を彼女が知り、それが切っ掛けで、またこの世界に挑戦してくれたら良いなぁという思いが、僕にはあったのであった。


 そして僕は、また都内各所や、今度は神奈川県でもライブ活動を行った。

神奈川のライブでは、グリオが例の鶯谷のカノジョと、わざわざ神奈川まで僕のライブを観に来てくれた。





 そして、2ndアルバムをリリースした2002年の夏が終わった。


CDのプレス枚数を調整したつもりであったが、売り上げ枚数は1stよりもかなり下回ってしまった。

従って、印税収入もかなり落ちてしまった。


時代は、i-Podを介したDL販売が更に中心となり、CDという音楽ソースは完全に破綻していたのだ。

僕は今回もDL販売をやらなかったが、なぜか違法DLできる無料のサイトに、2ndアルバムの曲がアップされていた。


だが本当に手にしたい作品であれば、たとえ違法DLされてもその後にCDを購入するはずだ。

結局はそこまでに至らない、僕の力不足なのだ。


考えように依っては、違法DLだとしても誰かが僕の曲をi-PodにDLするならば、僕の元に金は入らないが、曲は聴いてもらえる。

僕は、別に音楽で稼ごうとは思っていないのだから、より多くの人に自分の曲が届くのであれば、それはそれでよしと考える事にした。






9月

昨年の夏、2ndアルバムのレコーディング中、その日の作業が終わると僕とカズは、いつも上石神井まで出て来て飲んでいた。


その頃にはARROWSや三男坊は既に閉店しており、僕とカズは駅前に新しく出来た串揚げ屋「K」で飲む事が多かった。

カズの自宅スタジオが石神井公園にあったので、上石神井は近かったのだ。


その串揚げ屋「K」で、僕は会社帰り、1人カウンターで酒を飲んでいた。


「あら先生!いらっしゃ~い!」


しばらくすると、女性店主がカウンター越しから、店内に入って来たストレートでロン毛のスリム男性にそう声を掛けた。

先生と呼ばれたその男性は、僕の隣の席に着くと、ニコリと笑顔で僕へ会釈した。


「先生は歌を教えてるのよ~。だから音楽の話が合うんじゃない?」

女性店主が僕にそう言い、その男性を紹介した。


「EXPでボーカル講師をしている佐々木です」

その男性は丁寧な口調で、僕にそう言った。


「EXPで…?」

僕はその学校に通っていたサキの事を思い出した。


僕は彼と飲みながら話していたら、段々と彼のプロフィールが分かってきた。


佐々木氏は北海道出身で、ヘビメタ全盛期だった頃、「マーベルライガー」のボーカリストとして活躍していた人物であった。

僕が20代だった頃は、まさにヘビメタブームだったので、僕もそのバンドの事は知っていた。


佐々木氏は僕と同年代だったが、僕が学生時代には、彼はもうデビューしていたからキャリアは相当長い事になる。

彼の歌は、デビット・カヴァーデール並みのハイトーンボイスだったので、僕とは真逆のボーカルスタイルであった。


「あなたも何かやってるんですか?」と佐々木氏。


「大した事やってませんけど、まぁこんな感じの音楽をやってます」

僕は、「聴いてみますか?」という感じで、自分のアルバムが入っているウォークマンのイヤホンを、佐々木氏に手渡した。


僕は2ndアルバムの反省も踏まえて、何が悪かったのか?、彼に聴いて欲しかったという気持ちが少しだけあった。


佐々木氏は、音楽に対して物凄く真摯な人だった。

「そこまでしっかり聴き込まなくても…」と、こちらが恐縮してしまうくらい、僕の曲を熱心に次々と聴いてくれた。


「いやぁ…すごい良い声だね!、僕も齢取って来たから、ホントはこんな風に歌ってみたいんだけど、なかなか仕事がらできなくてねぇ…」

「この夏っぽいのが良いよねぇ…。僕も夏っぽいの意識して歌ってるから、この雰囲気、すごい分かるよ」


佐々木氏は、僕の楽曲を褒めてくれた。

そして悪いところは、曲を聴きながらでも、スグに指摘してくれた。


