第四十一話 『笛の音』
【輝夜】
形ばかり顔を隠していた扇を畳の上に置き、差し出された高杯を両手で受け取る。
酒呑童子の手のひらは驚くほど大きく、高杯は想像していたより重たかった。
それでも加減してくれたのだろう。量は少ない。
鼻につく匂い。
白く濁ったどろりとした食感。
刺激的な甘味。
吐きだしそうになるのをこらえて口にした。
このようなものを好んで飲む者の気持ちがわからなかった。
だが、こたびばかりは、飲みなれたようにふるまわなければならない。
義守のために、わたしのために。
親王様は干菓子をつまむのをおやめになり、興味深げにわたしの様子をご覧になった。
無理をして微笑んだ。
酒呑童子は、姫君の顔を覗いてはならないという礼儀を心得ているとみえ、形ばかりではあるが目をそらせた。
少々落胆した。
いや、大いに落胆した。
素顔をさらしたにもかかわらず、義守が何の反応も示さなかったからだ。
貴族が血を汗と呼ぶことを知っているのであれば、貴族の姫が男の前で顔をさらすことの意味をわかっていよう。
ならば、あの言葉――「天女」――が本心から出た言葉であるなら、酒呑童子に顔を見せたことを嫉妬して見せるべきだ。
せめて、眉の一つもひそめて然るべきであろう。
酒呑童子も酒呑童子だ。
わたしは三倍の寄進をしたのだ。
お世辞であっても「美しい」の一言ぐらいあってよいはずである。
ならば、義守も何らかの反応を示そうものを。
それとも、お世辞を口にするのもはばかられるほどの見目形なのだろうか。
わたしの鬱屈を見抜いたかのように、酒呑童子が大げさな仕草で、
「これを差し上げましょう。若君が災いから身を守れるように」
と、親王様に護符らしきものを渡す。
義守も、それを遮らない。
わたしが、高杯を畳の上に置くのを待っていたのように、酒呑童子が皆に声をかける。
「さて、さて。せっかくですから余興を添えますかな」
懐から『曼荼羅』図像が描かれた細長い袋を取り出した。
笛が入っていた。
酒を飲み終えたあとも形ばかり顔に扇をあてているわたしに、
「宴らしくなりましょう」と、照れたように口にした。
酒呑童子が手にすると小さく見えたが、笛そのものはいかにも風格を備えた見事なものであった。
「義守も笛をたしなむのですよ」
と、思わず口にする。
また聞いてみたいと思っていたのだ。
だが、義守は嫌がるだろう。そういう男だ。
少しだけ後悔して義守の様子をうかがう。
口にはしないものの、その表情が、
「見ていたのか、それにしても余計なことを」
と、物語っていた。
近頃では、ほんのちょっとした表情やしぐさから義守の考えていることがわかる。
それがまた、嬉しくてならない。
酒呑童子は高揚を隠すでもなく、童のように喜びを口にする。
「おお、お前も吹くのか。そうか、そうか、これは良い。ならば共に奏でようではないか」
「我流にすぎぬ。人前で披露できる腕ではない」
義守の機嫌は酒を勧められた時よりも悪い。
が、酒呑童子は気にする風もなく、
「わしとて同じじゃ。無粋なことを言わず付き合え」
と、口端を上げ、
「宴に笛はつきものでありましょう」
と、わたしと親王様に同意を求める。
わたしは義守の機嫌を気にして、わずかに躊躇した。
だが、親王様が嬉しそうにうなずかれると、酒呑童子は得たりとばかりに、
「それでは一興」
と、声を発し、笛を構え、一節吹いて、にやりと笑った。
「姫君や若君を楽しませるのも男の役目ぞ。さあ、さあ」
義守は、いつも背負っている革の筒袋の横の小物入れから、しぶしぶ麻の袋を取り出した。
麻の袋から取り出したのは細い絹の袋だった。
少々くすんではいたが、羅の地の上に刺繍を施した豪奢なものである。
そこから取り出した笛がまた見事であった。
酒呑童子は分限者たちから莫大な寄進を受けているのだろうが、義守にそのようなつてや身内があるとは思えなかった。
酒呑童子も同じ思いだったらしく、「ほおっ」と、うなった。
だが、尋ねてはくれなかった。
――圧巻だった。
哀しくも美しい笛の音に心を奪われた。
演奏が終わってもしばらくは、その音が紡ぎだした世界から抜け出せないでいた。
奏者として、酒呑童子より腕前がすぐれている者は幾人もいる。
だが、酒呑童子の笛ほど心を打たなかった。
義守も半月前より遥かに上手くなっていた。
いや、酒呑童子の笛がそれを引き出したのだろう。
【義守】
笛の持ち主との別れから、あと四月で五年が経つ。
目の前の雉肉から香ばしい匂いが漂ってくる。
酒呑童子は、「わしは修験者であるから口にしない」と、説明する。
が、これほどの体が、肉も喰わず出来上がるはずがない。
魚を焼く匂いに耐えられない。それは事実だろう。
自分と同じ理由で耐えられないのだ。
二年前、故郷と仲間を失ったに違いない。
口にすることができなくなったとしたら、その時からだろう。




