第五十七話 『投げ込み寺』
【輝夜】
「よいところに帰って来た」
小次郎は、振り返った男に胸を突かれ、派手に尻もちをついた。
それでも、「どういう意味じゃ」と、気丈に言い返す。
「おまえも連れて行ってやるということよ。二度と戻ってはこれまいが」
病治癒のための祈祷ではない、と仄めかした。
これも先日、酒呑童子から聞いた、投げ込み寺とやらに捨てるに違いない。
我慢できずに声を上げた。
「どこに連れて行こうというのです」
男は、ようやくわたしの牛車に気がついた。
小次郎が、「中宮様じゃ」と、告げる。
男は、怒りをあらわにした。
「あほう! 中宮様が、このような場所においでになるはずが……」
男のいう通りだ。
そもそも、中宮が殿舎を移動する際に連れ歩くのは女房だけではない。
先頭に香炉を下げた赤い衵姿の少女。前後に御几帳を持つ侍女たちにかしずかれて、しずしずと渡ってくるものだ。
木工所の前に、牛車で乗り付けた中宮など例があるまい。
小属、史生の身では、簾から覗く出衣さえ目にする機会もなかっただろう。
しかし、男の顔色が変わった。
彼らが普段目にするものとは明らかに違う、贅をつくした牛車に気づいたのだ。
あるいは牛飼い童が必死で首を振ったのか。
「答えられないのですか?」
中宮様から直接お言葉を賜る、という身に余る栄誉にも、その男は畏まるでもなく、喜びの表情を浮かべるでもなく、ただただ、後ずさって平伏した。
直丁二人も、あわててそれに倣う。
わたしの悪名は、内裏の隅々まで届いているようだ。
「中宮様が直々にお尋ねになっているのだぞ」
小次郎が一喝する。
お言葉を賜るどころか、殿舎のそばにも寄れぬ下級職の男は、地面に額づいたまま、
「どこぞの寺に連れて行き祈願を……と」
声だけで嘘と知れた。
顔を見れば目が泳いでいただろう。
それでも、わが身を守ろうと正当性を訴える。
「物の怪がとりついているのであれば一大事……親王様に。あるいは畏れ多くも主上にも危害がおよばぬようにと」
「ならば、陰陽助を呼びなさい」
陰陽師は祈願や祓いに加え、薬師としての一面も持っている。
最も頼りになりそうな陰陽師には二度と頼みごとはしないと約定したばかりだ。
「陰陽助様は物忌みと聞いております」
その言葉が、わが身を切り裂いた。
わたしにこそ、物忌みが必要だったのだ。
親王様を、お傍に置くための根回しに奔走していたとはいえ、それを頭の隅から追いやっていたのだ。
なんという薄情なおなごだろう――いまさらながら、それに思い当たる。
指先が震えていることに気づく。
その心情が、声に影響せぬようにと願いながら、
「それでは、典薬寮の女医博士を呼びなさい。わたしが用があると」
と言うと、小属は驚いたように顔を上げ、あわてて頭を下げた。
「それが、先ほど、お邸より使いが参りまして、一刻ほど前に身まかられたと……」
嘘ではあるまい。
木工内侯の隣が食事を用意する内膳司である。
そのような情報は、われらより早く入るだろう。
体調のすぐれない主上のために、薬師が、お食事の材料選びにかかわっているからだ。
しかし、その死を悼むよりも先に、疑いを抱いた。
これは偶然なのか、と。
だが、親王様であればともかく、身寄りのない女童の命を奪うためにそこまでする者はおるまい。
なにより、今考えねばならないのは、るりのことだ。
病に倒れた者は動かさないほうがよいのだろうが、そうも言っていられない。
直丁たちに、るりを車宿まで運ばせた。
外出するのに牛飼い童一人というわけにはいかない。
心細いということもあるが、何より門番が納得すまい。
先日、酒呑童子から渡された呪符を懐から取り出し、小次郎に使い道を説明する。
次に、勾欄に背を預け、腰を抜かしたように座り込んでいた女房の元に向かう。
病の女童と、その兄を吉平の父である陰陽師のもとにやりたいので、八葉車と従者の手配を、と。
行啓同行の免除も約束する。
わたしの立場で乗る車ではないと安心したのだろう。
女房は、誘惑にはなびきながらも、念を押してきた。
「藤壺様は、ここに残られるのですね?」
「当然ではありませんか」
わたしは、ゆったりと微笑んで見せた。