僕のアルバムで唯一、指摘があるとすれば、ミキシングという事だった。

やっぱプロは鋭いなぁと思った。


2ndのミキシングは、僕が行った。

つまり素人の仕事だ。


「良いねぇ!この曲!…、あっ…、う~ん、ミキシングが惜しいなぁ…、でもしょうがないか…、自分でやってるんだものね…」

佐々木氏が僕の曲を聴くと、どの曲でも、こんな感じの事を常に言っていた。


なるほど…。

プロってのは、こういうところを聴いてるんだ?と僕は思った。


だけど逆に言えば、お世辞が入ってるにしても、曲や歌に関しては、特に指摘するところは無いんだという事も分かった。


「週末の夜中は、いつも下井草のロックバーで、ガイやキドーとセッションしてるから、今度一緒にやろうよ!」

「俺がギター弾くから、歌ってよ!」


佐々木氏は、僕にそう言ってくれた。


ちなみに、ガイとキドーとは、元マーズシェイカーのベースとドラムだった人物で、彼らもEXPで講師をしているのを僕は知っていた。

特にキドー氏に関しては、ARROWSで働いていたサキのドラムの先生だったので、彼女から話を聞いていてよく知っていた。


「じゃ、また今度一緒に飲もう!」

佐々木氏と電話番号を交換した僕が、彼にそう言い、2人はその日別れた。




 そして月日は流れ、2003年3月となった。

そう、あの東日本大震災が起こった2003年の3月だ。


僕はこの日、会社で仕事をしていた。


週末の金曜日。

午後2時過ぎに凄い揺れを感じたのを、今でもハッキリと覚えている。


震源地は東京から近いのだと思っていたら、震源地が東北のM県だとしばらくしてから分かった。


デザイナーのリョウが、学生時代の友人の結婚式に出席する為、ちょうどM県に行っていたのが心配だった。

何度連絡しても、回線状況がパンクしており、彼女と連絡を取ることが出来なかった。


電車は止まり、僕はラジオを聴きながら歩いて自宅まで帰った。

余震は断続的に続き、家路に向かう途中、何度もラジオからは緊急速報が入って来た。


東北に比べ、震度が半分程であった東京でも崩壊した家屋があった。

僕はそんな光景を見かけながら、不安を抱えつつ家に向かった。


 そして夕方5時に会社を出て、自宅に着いたのは11時ちょっと前だった。

革靴で歩いて来たので、相当疲れたのを覚えている。

翌日が土曜日で、仕事が休みだったのには本当に助かった。


 それから数日間、電車が動かなくなってしまった関係で、僕は会社に出社する事が出来ず、自宅で待機する毎日が続いた。

計画停電などもあり、不安な毎日を過ごす事となった。


 数日が経過し、電車もようやく動き出す頃、リョウとメールで連絡も取れて、彼女が無事だった事を僕は知った。

だがリョウは、それからしばらくしても会社に出て来る事はなかった。


そして彼女は、有給休暇を使い果たす頃の4月になると、そのまま“F”誌を退職してしまった。

M県でリョウに、一体何があったのか聞くことも出来ず、彼女は僕らの前から消えてしまうのであった。






 9月中旬

サーフ系雑誌“F”編集部。


「ねぇ…、今日仕事終わったら、ちょっと飲みに行こうよ…」

浮かない顔をしたマイが、僕を飲みに誘った。


「ああ…良いよ。どこへ行く?」と僕。


「池之端の藪はどう?」


「蕎麦屋か?、良いね!」


僕はそう言うと、マイと藪蕎麦へ行く約束をした。





 東京都台東区、池之端藪蕎麦。


僕とマイは座敷に通されて、向かい合って座っていた。

板わさと焼海苔と蕎麦味噌をつまみに、僕らは菊正宗の冷をちびちびとやりながら、盛り蕎麦が出てくるのを待っていた。



「この前は、土産ありがとうな…」

マイに菊正宗を注ぎながら僕が言う。


土産というのは、先月(8月)の終わりにマイが行って来た、沖縄旅行の土産の事だ。

ソーキそばの袋麺や、ハイチュウのシークァーサー味とか、沖縄のご当地ならではの珍しいものを、僕はいろいろ彼女から貰っていた。


