第九十五話 『ともに地獄へ』
【道摩】
その力には一片の不安もいだいていなかった。
酒呑童子の持つ呪力は、それほど桁外れのものだった。
にもかかわらず、心が折れそうだった。
これからなさねばならないことを考えると震えがおさまらなかった。
わしに、そのようなことができるのか、と。
おまえのすることは正しい、と背を押してくれる者が欲しかった。
せめて、何があっても、わしを裏切らない――そういう男がいて欲しかった。
酒呑童子は裏切るまい。
そう思っていた。
腰抜けであることは、むしろ望ましかった。
鳥獣の命さえ奪うことができない鬼に何ができよう。
女童一人の命と引き換えに、六十余州一の呪力を譲り渡す愚かな鬼に何ができよう。
そもそも、戦力として期待していたわけではない。
生きてさえいればよかった。
生きていれば、その呪力をわしが使うことができる。
大事をなす際は、呪で縛るか遠ざけておけばよい。
そう思っていた。
しかし、中宮と、義守に会って以降、酒呑童子のふるまいに変化が現れた。
二人を守ろうとする気配があった。
結界を張ることが多くなった。
四鬼からの式札が届かないことも増えた。
原因は明白である。
酒呑童子の裏切りが許せなかった。
裏切ったところで、その法力は、すでにわが手の内にある。
にもかかわらず、その日が近づくほどに不安になった。
気弱だからこそ、この世の地獄を目の当たりにした後はどうなるかわからない。
おのれの力による殺戮――都の民のほとんどが死に絶える、そのような光景が目の前で繰り広げられたなら、やつは耐えきれまい。
心が壊れてしまうのではないか。
その状態で、やつから呪力を引き出すことができるのだろうか。
臆病ゆえに自ら命を断つことはできまいとたかをくくっていたが、
自らの判断が招いた結果に狂い死にしないとも限らない。
その不安を見透かしたように怨霊が、ささやいてきた。
わしの不安につけ込んだ。
酒呑童子が死んでも、その法力をお前が引き継げるようにしてやろうと。
――騙されたのだ。
むろん、一度ならず疑った。
しかし、わしは酒呑童子が父母の魂を鴉に移した、その事実を目の当たりにしている。
わが力で、依り代で、それが事実であることも確かめた。
ならば、法力も移せるのではないか、と。
――膝に力が入らない。
斬られた額から血がしたたり落ちる。
体が震えていた。
二年前の屈辱が蘇った。
涙が岩の上に零れ落ちる。
二度とあのような思いはしたくない。
いざるように澳津鏡の転がる場所まで進み、血のにじむ左手に握った。
震える右腕で八握剣を手に取った。
たった一つできることが残っている。
神宝は、まだ光を放っている。
起動している。
力を振り絞り、呪を唱え、鏡を揺り動かした。
目の前が紅く染まった。
怨霊が見せる地獄か。
いや、そうではない。
わしに引導を渡そうと、義守が剣を振るったのだ。
闇を切り裂き、紅蓮の炎が刃となって襲ってきた。
思わず、八握剣を握りしめた右手をかざした。
今のわしの力で防御できるとは思えなかった。
切り裂かれると覚悟した。
屍ども同様、灼熱の炎で地獄に送られることになろうと。
――撥ね飛ばされた。
宙に浮き、磐座の崖に叩きつけられた。
衝撃で息もできなかった。
が、生きていた。
先ほどまでの力強さこそないものの、消滅したと思っていた結界が復活していた。
神宝、澳津鏡が持つ力か、わが身にとりついた怨霊が、おのれの身を守ろうとしたのかは定かではない。
白玉の形状をなす結界ごと転がり、一段下の力岩に落ちてようやく止まった。
鏡は握っていたが、八握剣は一間ほど先に転がっていた。
すぐに結界も消滅した。
その際に肘を打ちつけたのだろう。腕が上がらなかった。
なにより、体が言うことを聞かない。
それをあざ笑う声が聞こえてきた。
「神宝を手にしてこのありさまか? お前にとりついていたのでは、わが身が危ういわ。代わりの者を探すとしよう――あの男に、この世の地獄を見せる前に調伏されては、わが無念を晴らすことはできぬでな」
怨霊が呻き、わが身から抜けだそうと蠢くのがわかった。
うすぼんやりと、その姿が浮かび上がった。
かつて、左大臣の奸計により、流罪となり。
五年ほど前、左大臣のさらなる謀略にはまり、西国、阿岐国で憤死した男だ。
年齢は、三十半ば。
色白で端正な顔立ち。
一族は皆、ことごとく美しい。
三分の一ほど体がずれた。
抜けられると思ったのだろう。
怨霊の顔に笑みが浮かんだ。
鏡は、それに反応するかのように揺らいだ白い光を発した。
霞のような光が、流れるように優雅な線を描く。
そして、怨霊に巻きついた。
「これは……」
男の表情が変わった。
動けぬのだ。
わが身から抜けることが出来ぬのだ。
「荒覇吐様の鋳造せし、鏡の力よ」
「怨霊封じの神宝か?」
唸るように怨霊が口にした。
大和の者どもへの復讐を果たしたのちは、こやつをのさばらせておくつもりはなかった。
神宝の効力を尋ねるこやつに、ひとつだけ嘘を交えた。
澳津鏡は、いわば道しるべであり、ほかの神宝を何倍にもする力があるのだと。
――酒呑童子から奪った、その強大な力と、この怨霊封じの鏡があれば、どうにかなると高をくくっていた。
愚かであった。
雑魚であれば一瞬で葬ることもできよう。
だが、桁違いの力を持つ怨霊を調伏するなど至難の業だ。
周到な準備が必要であった。
わが法力にかなう者なしと、おごり高ぶっていたつけが回ってきたのだ。
酒呑童子という力の源泉を失った今、わしにできることはこれしかなかった。
「ともに地獄へ参ろうではないか」
「おのれ……」
憤怒の表情を浮かべるが、鏡に力を吸い取られるようにあらがう力は弱まっていく。
そして、わが身と重なった。
磐の上に倒れたわしの目に檜の枝に寝かせた中宮の姿が映った。
あえて毒をなめて見せた、わしの身を案じ、涙を浮かべた愚かな姫君の姿が。
その懐に抱かれていた「るり」こと「瑠子」が、半身を起こし眼下のわしを見た。
そして口を開く。
「道摩兄さま」と、唇が動いたように見えたのは気のせいか。
相変わらず表情に生気はないが目は揺らいでいた。
正気を取り戻そうとしているのだろうか。