第三十二話 『毒』
【輝夜】
今宵も女房たちを遠ざけ、単衣を縫っていると、顔色を変え、藤壺を訪れた者があった。
親王家別当の行成だった。
恪勤精励を以って地下人から今の地位にまで昇った男である。
帝の信頼も厚い。
行成は、女房達がいないことをいぶかりながらも落ち着かぬ様子で報告した。
行成に預けていた小次郎が倒れたという。
行成にとって、小次郎が病に倒れようが痛くもかゆくもないはずである。
むしろ、身元の怪しげな童を追い出す口実ができたと、ほくそ笑むだろう。
すぐに、見当がついた。
毒を盛られたのだ。
むろん、小次郎を狙ったのではない。
小次郎は毒見と称し、親王さまのために用意されていた菓子をときおり盗み食いしている、と伝え聞いていた。
明るく誰にでも取り入るのがうまく、周囲の者はそれを大目に見ていた、とも。
小次郎が倒れたことを報告してきた女官と厨女は、食物庫に籠らせているという。
後に続く言葉を濁す行成に、
「左大臣には伝えましたか」
と尋ねた。
執政たる者に伝えるのが順序である。
「どうしたものかと……」
と、苦渋の表情を浮かべ、御簾越しにでさえわかるほど、ひたと見つめてきた。
職務に限れば有能ではあるが、わかりやすい男だ。
少なくとも、此度のことには加担していないだろう。
むしろ、疑っているのだ。
父である左大臣が、わたしを国母にするために仕組んだことではないか、と。
わたしが、それを承知しているのではないか、と顔色をうかがいに来たというわけだ。
疑われても仕方がない。
親王様を養育させていただきたいと唐突に帝に奏上した直後に、この出来事である。
「毒、ですね?」
その言葉に、行成は頭を下げる。
怒りを含んだ、わたしの様子で幾分かは疑いを解いたようだ。
まずは、行成に強く口止めした。
わたしが良いというまで誰にも伝えてはなりませんよ、と。
首謀者には、今しばらく謀が漏れていないと思わせておくのです、と。
毒を入れた食物は誤って床に落とし、捨てられたのだと思わせておくのです。
万が一、その判断が裏目に出て、あなたが窮地に陥るようなことになれば、わたしが責をとり、出家しましょう。
あなたには決して責は負わせませんよ、と。
行成は震えていた。
わたしの言葉に感激したわけではない。
倒れたのが小次郎であっても、親王様が口にする物に毒が入っていたことに変りはない。
公になれば、その責から逃れることはできないからだ。
しかも、手をくだした者は身近にいる。
それが誰かもわからない。
今、この時にも新たな刺客が、親王様を亡き者にしようと策を練っているに違いないからだ。
――どちらにせよ。心労で床に伏しておられる帝の耳に入れるわけにはいくまい。
こういった案件で最も頼りになるのはわたしの良く知る陰陽師だ。
だが、その男も父の引き立てがあって出世した。
たとえ父に加担していなくとも、真実を語ることはあるまい。
正面切って父に逆らえる者は、この国にはいない。
父の息のかかった者が、その意を汲んで動いた可能性もある。
知っている者がいたところで、「不見、不聞、不言」であろう。
放置しておけば、ことは繰り返されるだろう。
それどころか「中宮様のために」と、見当違いの恩を着せてくる者さえいるに違いない。
一度は捨てた身である。
父と諍いになろうと親王様をお守りする、と覚悟を決めた。
渋る行成に恩をちらつかせ、小次郎が臥せっているという場所に案内させる。
むろん女房は伴わない。
東南の渡廊にでると、さすがに女房の一人が気がついて「どちらへ」と、声をかけてくる。
急ぎもしない仕事を与え、遅れたら罰を与えると匂わせ、先を急ぐ。
香炉を下げた少女と女房。前後に御几帳を持つ侍女にかしずかれて、しずしず歩いてなどいられない。
なにより、知られてはならない事案だった。