マイは高校時代からずっと付き合っている彼氏と、毎年8月のお盆が過ぎる頃になると、沖縄旅行へと行っているのだ。


「で?、なんかあったのか?浮かない顔してさ…」

僕はそう言うと、菊正宗をクイッと飲んだ。


「実はさ…、彼氏と別れたんだよ…」

酒を飲みほした僕の猪口に、マイが菊正宗を注ぎながら言う。


「え!?、そうなのか?」

僕は猪口を手に、驚いた。


「だって学生時代から、ずっと付き合ってた彼氏じゃないか…?」


「しかも最後はメール1本だけだよ」とマイが言う。


「メール1本?」


「そう…6年も付き合ってて、たった1本のメールだけで、別れよう…って、書いてあった」


「ただそれだけ?」


「うん…、酷くない?」


「確かに…。君とちゃんと会って、話し合うべきだよな?、本来ならば…」


「もう新しい彼女が出来たから…、それさえも面倒なんじゃない?」


「そうなのか?」


「多分ね…。6年も付き合ってたんだから、そういう性格だってのも良く分かってるよ…」


マイはそう言うと、板わさを箸でつまんだ。


「今日飲みに来たのは、その件か…?」


「違うよ!」

そう言うとマイは続けて話し出した。


「私ね…、“F”誌を辞めようかなって思ってる…」


「男と別れたからか…?」


僕がそう聞くと、マイは(そうじゃない)という仕草で、黙って顔を左右に振った。


「私、ほんとはね…、音楽雑誌で仕事がしたかったの…」

「音楽雑誌でレビューとか書いたりするのが夢なの…」


マイが僕にそう言った。


「確かに君は文章書くのが上手いし、音楽も好きだしな…」


「音楽雑誌の編集者って、採用倍率がスゴイ厳しいじゃない?」

「私はキャリアが無いから、ここ(“F誌”)しか受からなかったんだ…」

「でも本当にやりたいのは、音楽雑誌での仕事…」


「そうか…。ここ(“F誌”)である程度キャリアも積んだから、そろそろ本命にチャレンジしたくなった訳だ…?」


「うん…」


「やってみろよ」


「でも音楽雑誌は特に倍率厳しいから…、悩んでるよ…」


「君なら大丈夫だよ。絶対…」


「絶対なんて言わないで!」


「えっ…?」

マイが、突然ムキになって言うので僕は驚いた。


「この世の中に、絶対なんてものはないのッ…!」

「100%なんてものは、あり得ないんだよ…」


「なんでそんな事を言う?」


「彼氏が言ってた…」


「別れた彼氏か?」


「うん…、この世の中には、絶対なんてものはあり得ないって…」


「そういうネガティヴな発想、嫌いだな俺は…」


「えっ?」


「そんな後ろ向きなアドバイスしか出来ない男なんか、別れて正解だ」


「でも実際そうじゃない?」


「だとしてもだ…」


僕がそう言うと、ちょうどよいタイミングで、盛り蕎麦が僕らの席に運ばれて来た。

さすがは、老舗の江戸前蕎麦店だと僕は思った。


僕らは無言で、盛り蕎麦を啜った。


「話が長くなりそうだな…?」

蕎麦を食べ終えた僕がマイに言う。


「えっ?」と僕に振り返るマイ。


「付き合うぜ…。但しここじゃダメだ…。江戸前の蕎麦屋では長居は禁物だ。粋じゃない」

「続きは、次の店で聞こう…」


そう言うと、僕は座敷から立ち上がった。


僕らはこの後、赤ちょうちんの居酒屋で酒を飲んだ。





10月初旬


週末の土曜日。

僕はマイとグリオとで、奥武蔵の飯能アルプスを縦走していた。


「一緒に来るか…?、スカッとするぜ…」

元々グリオと2人で行くつもりのトレッキングであったが、失恋から、まだ元気が戻っていないマイに、僕はそう言って誘ったのだ。


飯能アルプスは、標高こそ500m程で大したことはないのだが、急なアップダウンの繰り返しが激しい山で、少し登ったと思ったら、すぐ下り、そしてまた登るという、なかなかキツイ行程で知られる山である。

