第二十三話 『鬼の棲家』
【少尉】
額から落ちてくる血が目に入るが、それを拭うこともできない。
縄で後ろ手に縛られ、山中の獣道を進まされている。
恐ろしさに膝が震え、幾度も幾度も斜面から転がり落ちた。
落ちたくない、と前のめりになれば額から地面に落ちる。
早く立てと足蹴にされ、頭を踏みつけられる。
烏帽子は、とうに取り上げられてしまった。
いまや、わしも貴族の端くれである。
烏帽子無しでは帰れない。
自ら足を運んだことを後悔した。
千丈ヶ嶽には法力を持った鬼の酒呑童子が棲みつき、分限者どもを惑わせ、洛中では、夜盗や徒党を組んだ盗賊どもが、分限者の邸や罪のない者を襲った。
洛外では、近隣の郡・保・郷の倉を次々と襲う徒党が現れた。
騒ぎに乗じて盗人働きをする荒くれ者もいたが、大きな略奪は手際が良く、手口も似ていることから、同じ徒党どもの仕業と見られていた。
民の不安はもとより、殿上人から、何をしていると、毎日のように責めたてられた。
盗賊どもが、主上とゆかりのある寺社にも押し入ったという、まことしやかな噂さえ流れていた。
陰陽庁が動き出したという噂もあった。
占いで先に探し出されたのでは検非違使庁の面子が立たない。
何より大物である。
ならば、それに見合った手柄となる。
配下の者が血眼になって洛中の探索を続けていた。
そのさなか、放免が、貴船山山中に奴らのねぐらがあるとの情報を聞きこんできた。
麓に住む翁の話であり、信憑性は高かった。
人は出払っていた。
本来であれば、少尉であるわしが直接、放免を指揮することなどない。
大尉に伝え、人を動員すべきだったのだ。
いや、そもそも洛外は、われらの管轄ではない。
山城国、国府の管轄である。
勝手なことをすれば問題になる。
破格の出世に嫉妬され、田舎者は何も知らぬと笑われ、さげすまれてきた。
定年まで、この職場で働く気はなかった。
棒給を節約し、身分は低いが気立ての良い、そのようなおなごを嫁にもらい、のんびりと余生を送るつもりだった。
反骨心など、これぽっちもなかった。
地方の小役人から検非違使庁の少尉に抜擢されたのも、ほかに与える職に空きがなかったからであろう。
少尉という役職は、もともと二人制ということもあって、仕事などろくに回ってこなかった。
一つ上の大尉は世襲制である。
これ以上の出世はない、と断言されたも同然だった。
名誉職というわけだ。
だが、ここで大きな手柄を立てて、その上の佐となれば殿上人となれるのだ。
その姿を思い浮かべ、身震いした。
見てはならぬ夢を見た。
そして、欲をかいた。
二人の放免が持ってきた情報に飛びつき、国から連れてきた下部と共に探索に向かったのだ。
だが、そのねぐらは見つけることが出来ず、陽も傾いてきた。
やむを得ず引き上げようとしたそのとき、山伏姿の集団に捕まった。
ここは修験者以外の立ち入りを禁じた禁足地であるという。
「だからどうだというのだ。ここは主上の国で、われらは、その下で働く検非違使庁の者だ」
と、血の気の多い放免が七曲がりの鉾を振りかざしたが、あっという間に錫杖で打ち据えられた。
口髭、顎鬚を伸ばし、赤い摺衣を身につけ、七曲の鉾を手にしている者が放免だと知らぬ都人などいない。
その放免が、元罪人であるということも。
修験者とて知らぬはずがない。
なにより、検非違使を手に掛けるということは朝廷を敵に回すということだ。
昨夜、洛中の見回りをしていた検非違使が、分限者の邸に押し入った盗賊どものうち、逃げ遅れた二人を捕縛した。
山伏のなりをしているが、こやつらこそが、その一味に違いない。
我らを質に、捕縛された者達との交換にでも使おうという魂胆だろう。
殺すつもりなら、さっさと手を下し、崖下に投げ捨てればよい。
