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『あさきゆめみし』  作者: 八神 真哉
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第六話  『初恋』

【輝夜】


冗談かとも思うが、この若者は、にやりともしない。

常ならば下賤の者と直接話すことなどない。

必ず間に人をおく。

殿方であればなおさらである。


たとえ相手が殿上人であろうと、几帳あるいは御簾越しに対面する。

公達は、どこぞの姫君が美しいという噂を聞くと、姫君の女房に賂を渡し、覗き見ようとする。


「名はなんというのです?」

「粥じゃ」

「……あなたの名です」

からかわれているとしか思えない。

この気難しげな男に洒落っ気があれば、ではあるが。


しかも、わたしの問いにすぐに答えない。

人に名を聞くときは聞く側が先に名乗るものだとでも思っているのだろう。

やはり下衆である。礼儀を知らない。

だが、次の一言で怒りは霧散し、一気に気分が高揚した。


「……ヨシモリじゃ」

「ヨシ……モリ……(うじ)ですか?」

(あざ)じゃ」

「氏は、いえ……国は……国は西国ですか?」

面倒そうに「ああ」という答えが返ってきた。


息を飲んだ。

やはり西国の訛りだった。

胸が早鐘を打ち始めた。

顔が火照る。


――まさか、生きていたのか――死骸が見つかったという話は伝わってきていない。

噂に聞いた涼しげな眼差し、端正な顔立ちとは言えなかったが、英雄譚とはそのようなものであろう。


名を変えて暮らしてきたのだろうか。

いや、生きていれば、わたしより年上のはずだ。

あれから五年近く経つ。

当時、この男は十前後であろう。

十の童を若武者とは呼ぶまい。


しかし、この男の弓の腕は図抜けている。

背負子の横には大太刀らしきものが括り付けてあった。


わたしと葛籠、さらには薪を背負って軽々と山を登る剛力。

加えて名に「(よし)」の文字。

西国訛り。

ならば、兄弟、親族と言う可能性もある。


だが、何と訊けばよい。

どのような顔をして訊こうと言うのだ。

これまでに、妄想と呼ばれても反論できぬほど、幾多の出会いを想定してきた。

中には、親族に出合った時の想定問答さえあった。


にもかかわらず、思考は停止し、気の利いた問いのひとつも浮かばなかった。

頭は回らず、焦りを覚え、失態を犯した。


「氏は何というのです」

義守と名乗る男は、つまらぬ問いをするおなごだとばかりに睨みつけてきた。

が、ここで、ひるんでいては千載一遇の機会を逃してしまう。

阿部義光(よしあき)という武士を知っていますか?」

畳み掛けるように訊ねると、眉をひそめ、

「知らぬ」と横を向いた。


相変わらずの態度だったが、この時ばかりは気にならなかった。

その名を口にするだけで、胸が早鐘を打ち、気もそぞろになるからだ。

十一の歳に、文も交わさず声さえも聴いたことがない男に、初めての、そして唯一の恋をした。そして今でも、その男に恋焦がれている。


「ヨシモリという名は、どの字をあてるのです?」

と尋ねると、素直に答えたが、面白いことに初めて表情が緩んだ気がした。

だが、その理由を尋ねるつもりはない。

義光様と縁がないなら、二度と交わることはない。

下賤の者に過ぎないからだ。


その名は、いかにも武家の名ではあったが、評判を耳にしたことはない。

役職はおろか氏も名乗れぬのであれば、地方の領主の郎党でさえないかもしれない。

期待を裏切られた腹立ちだろうか。皮肉が口をついて出た。

「武士の出で立ちには見えませんが」

「お前とて、真の名は明かせまい」


男の言葉に胆が冷えた。

武家であれば公家のしきたりを知っていても不思議ではない。

が、諱や氏のことだけでなく、わたしの置かれた立場を知って口にしているのだとしたら……。


「お前、という呼び方は失礼でしょう」

思わず、声を尖らせた。

義守と名乗る男は、怪しげな粥の椀を傍に置いた箱の上に載せ、視線だけを送ってきた。

「なんと呼べば良いのだ」

表情一つ変えもしない淡々とした答えにいら立ちが募り、叩きつけるように口にした。

輝夜(かぐや)、です」


墓穴を掘った。かっとなるといつもこうだ。

二度と、この名で呼ばれたくないと思っていた。女房たちに固く言い渡していた。

にもかかわらず自ら口にした。顔が火照った。

幼き頃より父にそう呼ばれてきた。皆がそれに倣った。


この年になってようやく、その名にふさわしくないことに気がついた。

「……いえ、藤式部と呼ばれています」


嘘をついた。

今、呼ばれている名など名乗れるはずがない。

男は、どちらでも構わないが、とでもいうような冷ややかな視線を送ってきた。

その様子に腹が立ってきた。

なにより礼儀を知らぬ。


とは言え、喋りすぎたのは確かである。

名を借りた、藤式部であれば、

「手がかりが多すぎて物語にもならない」と、皮肉るだろう。

加えて男は物知り顔である。

見透かされているのではないかと心配になる。


しかし、わたしのことを知る者が、このようなところにいるはずがない。

顔を知るものなど、もとよりいない。

なりから見ても、上級武官ではない。訛りもある。

公家や都の警護の仕事を求めて出てきたもののうまくいかなかったのだろう。

ここに居を構え、仕官の口を探す田舎侍といったところだ。


郡司の子弟であれば、供の一人や二人もついていよう。

伴類、下人の身分であれば、礼として反物でも持たせれば後腐れがないだろう。

ほっとする一方で、玉だと思っていたものが、ただの石ころだとわかり落胆した。

それでも、つい、

「都には何をしに来たのです」

と、尋ねてしまう。


男はしぶしぶといった、ていで答えた。

「祠や墓を見に来たのだ」

「墓を?」

意外な答えに戸惑っていると、男は逆に訊ねてきた。

「お前こそ、なぜこのような刻限に都を出ようとしていたのだ」


呼び名を答えたにもかかわらず、結局「お前」だ。

だが、そんなことよりも男の問いが胸をえぐる。


なんと罪深いおなごだろう。

どうしてこれまで正気でいられたのだろう。

おのれのわがままが理由で、多くの命が奪われたことを一時とはいえ忘れていた。

あの欲深い縁戚の男に、どのように説明すれば良いのかもわからなかった。


その男は、わたしの望みを聞くと顔色を変えた。

高価な反物を前にしながらも、

「国司に任命される可能性はありましょうか」と、尋ねてきた。

父に伝えておきましょう、と答えると、とたんに態度を変え、すぐに従者をどこからか十名駆り集めてきた。


当然だと思った。

だが、同行させた従者は、一人残らず命を落とした。


――なぜ、と問われて、口にできるはずがない。

どこへ、と、問われて答えられるはずがない。

牛車に揺られながら出かけたことを後悔していた。

引き返すべきだとわかってはいたができなかった。


そして、このありさまだ。

すべては自分の弱さが引き起こしたのだ。

血まみれになって死んでいった者たちは帰って来ない。


気がつくと頭は痺れたように働かず、首の後ろは異様に重くなっていた。

胸が締め付けられるように痛んだ。呼吸さえ難しくなった。

頭から血の気が引き、立っていられなくなった。

悪寒が襲ってきた。


浄土へ行けずとも良い。このまま、黄泉の国に旅立つことが出来ればと切実に思った。

それができればどれほど楽であったろう。


     *


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