第五十話 『誘惑』
【輝夜】
傍に置くわけにいかないのはわかっていたが、帰したくなかった。
職を与えようとすれば、へそを曲げるだろう。
だが、この男、そっけないように見えて情に弱い。
ならば、情に訴えればよい。
今年の水無月は、頬が凍るほど冷え込んだ。
稲には、ほとんど実がつかないだろうと言われている。
それに追い打ちをかけるかのように、山城国の郡や郷の倉が盗賊どもによって次々と襲われ、穀物の値が高騰しているという。
このままでは、餓死するものが大勢出よう。
退治する手伝いをしてほしい、と言えば断れまい。
背負子の横に括りつけていたのは大太刀だろう。
ならば剣も使えよう。
鬼の酒呑童子に引けを取らぬ剛力の持ち主である。
ひとたび剣を振るえば、瞬く間に盗賊どもを退治してくれるだろう。
見分役をつけ、それを証明することが出来れば検非違使に追われることも無くなる。
義守を、陽の当たる場所に出してやりたかった。
先日の噂が広がる前に。
――わたしに力があるうちに。
「義守を助けてください。とりついているものが物の怪であるなら調伏を。宮中に移された剣をわたしのもとに……その二つを叶えてくれるなら、あなたの言うことに従いましょう」
むろん、この男が全能ではないことは知っている。
それでも、この男以上に力を持った者はいないだろう。
陰陽師の反応は予想通りのものだった。
とってつけたような笑顔を浮かべ、口を濁す。
「姫君のご要望とあらば、かなえて差し上げたいのは、やまやまなれど……」
その様子に覚悟を決め、檜扇をさげ、素顔をさらす。
そして、一言つけ加える。
「――それが、どのようなことであっても」と。
目の前の男には、さぞかし滑稽に映っているだろう。
美しくもないおなごが、貴い身分を武器に誘惑しているようにしか見えぬだろう。
そう思われるように口にした。
顔をさらしたことで、少なくともわたしの覚悟は伝わったはずだ。
だが、男は乗ってこなかった。
「……私があと十年若ければ、その甘言にも乗りましょうが」
柔らかな口調ではあったが、それ以上、口にしてはならないと、男の目が言っていた。
言葉には呪力がある、と言いたいのだろう。
国母となられる御身ですぞ、とも。
わたしは、そのようなものになりたいと望んでいない。
幼き頃より愛情に飢えてきた……一度たりとも叶わなかった。
敦康親王様は、わたしになついてくださっている。
わたしを好いてくださっている。
それを、ひしひしと感じることが出来る。
庇護してくれる者に依存していらっしゃるだけで、無私の愛とは呼べないかもしれない。
親王様には頼るべき後見がないからだ。
だが、それのどこに問題があろう。
少なくとも打算だらけの親兄弟より、はるかに絆が感じられた。
親王様を帝の位につけて差し上げたい。
その気持ちに偽りはない。
だが、悔しいことに、わたしも、男にうつつを抜かすそのあたりのおなごと変わらなかった。
まずは、義守の命を救いたかった。
さらには盗賊どもを一掃させ、その名を上げさせたかった。
それが民のためになると信じてもいた。
手段を選ばぬ、その所業は暴挙と呼ばれ、歴史にその悪名を刻まれることになるかもしれない。
系図から、その名を抹消されるかもしれない。
それも覚悟のうえで、義守に神剣を持たせたかった。
いざとなれば、中宮という名と地位を捨て、出家する覚悟はできていた。
そうなれば、親王様は帝に立つことが叶わなくなる。
この男は、それを承知の上で答えたのだ。
わたしの父の意に背くことなどできるはずがない。
一介の陰陽師が、殿上人の身分にまで上り詰めたのは父に従ったがゆえである。
父を守るためには何でもするだろう。
「頼む相手を間違ったのですね」
答えを期待したわけではない。
区切りをつけようとしただけだ。
だが、陰陽師は口を開いた。
まるで宣託でも告げる神官のように厳かな声で、
「……条件をひとつ飲んでいただけるのであれば」
と、世俗にまみれた回答をした。