放免どもも、そう確信したのだ。
虚勢もあろうが、幾度も不満を口にし、そのたびに錫杖で打ち据えられていた。
わしは、と言えば、ただただ、、震えながら諾々と従った。
*
道なき道を半刻ほど歩かされたろうか。
疲労困憊したわしの目の前に、四間四方はあろう板張りの建屋が現れた。
尻を蹴られ、押し込まれると、優に六尺はあろう山伏二人が立っていた。
いや、山伏などではない。
その額の真ん中に兜巾と呼ぶには大きすぎる五寸ほどのものをつけている。
まるで何かを隠すように。
汗が背筋を伝った。
ただの偶然か――それとも。
小屋の奥の板の間とは簾で遮られていた。
その簾には紙燭の灯りに照らされた頭目らしき影が映っていた。
畳らしきものに座っている。
こやつらだ。
こやつらが分限者や山城国の郷や保の蔵を襲い略奪したのだ。
そこで得た蓄財を使い、人を動かしているのだ。
ぶるり、と震えた。
畏れ多くも熱田神宮に押し込んだ罰当たりな者どもがいる、という噂は真実だったのだ。
――やつらなら、やるだろう。やらねば気がすむまい。
間違いであってくれ。
心底から願った。
「何を調べている」
土間に座らせたわれらに向かって山伏の姿をしたモノが問うた。
かつては盗賊の首領だったという放免が、薄ら笑いを浮かべて挑発した。
「山で材木が盗まれておると聞いて調べておったのよ……この家の材木はどこで手に入れた?」
「つまらぬ答えよ」
山伏が、にやりと笑い、錫杖を大きく横にないだ。
はじけるように何かが吹き飛んだ。
壁に床に、加えてわれらの顔に血なまぐさく温かいものが飛び散ってきた。
それが何かはわからなかった。
わかりたくなかった。
わしの歯が音を立て始めた。
やつらの顔には何の後悔も浮かんでいない。
むしろ愉快でたまらぬといった様子であった。
次は自分の番だと思ったのだろう。
問われもしないのに年配の放免が、悲鳴を上げるように任務の内容を明かす。
だが、そのようなことは知っている、とばかりに、真上から錫杖を振り下ろした。
鈍い音が耳朶に届いた。
目を開けることが出来なかった。
膝の上に胡粉色の塊と血、加えて髪の毛と頭の皮と思しきものが飛んできたからだ。
残ったのは、壱支国から連れてきた下部とわしだけになった。
「問いが婉曲だったかもしれぬ。わかるように言ってやろう」
山伏どもは声を立てずに笑った。
笑ったことを知られてはならぬとでもいうように。
「おまえたちが『壱支国の乱』と呼ぶ殲滅戦に、おまえは加担したか」
――全身から血の気が引いていった。
生き残っていたのだ。
よりにもよって鬼の法師どもが。
わしが、その鎮圧とは名ばかりの大虐殺を引き起こすきっかけを作った男だと知って、あえて聞いているのだ。
ならば、放免の聞いてきた情報は、わしを、おびき出すための餌だったのだ。
下部の男も奴らの正体に気づいたようだ。
とぼけても無駄だと悟ったのだろう。
「確かにその場にはおりましたが、案主の……」
援護を期待してか、助かったのちの保身をも考えてか、震えながらも、わしを見た。
「軍団の、案主の下部として給与や物資の調達にかかわっていただけ。わたしは……いいえ、ここに居ります案主も同様です。一人たりとも手にかけておりません」
すがるようにわしを見た。
「そうでありましょう?」
事実、その男は、わしと共に壱支国が蹂躙されていく様子を震えながら見ていただけだ。
だが、擁護するということは、その場に自分がいたことを認めるということだ。
唇は震え、歯はかみ合わず、声が喉元から出てこなかった。
なにせ、口を開いた二人は、その直後に撲殺されたのだ。
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