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『あさきゆめみし』  作者: 八神 真哉
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第四十七話  『左京権大夫』

【輝夜】


一条橋を過ぎ、目的の邸に牛車を乗りつける。

邸宅は内裏から北東―(うしとら)―に位置する鬼門にある。


車宿(くるまやど)りに、邸の主人である白い髪と髭を蓄えた左京権大夫が、わざわざ出迎えに現れた。

まるでわたしが訪れることを知っていたかのように。


「姫君がおいでになる、と式が知らせに参りましたので」

と、先回りして微笑みながら答える。


言われて思い当たった。

一条橋のあたりで蝶が舞っていた。

蝶の季節はとうに過ぎている。

好々爺に見えるが、八十を過ぎた今でも当代一の陰陽師と呼ばれる男だ。

この男こそが、式神や護法によって都を守護してきた、と言われている。


貴族の娘は、置かれた立場にもよるが、いくら年を取ろうが家族や使用人からは姫君と呼ばれる。

だが、中宮となったわたしを、未だに「姫君」と呼び続けるのはこの男ぐらいだ。

父でさえ、人前では中宮様と呼ぶ。


「今日は、快癒祝いをお持ちいたしました」

と、女房が挨拶をかわし、雑色に衣筥を塗籠に運ばせる。

一年ほど前に倒れ、床から離れたばかりと聞く。

寝殿に案内されると女房を遠ざけた。


老いた陰陽師に几帳を取り除かせ、扇ひとつで向かい合う。

陰陽師は、礼もそこそこに、

「これはこれは、また、一段と美しくなられましたな。私があと十年若ければ、誰よりも先に妻問いしましたものを」

心配など不要、とばかりに年の割に張りのある声で機嫌をうかがってきた。


「なんとも調子の良いこと。もしや、日頃から、その力で覗いているのではないでしょうね?」

「いやいや、そのようなことをせずとも、その艶のある声でわかりますぞ。五年前の可憐な姫君が、今まさに花開こうとしているようすが手に取るように……」

「誰にでも、そのようなことを言っているのでしょう?」


追従をさえぎったが、たいして気にした様子もない。

「仮にも陰陽師の端くれですぞ。言霊をおろそかにするようなまねができましょうか。……もっとも、褒めてやらねば人は育ちませんが。かく言う、わたしも師には随分と期待を掛けられたものです。それを周到したところ息子達も素直に育ってくれました」

策謀渦巻く、内裏では「素直」は、褒め言葉ではない。


「ご存知ですかな? 花木でさえ、毎日褒めてやると美しい花を咲かせるのです」

と、怪しげな話を続ける陰陽師に、

「誰彼かまわず褒めている、と言うことではありませんか」

と、切り返すが、慌てる様子ひとつ見せない。

「ああ、いやいや。姫君は誰が見ても、見目麗しゅうございますぞ」

帝に見向きもされぬ身には空々しく聞こえる。


とは言え、さすがに陰陽師である。

言霊をおろそかにしないと断じた通り、わたしの性分については、一つとして褒めようとはしない。

容姿については、好みの問題として言い抜けるつもりに違いない。


それにしても生真面目な息子たちと違って妙に調子が良い。

その弁舌で出世したのではないかと思うほどに。


この男は、わたしの父から絶大な信頼を得てきた。

父のために働いたからこそ、今の名声と地位があることも重々承知している。


息子の吉平が危険を承知で、先日の所業を、もみ消してくれたのも父に失脚されては困るからだ。

だが、その娘は、その気持ちにつけこむように、さらなる面倒を押し付けようとしている。


この陰陽師一族が、それを手助けしていたと表ざたになれば、父は、わたしもろとも切り捨てるだろう。

それを承知の上で、この男を巻き込まねばならなかった。

籠絡しなければならなかった。


むろん、この老いた男が万能ではないことも、体調が戻っていないということも、重々承知している。

それでも、今この国で、この男以上の力を持った者はいないだろう。

ならば、他に選択肢はない。


気はせくが、弱みを見せてはならない。

かといって、父のように地位や名誉を約束してやることはできない。

それを駆け引きで勝ち取らねばならなかった。

これから話す、二つのうち一方だけは何があっても首を縦に振らさねばならなかった。


「お世辞は聞きたくありません」と、断り、顔を上げさせた。

「先日の礼を言っておりませんでした」と、続けると、

「はて、何のことですかな?」と、とぼける。

「大原野社行きを延引してくれたことです」


あの日から七日目に予定されていた行啓を、この男が、「占筮により」と、延引してくれたのだ。

もう一人の実力者である光栄は、その変更に不満顔だったという。


「先日のことは、陰陽頭以上に承知しているのでしょう?」

この男なら、式神どころか神将を使ったかもしれない。

男の軽口が途絶え、一瞬笑みが消えた。

そうさせたことに、つまらぬ勝利感を覚えた。


まさか、わたしが認めるとは思わなかったのだろう。

認めるということは、国を揺るがすことだ。

こたびの噂が広まれば、父の政治生命は断たれかねない。

状況は、それほどまでに切迫している。


中宮に据えた娘が、嘘の行き先を告げて内裏を抜け出した挙句、怪しげな鬼の法力に頼ろうとして多くの犠牲者を出したのである。

さらには、得体のしれぬ男と一夜を共にする、という前代未聞の醜聞を起こしたのだ。


それでも父の事だ。

何十手も先のことまで考えているだろう。

政敵が足を引っ張ろうとすれば――あるいは帝が政敵になびくような気配を見せれば、その首を挿げ替えるだろう。


娘の出家は、その後のこととすればよい。

敦康親王様は、出家させられるだろう。


新しい帝には、妹である二の姫、三の姫を女御として入内させ、わたしがそうであったように早々に中宮に据えるだろう。

加えて、自分になびく者の階位を、あるいはその姫君を更衣に推挙するだろう。


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