第七十六話 『呪符』
【酒呑童子】
あの日より、六月ほど前のことだ。
長の邸に呼び出され、壱支国の後継である道尊という名の童に謁見させられたことがあった。
国一番の法師の命を奪いながら、以降、何をするでもなく、ただ飯と、ただ酒を食らっている立場では断れなかった。
当然のように庭に座らされた。
法力を披露せよという命令に、庭にあった、一間四方ほどの大岩を二つ宙に浮かべて見せた。
指導を望まれたが、わしにその気はなかった。
傍に控えていた十二大師も反対し、話は消えた。
その時、道尊に望まれて書いた呪符だ。
弟と妹に与えたいと。
命の危険を感じた時に姿を隠す符だだ。
身に着けている者が、追い詰められたと感じれば三日三晩効果は持続する。
道摩が生きながらえたのも、この呪符あってのことだったのだ。
目を覚ました、「るり」様は、わしの姿を見ても怖がらなかった。
泣きも叫びもしなかった。
言葉も口にしなかった。
もとからそうなのか、こたびの戦が切っ掛けなのかは、わからぬが正気には見えなかった。
「なぜ、長の姫様がこのようなところに?」
と、尋ねるわしに、道摩は震える声で、
「……逃げ遅れたのだろう。大師の一人に連れられ出雲に逃れると聞いておった」
そう、口にした後で、顔を赤く染め、「るりは置いていく」と、続けた。
「わが国の民の恨みを晴らし、国を再興する。それこそが命を奪われた民に報いる唯一無二のすべなのだ。残された者の悲願なのだ。なによりも優先せねばならぬことなのだ」
「ゆえに、足手まといになる者は置いていく」のだと、口にした。
人間の薄情さは承知しているつもりだったが、さすがに愕然とした。
わしは確信した。
この童は……道摩は、血のつながった妹を見捨てて一人逃げたのだ。隠れたのだ。
例え、気がふれていたのだとしても、何かにとりつかれたのだとしても、るり様は、わしの姿を見ても怖がらなかった。嫌わなかった。
そのような女童に、いや、人に出逢ったことなどなかった。
わしの罪業を許してくれる観音菩薩のように見えた。
すでに三日目の晩である。
呪符の効果はじきに尽きる。
見つかれば、どのような目にあわされることか。
それを承知で置いていくことなどできなかった。
「わしが護ります」
たとえ、この命を奪われても譲らない。
この世に生を受け、初めて覚悟を決めて人と対峙した。
そこで道摩が取引を口にしたのだ。
おまえの法力を、わしによこせと。
ならば、るりを連れて行こうと。
*
夜陰に紛れ、結界と呪符に守られ、本殿奥の岸壁にたどり着いた。
道摩が震える声で岩の隙間に導いた。
道摩が梵字が刻まれたその手を、突きあたりの岩に当て、呪を唱えると、ずぶずぶと吸い込まれ、やがて体も入り込んだ。
るり様を背負うわしの手を引くと、わしの体も岩の中に入り込む。
荒覇吐様の結界であるという。
それほど長きに渡って呪が持つものなのか、と驚いた。
一方で、長い年月の間には、忘れ去られた呪もあるだろう、とも。
――ここに入れるのは、この国の長だけであるという。
道摩の手の平に刻まれた梵字がそれを可能にするようだ。
外の蒸し暑さとは対極にある清涼な空気に包まれていた。
暗闇の中、火打石の音が響く。
携帯用の紙灯をつけようというのだろう。
しかし、うまくいかない。
呪を唱え、紙灯に火をつけてやる。
道摩が驚きに満ちた表情を浮かべわしを見る。
その道摩の足元に下りの石段が見える。
――そこは、一間半ほどの狭い石室だった。
天井は低く、いざるように進む。
奥に不揃いな大きさの箱が安置されていた。
道摩が、箱の中から神宝を取り出した。
神宝は九つしかなかった。
「荒覇吐様が亡くなられてから四百年も経っている。その間に失われたか、壊れたのだろう」
道摩は震えながら口にした。
ゆえに、わが壱支国は大和に侵攻、征服できなかったのだろうと。
だが、事実は違う。
その憶測は間違っている。
それを知っているのは、もはや、わしだけになった。
箱の横には古文書が積みあがっていた。
師は、ここに入ったことがあるのだ。
それを目にして、師に問うたことを想い出した。
*
「国を豊かにし、国を救い、奢り高ぶるわけでもない――荒覇吐様がそのような方だからこそ民は崇拝し、祀ったのですね」
決して、師におもねったわけではない。
ずっと引っかかっていたのだ。
まるで喉に小骨が刺さったかのように。
荒覇吐様が偉大な術者であったことは間違いない。
神として祀られるだけの功績もある。
だが、わが師から聞かされた、長に選ばれたことを誇りとし、王と名乗ることを受け入れなかった、荒覇吐様の、その人となりにはふさわしくないように思えた。
師は、眉をひそめ、その鋭い眼光をわしに向けた。
「祟りを恐れた者どもの仕業であろうよ」
「……祟り?」
思いもよらぬ答えが返って来た。
力のある者を滅ぼしたとき、その者が怨霊となって祟りをなさぬよう、畏れ鎮めて封印し、神として祀り上げることがある。
修行の中でそう聞いた覚えがある。
師に、なぜかと問うた。
だが、師は眉間にしわを寄せ、口を開くことはなかった。
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