その、繰り返し続くアップダウンの累積標高は1500mとも云われている。


登山のアタックを開始する場合、スタート地点の登山口が、海抜0mからのスタートという事はまず無い。

例えば1000mの山を登る時、スタート地点の標高は、既に500mという事などが結構多い。

その場合、実際登っているのは残り500mという計算になる。


つまり累積標高が1500mというのは、海抜0mから、標高1500mまで登る行為と等しいという事なのだ。



この日は出発時では快晴であったが、段々と雲行きが怪しくなり出していた。

女心と何とやら…、というやつだ。



「アニキィ~…、ちょっと待って下さいよぉ…」


ハァハァ言いながら、最後尾を歩くグリオが言った。

僕とマイは、グリオの先を歩いていた。



「マイ…、この前あんな事言ったけどな…、実は俺も会社を辞めようか、どうかと迷っている…」


「音楽だけで生きて行くかって事…?」

僕の隣を歩くマイが言う。


「そうだ…。それで本当に食って行けるのかどうか…、俺は不安で迷っている…。だから実は俺も君と同じだ…」


「誰もが、同じ悩みを抱えているものなのかも知れないね…?」


「ああ…、この前は君にやってみろと、軽はずみに言ってしまったが、あれは悪かった…」


僕がそう言うと、マイは僕の方を向き、ニコッと笑った。


「マイ…、あそこが今日の最高点だ。あそこに着いたら少し休もう…」

僕が目の前にそびえる小ピークを見て、そう言った。




「はぁ~…、やっと着きましたねぇ…アニキ…」

木の幹に腰かけたグリオが、ぐったりして言う。


最高点は木々に囲まれており、周りの景色などは一切眺められなかった。


僕らはそこで、持参したオニギリなどを食べながら、水分補強もした。


ゴロゴロ…。


その時、遠雷が微かに聴こえた。


「行こう…、ひと雨来そうだ。急ごう…」

僕は、マイとグリオにそう言うと立ち上がった。


ザーーーーーッ……。


小ピークを出発してから20分。

案の定、強い雨が降り出してきた。


幸い木々に囲まれている山道なので、身体はそんなに濡れる事は無かった。

僕ら3人は尾根道を下って行く。


「ゆっくりだ…。滑るからゆっくりで良いぞ…」

僕が2人にそう声を掛ける。


尾根道とは、山に降り注いだ雨が流れ込んで来るうちに、地形が削られ、自然と出来た道である。

依って雨が降れば、雨水は全て尾根道へと流れ込んでくる。


天候は最悪だった。

雨はどんどん強くなり、僕らの足元は川のようになっていた。


右の山側斜面からも水がどんどん流れて来る。

細い尾根道の左側は、断崖絶壁になっていた。





「マイ…疲れたか?、歩けるか…?」

僕は、体力が落ちてペースダウンして来たマイに、そう声を掛けた。


「大丈夫ですかぁ~?」

僕らの少し先で止まっているグリオが振り返って、そう言った。


ズズ…。


その時、僕とグリオが立つ間の、山側斜面の木々が傾いた!


ズズズズズ……ッ、ズザァーーーーーーーーーッ!


「うわぁッ!」

叫ぶグリオ。


山側から崖に向けて、木と土石が横滑りしながら流れ込んで来た!


