第八十六話 『反魂の呪』
【酒呑童子】
荒覇吐神を祀った神棚に目をやった。
その下に粗末な土器の骨壺がある。
焦げ臭い匂いがいまだに漂ってくる。
時折、鴉の鳴き声が聞こえてくる。
戦は終わったのだろう。
雀のさえずりや寒暖差から、あれから丸一日経っていると、わかる。
状況を見れば、目的は国の制圧ではなく、殲滅だとわかった。
にもかかわらず、わしは生きている。
ここに「結界」を張ったからだ。
それは、わしの法力を上回る呪術師、陰陽師が同道していないであろうことを意味した。
震える手で呪符を書き、宙に飛ばし、あたりに敵がいないかを確かめる。
錫杖を握り、震える足をだましながら恐る恐る岩屋から出た。
まず目に入ったのは薄暗い煙った空だった。
街や集落はまだ燻っていた。
岩屋の二十間ほど下に死骸がいくつか転がっていた。
身につけた衣から十二大師の一人だとわかった。
単に追われてきたのか、わしを頼ってきたのか、長を守ってきたのかはわからない。
少なくとも長の死骸は見あたらなかった。
鴉どもが群がり、その死骸の目玉をついばんでいた。
わしの姿を見ても逃げようともしない。
気がついた時には、転がるように斜面を滑り降りていた。いや、落ちた。
羽ばたきこそすれ、ほとんどの鴉が逃げようとしなかった。
震える膝を叱咤。錫杖を振り回した。
叫び声をあげ、群がる鴉を、追いはらった。
鮮やかな桜色のはらわたが目の中に飛び込んできた。
ぶるりと震えた。
――今になってようやく自分が何をしたかに気がついた。
力のない女子供であればやむおえなかったかもしれない。
だが、そうではない。
師から、古の英雄、荒覇吐様に匹敵する天分があると言われながら、誰一人救おうともせず、ただただ、恐怖にかられ逃げ出したのだ。
見殺しにしたのだ。
わが身かわいさに、住処に「結界」を張り、身を潜め、おのれ一人が生き残った。
そこまでして現し世に残らねばならない理由など、ひとつとしてありもせぬのに。
両手をついた岩の上に、ぽつりとなにかが落ちた。
それは次々と落ちてきて岩の色を変えていく。
雨が降り始めたのだ。
ふと、気配らしきものを感じ、顔をあげると、二つの魂がゆらゆらと目の前を横切った。
人の魂である。
苦し気で、何やらもの言いたげな様子である。
恨み言なのか、この世への未練なのかはわからない。
依り代としての才のない、わしには、魂の思いを読み取ることができなかった。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
聞くな。さっさと岩屋に戻れ。言葉には多かれ少なかれ呪が含まれている、と。
だが、手遅れだった。
それは、すぐに、わが名を呼んだ。
「青よ、青よ」と。
奈落で聞いた声だ。
ぼんやりと覚えている。
奈落の底で、わしは放心していた。
気がつくと衝撃からさめた大師たちが、わしの処分について話していた。
すぐさま命を奪うか、三角のように自由を奪い、さらし者にしてからとするかを。
そのあとのことはひどくあいまいだ。
と、錫杖の遊環の音が鳴り響いた。
肩にかけていた錫杖が岩の上に転がっていた。
――そして、思い出した。
あの時のことを。
長が錫杖で足元の岩を叩き、裁定を告げたのだ。
「青は、大和への備えとする」と。
そうだ、この声だ。
長の声だ。
師が、長だけには伝えていたのだ。
わしの真の力を。
そして、あの時、長は、その力を目の当たりにしたのだ。
この国最強の呪術師を瞬時に葬り去る力を持つモノとして。
その結果、わしは救われたのだ。
ならば、あれは長と后の魂だ。
強い未練が一昼夜もさまよわせていたのだろう。
その魂は、山頂に向かっていた。
否、引き寄せられているのだ。
山頂近くには黄泉の国への入り口である「あわい」と呼ばれる穴がある。
放っておけば、あの世に行ってしまう。
だが、魂をこの世にとどめ置く反魂の呪など習っていなかった。
鬼に教える者などいなかった。
われらが学ぶのは相手を呪う術だ。苦しめ痛めつける術だ。命を奪う術だ。
――なにより、
長は、われら鬼を縛る元締めである。
その長が、この世から居なくなったのだ。
十二法師も同じ運命をたどっているのであれば、もはや、わしを縛るものはない。
わしは、奴婢の身から解放されるのだ。
長の魂など放っておけばよい。
大和の者どもの目をかいくぐり、なんとしても生き残るのだ。
そして、海を渡り、母を探し、そっと、砂金袋のひとつも置いていこう。
できることなら、わが同族を探し、ともに暮らす。
夢に心振るわせたのは一瞬だった。
末期の悲鳴のごとき声が、耳朶ばかりか心までも震わせた。
「青よ。わしは、まだ黄泉の国に行くわけにはいかぬ」と。
気づいたときには、愚かにも呪を唱え、山頂に向かう魂をからめ捕ろうとしていた。手繰り寄せようとした。
だが、魂はすり抜ける。
力めば力むほど空回りする。
弱々しい懇願が耳に届く。
いつしか必死になっていた。
思いついた言葉を連ね、知っている呪を唱え、両手で包み込むように念を送った。
その時、首からかけていた守袋の中の玉が踊るように跳ねた。
師から譲り受けた翡翠玉だ。
それに反応したかのように魂が動きを止めた――捕らえたのだ。
しかし、いかに魂が未練を残していようが、それでも、あの世に引き寄せられるようだ。
二つの魂は網にかかった魚のようにもがいた。
翡翠玉は、魂に同調するように跳ね続けた。
この玉が作用していることは間違いなかった。
ともあれ、術に集中した。
最初は包みこむように、そして締め付けるように力を込め、一気に手元に引き寄せた。
が、予期せぬことが起こった。
勢いよく引き寄せられた魂は、まるで弓から放たれた矢のごとく、わしの手前で人の肉をついばんでいた二羽の鴉を射抜いたのである。
翡翠玉は動きを止め、魂の所在も分からなくなった。
倒れた二羽の鴉の下敷きにでもなったかと、あわてて鴉に近づく。
そして、息をのんだ。
それは鴉と呼ぶには、おぞまし過ぎるモノだった。
部位だけを見れば確かに鴉だった。
違うのは、その鴉が一つの体に二つの頭。四本の足、四つの翼を持っていたことだ。
見たこともない気味悪さの方がどれだけましだっただろう。
未熟な呪が、禍々しい化物を生み出したのだ。
しかも長と后の魂は、その中に宿っていた。
呪が正しくないためか、その姿のためか双頭の鴉は震えるばかりで、立ち上がることが出来なかった。
師が授けてくれた玉は、浮かれゆく魂を返し止める道返玉であったのだろう。