第八話 『羽衣』
【輝夜】
水面に十五夜の月が映っていた。
両手で、そっと月を掬った。
だが、水は、震える指の隙間からこぼれ落ち、月も、その手の内に残らなかった。
今の自分を思わせた。
幼き頃より見目形を褒めそやされ、和歌、文、楽の才能を褒めそやされた。
家柄にふさわしい一の姫として恥をかかぬよう学んできた。
長保元年、十一の齢、入内が決まった。
周りからの期待がさらに大きくなった。
それに応えられると思っていた。
帝には寵愛する妃――登華殿――梅壺様がいた。
たいそう睦まじいと誰もが口を揃えた。
帝が、わたしの暮らす藤壺を訪れるのは月に一度。
周りの女房たちの焦りとは裏腹に、わたしは心配していなかった。
梅壺様が出産を間近にしているので気を使っているのだろう。
優しい方だと鷹揚な気持ちで受け止めることが出来た。
父が強引に入内を進めたこともわかっていた。
さらには、わたしを立后させるため、「皇后」と「中宮」の「一帝二后」を謀り、梅壺様を窮地に追いやった。
帝の機嫌を損ねぬはずがない。
梅壺様と比べれば、十二になったばかりのおなごは子供に見えるだろうことも理解していた。
それでも、わたしには誰もが誉めたたえる輝く美しさと教養がある。
故に、わたしのことを放っては置けないだろうという自負があった。
だが、梅壺様のご出産後も、帝が藤壺に訪れるのは月に一度。
義理を果たすかのように世間話をして早々にお帰りになる。
一年も経つと、わたしもまた、帝を恨むようになった。
梅壺様が亡くなって三年半が経った今でも、帝は、わたしと距離を置いている。
后だというのに、夜御殿に召されたこともない。
内裏は退屈で狭い社会である。
これほど面白い話は、あっという間に広がる。
そして世間に広がっていくのだ。
このような辱めを受けようとは思いもしなかった。
誇りは傷つけられ、気鬱な日々が続いた。
幼いころから期待に応えてきた。
応えるために学んできた。
応える自信があった。
だが、応えられなかった。
周りの期待に押しつぶされそうになりながら耐えてきた。
自分ほどの者がなぜ、と思った。
――追い詰められ、心が折れた。
祈祷の腕に優れ、法力勝負でも負けたことが無いという、近頃評判の酒呑童子という名の法師に――鬼にすがろうとした。
実家の火事見舞いを口実に内裏を出て、身分を隠すために新たな従者と牛車を用意させた。
考えていた以上に手配が手間取った。
時を惜しみ、帳のおりる刻限に洛外の千丈ヶ嶽へと急がせた。
魑魅魍魎が跋扈する刻限だ、と嫌がる従者に褒美をちらつかせた。
その挙句、多くの者を失ってしまった。
――いや、本当にすがろうとしたのだろうか。
助言を求めるのであれば、法力を持つ鬼に頼る必要はない。
学識豊かな僧に尋ねれば良い。
父の信頼厚い陰陽師であれば口も堅い。
事実、父は、わたしが帝から愛されるようにと、その陰陽師に祈祷を依頼した、と母から聞かされたことがある。
その陰陽師は、いずれそうなりましょう、と父の望む答えをしたという。
父のことだ。母にはそういいながら、帝の寵愛を一身に集めていたあの人を呪わせていたかもしれない。
だが、帝のわたしに対する態度は変わらなかった。
つまり、わたしには、おなごとしての魅力がないということなのだ。
――自分が悪いのだと認めれば誇りが許さない。
人を憎めば鬼となる。
恨みを晴らしたいかと問われたら、どう答えただろうか。
呪ってやろうかと持ちかけられたら、断ることができただろうか。
なぜ、わたしだけが生き残ったのだろう。
それだけの価値もないおなごだというのに。
従者たちの家族は嘆き悲しむだろう。
愛しい人を失い、稼ぎ頭を失くし、路頭に迷うだろう。
その家族に事情を告げることさえできないのだ。
なぜ出かけたのか、誰に会いに行くつもりだったか。
――水の底で月の光を浴びて、ぼんやりと光っている物がある。
懐刀の鞘を飾る螺鈿細工だ。
山賊たちに襲われたときは、この刀のことを思い出しもしなかった。
今なら使えよう。
汗臭いまま、命を絶つ気にはなれなかった。
そのための水浴びである。
覚悟はできているつもりだったが、心は揺らいでいた。
命を絶つことにではない。
最後にふさわしい衣どころか替えの衣もなかったからだ。
【義守】
敷地内に姫はいなかった。
危険はないと言っても、自分のそばにいればと言う意味だ。
とんでもないはねっかえりだ。
あの足で、この崖を渡ったというのか。
確かに、近場に熊や狼の糞は転がっていなかった。
とは言え、ここは山中である。
猿や猪に襲われる可能性も皆無ではない。
月は出ているものの、足元も悪い。
迷って動けなくなっているならよいが、斜面を滑り落ちていれば面倒である。
背負子をかつぎ、月の光がこぼれ落ちる竹藪を下りていくと、水の流れ落ちる音が聞こえてくる。
五間ほど下り、梢の合間、合間から、対面にある高さ八丈ほどの滝が見えた。
角ばった岩を幾重にも重ねたようなその形状ゆえか、流れ落ちる水は幾筋にも別れ、いかにも涼しげである。
この場所からでも巻き上がる風を感じることができる。
滝の左側の崖に生い茂る樹木に覆われ、川面の多くは闇に包まれていた。
一方、手前の川原には月の光が届いている。
さらに斜面を下ると視界が開けた。
――息をのんだ。
天女の羽衣が、そよいでいた。
月の光に透けた、それは宙を浮いているように見えた。
目を凝らし、足を踏みだしたとたん、それを隠すかのようにあたりが闇に包まれた。
雲が月を覆ったのだ。
前方の闇の中を、いくつもの小さな光が優雅に舞っている。
その光が水面に映る。
――蛍だ。
幻想的な、その光景に見とれていると、雲が流れ、月の光が落ちてきた。
その光は、梢に遮られ、これまで視界に入らなかった、川面の一点を照らし出した。
蛍に向かって手を差し伸べる者がいた。
腰のあたりまで浸かった柔らかな曲線を、月の光が煌々と照らしだしていた。
水滴が、その白い肌にはじかれ、珠のようにこぼれ落ちていく。
漆黒の豊かな黒髪が滝の起こす風にそよぐ。
にもかかわらず、滝の音は耳に入ってこなかった。
ここで水浴びをしていたようだ。
右手の先に光る物があった。
――そして義守に気がついた。
自分がどのような姿であったかにも。
*