第十三話 『芥川のほとり』
【輝夜】
翌朝、かすかに聞こえてくる笛の音と藁の匂いに目が覚めた。
あれほどの事があった後である。
眠れるはずなどないと思っていた。
乾ききらない髪に藁くずがまとわりついていた。
藁から抜け出ると昨夜の蒸し暑さが嘘のように肌寒かった。
胸元に掛けられていたらしい布が、はらりと落ちた。
安価ではあろうが清潔そうではあった。
あの男が気を利かせたのだろう。
寝顔も見られてしまったことだろう。
だが、衣ひとつ乱れていない。
どうやら、指一本触れることもなかったらしい。
なにが「天女」だ。
ぬけぬけと、それを、口にした義守に少々腹を立てた。
足元でかさかさと音がして、薬効の匂いが漂ってきた。
上から油紙を巻いてくれたのだ。
昨夜、義守が、捻った足首に薬を塗ってやろう、と言ってきた。
いよいよかと、少しだけ期待した。
許すつもりなど露ほどもなかったが、言い寄られる状況にはあこがれていた。
にもかかわらず、野暮で無粋で気が利かぬこの男は、口説き文句ひとつ口にしなかったのだ。
腹立ちは収まらなかったが、ぐずぐずしていても始まらない。
納屋を出ようとして甘い匂いに気がついた。
見ると、横の木箱に皿が載っている。
その上に良く熟れた瓜が切り分けられていた。
*
笛の演奏は、決してうまいとは言えなかったが、その物悲しい音色に惹きつけられた。
誰が奏でているのかが気になった。
虫の垂れ衣の破れた市女笠を被り、こわごわと崖にすがり、鬱蒼とした斜面をくだり、昨夜水浴び――をした川を目指す。
竹藪に入ると、葉の隙間から対岸の切り立った崖が見えた。
笛の音は、そちらから聞こえてくる。
崖の上で義守が、あたたかな陽を浴びながら笛を奏じていた。
西の方角を向いている。
距離は遠く、その瞳が何を見つめているかを窺い知ることはできなかった。
だが、誰かのことを思って吹いているのだろう。
笛の音が、それを物語っていた。
近づいてはならぬという気がした。
そっと踵を返した。
痛みの残る足をかばいながら竹藪を登る。
汗がじんわりと額に浮かぶ。
それを察したように、心地良い朝風が虫の垂れ衣をふんわりとそよがせる。
竹藪が途切れ、かろうじて径とわかるその先のクヌギの木の前で、昨夜の、ごうつくばりな媼が、背を丸め佇んでいた。
首からかけた籠目模様の守袋が揺れていた。
元は紺色であったろう、それは、持ち主同様、色あせていた。
櫛でけずられたことがあったとは思えないほど艶をなくした白い髪が時折風にそよぐ。
その前に七尺はありそうな岩と、五尺ほどの岩が並んで立っていた。
対岸の滝や媼の住む家の近辺がそうであるように、岩の多い地ではあった。
しかし、元からここにあったようには見えなかった。
明らかにあとから据えたものだ。
このような大きな岩を、誰がどうやって運んだのだろう。
間には一尺ほどの小さな岩が据えられていた。
色や形から、この岩だけは、この近辺にあったものだと推測ができた。
媼は、その岩に向かって手を合わせていた。
思い通りに動かぬ足を叱咤して息を切らしながら近づいていくと、皺だらけの媼が振り返った。
一瞬、目を瞠ったが、昨夜のおなごと気がついたのだろう。
岩に向き直って再び手を合わせる。
「媼……いえ、おばば様。これは?」
はしたなくも息を切らせたまま、途切れ途切れに尋ねると、不機嫌そうに「墓よ」と答えた。
墓とは、供養塔や五輪塔のようなものだと思っていた。
だが、岩を墓に見立てるのであれば、貧しい者たちでも墓を持つことができよう。
山作場で僧に読経させながら火葬にすれば布施も必要となる。
誰のものかと、促すと、
「つれあいの、ものじゃ……この岩のように大きな男であった」
と答えた。
だが、岩は一つではない。
その疑問を察したように、
「あの世に行っても共に居れるようにと、な」
確かに、媼とて、腰と背中が曲がる前であれば五尺はあっただろう。
しかし、もう一方は七尺はあろう。
それが事実であるとすれば、とてつもない大男である。
媼は続けた。
「皆に反対され、このようなところに隠れ住むことになったが」
反対……それは自分たちで伴侶を決めるということか?
貴族の多くは婿入り婚だ。
血筋の良い家であれば、娘の伴侶は相手の家柄や将来性を見て父が決める。
下人の伴侶も主人が決めると聞いている。
幼いころから、それが当然と思ってきた。
自らの気持ちを通すなど思いもよらぬことだ。
もしも、西国の若武者に――義光様に救われたのが、わたしであったとしたら、お互いに憎からず思っていたとしたら、父の反対を押し切ってまで意志を通そうとするだろうか。
それでも添いとげたい、と。
媼にとって、ここは、菩提を弔うための庵ではなかろうか。
肩までしかない髪を見ながらそう思った。
「芥川のほとりを背負われ、白玉を見たのですね」
思わず、伊勢物語の一節を口にした。
それを聞いた媼は顔をしかめた。
なにがしかの引用であると予測がついたのだろう。
つまらぬ知識をひけらかすおなごよと、機嫌が悪くなったかと思った。
が、どうやら微笑んだようだ。
まるで、その意味が解っているかのように。
曲がった腰を伸ばすように顔をあげ、少々得意げに口を開いた。
「そなたの連れの男と、どこか似たところがあった」
「……?」
「あの男……かなりの修羅場を潜っておるな」
その言葉に、なぜか腹が立ってきた。
義守の何を知っているというのだ。
手枕の仲とはいかなかったが、少なくとも私の方が知っている――と、考えおかしくなった。
何をむきになっているのだ。
下賤の者のことを知っていたところで何の自慢になろう。
「いざという時は頼りになろう……が、しかし」
と憐れむような目で続けた。
「近くに置けば、災いに巻き込まれよう」
媼は間違っている。
巻き込んだのはわたしのほうなのだ。