ズズズズズ……ッ



少しすると山はまた、雨音だけが聴こえる静かさに戻った。


「大丈夫かグリオッ!?」

少し、下の方に向かって僕が叫ぶ。


「大丈夫です!、そっちは?」

グリオの方は、少し見上げながら言った。


「こっちも大丈夫だ!」


だが僕とグリオの間は、完全に分断されてしまった。

土砂崩れで、道が削り取られてしまったのだ。


僕のいる場所からグリオの方へは、急な段差がある下り道であった。

その間が2m程、ぽっかりと道が無くなってしまったのだ。


しかしジャンプすれば、飛び越えられない距離ではない。

上から下へ分断されている2m程の距離は、斜めに測ってみた感じの2mだ。


だから実際にジャンプするのは1mちょいというところなのだ。

それでも、ぽっかりとえぐられたその隙間の下は、完全な断崖絶壁で恐怖を感じた。


「くそう…、3月の東日本大震災の影響で、山の地盤が緩んでたんだな…」


僕はマイにそう言った。

彼女は不安そうな顔をして、僕を見つめている。


「アニキッ!、助けを呼んで来ますッ!」

反対側に立つグリオは、そう言うと雨の中を走り出して行った。


「早く助けが来てくれると良いわね…」

マイが言う。


「どうやら、そういうワケにもいかないようだ…」

そう言った僕が見上げる山の斜面の木々が、ゆっくりだが少しづつ傾いて来ているのが確認できた。


「マイッ!向こう側に飛ぶぞッ!」


「えッ!?」


「俺たちの頭上の方も崩れそうだッ!」


「でも、今助けが…ッ」


「そんな時間ないッ!」

「俺が先に向こう側にジャンプする。そしたらマイもジャンプしろ!」


不安な表情のマイ。


「大丈夫だ!飛べない距離じゃない。それに俺が下で必ず受け止めるから大丈夫だ」


僕はそう言うと、まずは自分のリュックを反対側へ投げた。

リュックが向かい側へ無事落ちる。


「よし…」

そう言うと僕は反対側へジャンプした。


ザッ!


無事に着地した僕。


「大丈夫だ!大した距離じゃない。君も飛べる!」

僕は少し見上げてマイに言った。


「マイ、リュックをこっちに投げろ!」


マイは言われた通りに、自分のリュックを僕に放った。


ガシッ…。


「よしッ!」

リュックをキャッチする僕。


「これで身体が軽くなった…。あとは君がジャンプするだけだ」

僕がマイに言う。


「無理だよ…」

ガタガタ震えながら、マイが僕に言う。


「大丈夫だ!」


「無理だって…」


「マイ!、死ぬぞッ!、飛べッ!、飛ぶんだッ!」


「ああ…」

腰がすくんで動けないマイ。


「大丈夫だ!、俺が絶対受け止める!」


「絶対…?」


「ああ、絶対だッ!」


「絶対なんかないよ…。この世の中に絶対なんかあり得ないよ…」


「マイ…、俺な…、あれからいろいろ考えたんだ…」


「えっ?」


「絶対はあるぞ!、この世の中に絶対はあるッ!」


「ないよそんなの…」


「マイ…、人は生まれて来たら必ず死ぬ…。絶対死ぬんだ」


「……。」


「人間は生まれ落ちたその瞬間から、死への道を確実に進みながら生きていく…」

「それが、いつになるかは誰にも分からない。だが人間は最後に必ず死ぬ。絶対にだッ…!」


雨に叩かれながら、僕はマイに話し続ける。


「今飛ばなければ、今死んじまうんだぞマイッ!」


「……。」


「何も行動しなければ、絶対に死ぬぞッ!」


ズズ…ッ


その時、マイの頭上の木が大きく揺れた。


「マイッ!飛べッ!」


ズズズ……ッ


「早く飛べぇッ!」


ガラガラガラ…ッ(崩れ出す山)


「飛べーッ!」


「わぁあああああ…ッ!」


そう叫び、マイがダイブした!

彼女が僕の方へ飛んでくる。



ガシッ!(受け止める僕)


だが体制が崩れた。


「ふんッ!」

僕は転がりながら、マイを後ろ側へ放り投げた。


ドザッ…。(滑りながら着地するマイ)


