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『あさきゆめみし』  作者: 八神 真哉
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第百二話  『われても末に』

【輝夜】


流れる星に気を取られているうちに、見知らぬ男は姿を消していた。

代わりに女房が二人、侍女を引き連れ、息を切らせて丘を登ってきた。

宮中から牛車で駆けつけてきたようだ。


気がつくと、東の山の稜線から陽が顔をのぞかせ、あたりを朱鷺色(ときいろ)に染め始めている。

足元の笹の葉には白玉のように大きな朝露が載っている。


「藤壺様、それは?」

女房の視線はわたしの胸元に向いている。


見ると、何かが襟元から零れ落ちていた。

この世の朝日を独り占めしたかのように輝く勾玉であった。

地色は花緑青だが、見たこともないほど透きとおっている。

例えるならば、春の女神の喜びの涙。若葉に落ちたその一滴。

鮮烈であった。


「……なんと、端麗な」

「どなたから……」

「輝く藤壺様にふさわしい……」

女房たちも目を奪われている。

それほどまでに美しく、いかにもいわれのありそうな勾玉だった。


相当な財力があったところで容易く手に入るまい。

よほどの名家、格式の高い神社でもどうだろうか。

わたしでさえ、これほどの物は目にしたことがない。


直前に会ったのは酒呑童子だが、このような物を贈られた覚えはない。

騒ぎのさなかに酒呑童子から託されたのだろうか。

口にしようとしてためらった。


そもそも、これは、むやみに人に見せてはならぬ物ではないか。

襟の中に押し込もうとして、ふと、先ほどわたしの前に立っていた奇妙な若い男のことが頭をよぎった。

あれはいったい何者だったのだろう。

かしこまることもなく、わたしの前に立てる男など、帝のほかにはいないはずなのに。


「――(うり)が食べたい」

思わず口にしていた。


「時期は、とうに過ぎてしまいましたが……」

女房が困惑していた。

わたしにもわからなかった。

あの男のことを思ったとたんに食べたくなったのだ。


その疑問を断ち切るかのように、丘の下から先ぶれの声が届いた。

それを把握できた者は一人としていなかっただろう。

誰もが困惑を隠しきれなかった。


紅色地に金色の菊章と鳳輦(ほうれん)が目に入る。


肝をつぶした女房たちが慌てて退いた。


鳳輦が丘の上に着き、衛府の官人達が道をあける。

警護の陪従とともに女官や御几帳を持つ侍女たちにかしずかれ、床に伏しておられるはずの帝が、径をゆっくりと進んでこられた。


御几帳が横に開く。

崇高な御美貌、涼やかな瞳。

一息つかれ、ほんのりと上気された様子で、お言葉を発せられた。

「朕は、皇后宮……藤壺の宮のことを誤解していたようだ――ために随分と心労、心痛を与えたであろう。そのこと、詫びなければと」


(こうべ)を垂れ、かしこまって聞いていた、わたしの女房や、帝の後方に控える女官が息をのむのが分かった。


不敬なことに、まじまじと、お顔を見つめてしまった。

聞き間違えたのかと耳を疑ったのだ。

夜御殿の睦言(むつごと)の中であればともかく、人前で帝が詫びられるなど誰が想像できるだろう。

しかも、そのためだけに、駆けつけられたというのか。


「初めての対面のおり、藤壺の宮は歌を詠んだであろう」

確かに詠んだ。いくつも詠んだ。

最後に上の句だけを詠んだ。


「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」


十二になる直前だった。

詠むにしてもこれほど直截的なものを選ぶべきではなかった、と今になって思う。

「朕は、藤壺の宮に、そのような相手がおり、入内により引き裂かれたのではないかと思ったのだ。化粧をしないのも、それゆえであろうと」


あながち勘違いともいえない。

確かに、その時、わたしは恋をしていた。

文のやり取りひとつない、うわさに聞いただけの若武者に。

帝に向けての歌ではあっても、その恋心を悟られたのだろう。


「甲斐甲斐しく、一宮の世話をし、慕われる様子を見るにつけ、あれは朕の思い違いではなかったかと」


帝が、意中の親王に皇位を譲れた時代は遠い昔のこととなった。

いまや、中宮の実家や、その一門の協力なくしては政も成り立たない。

今上帝も、わが一族の後ろ盾があって帝に立たれた。


自分たちの血のつながる者を帝にすれば外戚として権勢を欲しい儘にできる。

そのために娘を入内させる。


さらには、自分たちにとって都合の悪い帝を除こうとする。

先の帝が、そうである。

祖父が、だまし討ち同然で退位させ、幼かった今上帝を立てることにより、その権力をゆるぎないものにしたのである。


再び、同じことが起きないとは限らない。

退位を迫られることになれば、わたしとの仲は引き裂かれるだろう。


それでも、契りを結んだ以上、何があってもわたしの心は変わらない。

帝とは、生涯そのような間柄でありたいと、その覚悟を込めた。

そして優雅に微笑んで見せた。

裳着を済ませたばかりの幼いわたしが精いっぱいの背伸びをして。


帝も、その美しいお顔で優雅に微笑んでくださった。

だが、下の句を継いではくださらなかった。


梅壷様を、それほどまでに寵愛しているのかと思った。

帝の首を挿げ替えることが可能なほどの権勢を誇り、一帝二后をごり押しした父を許せぬのだろうと思った。


そのあと、「もっと訪れてほしい」と、文を送れば今とは関係が変わっていたかもしれない。


だが、できなかった。

はしたないという思いもあった。

なぜ、理解してくれないのかと言う怒りもあった。

自分の魅力に自信もあった。


まさに自業自得というものだろう。

以来、あの歌を詠んだことはない。


その上の句が、あたりに朗々と響き渡った。

「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」


帝の、お声であった。

そして、いささかぎこちなく微笑まれた。


――「眉根は吊り上げぬほうが良い。美しい顔が台無しじゃ」

――「素直になれ」


どこからか、そのような声が聞こえて来た。

いつか誰かに、そう言われた気がした。


わたしは、できる限り優雅に見えるように微笑んだ。

そして、ゆるりと下の句を継いだ。

「われても末に 逢はむとぞ思ふ」 


帝がわたしに、そっと手を差し伸べられた。


     *


挿絵(By みてみん)


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