バキバキバキ…、ズズズズズ…、ズザーーーーーーーーッ…。


尻もちを着いた僕の目の前では、さっきまでマイの立っていた場所が、土石に呑み込まれていく光景が見えた。





「たっ…、助かったぁ…」

僕はそう言うと、バタンと仰向けに倒れた。


ザーーーーーッ…。


激しい雨粒が僕の顔に当たる。


「はは…、ははははは…。マイ~、良かったなぁ~。お前、別れた男の言う事聞いてたら死んでたぞ…」


仰向けの僕が、後ろで、へたり込んでいるマイへ聞える様に言った。


ザーーーーーッ…。


「マイ…、俺…、会社辞めるぞ…」

雨音が響く中、僕が言う。


「えっ?…」とマイ。


「だって、この前の地震といい、今回の土砂崩れといい、命がいくつあっても足りないよ…」


「人間なんて、いつ死ぬかなんて分からないじゃないか…?」

「だったら…、こんな、いつ死んじまうか分からない人生なんだから、やりたい事やらないで死んだら勿体ないよ…」


僕が仰向けに寝そべりながらマイにそう言った。


「私も今…、おんなじ事考えてたよ…」

マイが言う。


「へっ?…」と僕。


「私も今、おんなじ事思ってた!」


「へへ…、そうか…」


「ふふ…」

笑うマイ。


空から降りしきる強い雨は、僕ら2人をいつまでも強く叩いていた。




2004年6月。


あれから、会社を辞めると言った僕の、最後の出勤日となった。

僕は仕事の引き継ぎなどが、いろいろあった関係で、退職するのが翌年の6月に延びてしまったのだった。


最終日に退勤する僕を見送る、編集部の連中。


「アニキィ~…、アニキが辞めちゃうと不安ですよ…」

グリオが僕に言う。


「大丈夫だ。お前も今じゃベテランになった。心配するな…」

そうグリオに言う僕。


「俺、10月に結婚するんですよ…。アニキも俺の結婚式に出て下さいよ…」(グリオ)


「分かった…。で?…、誰と結婚するんだ?」(僕)


「分かりましたよ…、言わせたいんですね…?、鶯谷の女です…」(グリオ)


「えっ!、そうなんですか?、僕は以前、吉原の女と…」(すかさず割って入る中出氏)


「中出さんッ!…、わざとでしょ?」

グリオが中出氏にそう言うと、編集部は「ははははは…」と、笑いに包まれた。


みんなが笑う中、1人だけ笑わずに、マイが目を潤ませて僕を見つめていた。


「マイ…、先に行ってるぞ…」

僕は、マイの顔を覗き込むようにそう言った。


「じゃあ!みんな元気でなッ!」


僕はそう言って手を挙げて振ると、編集部を後にした。





「さてと…」


会社を辞めて3日後。

自宅で旅支度を終えた僕がそう呟く。


僕は会社を辞めたのは良いが、音楽の仕事がある訳でもなかった。

取り合えず、友人ギタリストのカズが所属する事務所を紹介して貰い、そこに籍を置く事にした。


だが、その事務所と僕の契約は、完全なるフルコミッションというかたちにさせて頂いた。

飽くまで営業活動は自前で行い、自分が電話を受けられないタイミングのときだけ、事務所に対応して貰い、その場合のみ、何%かの手数料を払うというだけの契約内容にしたのだ。





 さてさて、とにかく何も仕事が無いのだから、プロと言う実感は全くない。

僕は、自分のこれからを思う不安な心の整理をする為に、取り合えず旅に出てみようと考えた。


行き先は、伊豆の今井浜にした。

そこは、僕がCDの素材撮影で、リョウやグリオやマイたちと、最初に訪れた場所だったからだ。


今思えば、全てがここから始まった。

だから新しいスタートも、ここから始める事にしたのである。






 R135号線を走る僕の車。 

時刻は15時になろうとしていた。

車は、海から反射する陽射しを受けていた。



なぁ、サキ…、元気か…?


俺も、ついにプロになったよ。

まぁ、プロと言ってはみたが、今は仕事が無いんだから、君と同じプロだとは、まだまだ言えないけどな…。


君が成し得なかったプロの道。

今度は俺が引き継ぐよ。


それから、君もまだまだ若いんだ。

だから諦めないで、音楽の道をチャレンジし続けてくれ。


こんな、明日には何が起こるか分からない世の中だ。

だったら好きな事に挑戦しなきゃ、勿体ないだろ…?


行動を起こせば、必ず何かが見えて来るはずだ。


“絶対”にな…。



僕はサキの事を思い出しながら、海岸線を走り続ける。

今井浜までは、もうすぐであった…。




fin.



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