第百一話 『流星』
【陰陽師】
人の形をとらせた式神に布にくるんだ剣を持たせ、女童の手を引き、ゆっくりと道を降りる。
麓近くにある小さな丘陵の手前に檳榔廂車が停まっている。
その横に狩衣姿の男が二人立っていた。
一人は、あまたの政敵を追い落とし、権謀渦巻く朝廷で、おのれの権勢をゆるぎないものにしてきた左大臣である。
さすがに度胸も据わっている。
ほかの殿上人は一人残らず邸の中で震えているだろう。
「左京権大夫」
中宮の父でもある男が、私を呼び、近寄ってきた。
こちらから進み出るのを待つべきである。
同行して来た者に話を聞かれたくないのだろう。
女童を式神に任せ、頭を垂れた。
視界に沓が入ったのを見て目線をあげ報告する。
「中宮様はご無事です」
と、伝えると、左大臣は微妙に眉を動かした。
牛車のかたわらには、かつての師の息子である光栄が立っていた。
左大臣に気を遣ったと見え、近づいてこない。
「おまえが留守と言うことだったので光栄にな」
留守でなくとも、老いた陰陽師に声はかからなかっただろう。
一年前に倒れて以降、頼られたのはただ一度、先日の占いだけだ。
それとて要請があったわけではない。
こちらから持ち掛けたのだ。
「光栄から聞いておる。怨霊に都を滅ぼされるところであったな。またも、おまえに救われたか」
「私の力など微々たるもの。陰陽寮の者たちが力を合わせ、都城に結界を張って守ったがゆえにございます」
左大臣は眉間にしわを寄せる。
「おまえに謙遜は似合わぬ――正直なところを聞かせろ。こたびの騒ぎ、あの怨霊だけの仕業ではあるまい。一体、何が起こっていたのだ?」
光栄も状況をつかみあぐねているようだ。
やつの面子など知ったことではないが、姫を切り捨てるのは得策ではない。
切り捨てたところで左大臣自身の力も弱まる。
わが一門の繁栄のためにも、左大臣には権力を握り続けてもらわねばならない。
後継が頼りないのは左大臣家だけではないからだ。
わずかに微笑みを浮かべ報告する。
「壱支国の乱で生き残った長の息子と酒呑童子という鬼の法師が、怨霊を呼び出し黄泉の国の扉を開けたのです」
目をむく左大臣には構わず話を続ける。
「――が、法師と長の息子は倒れ、怨霊は調伏。しばらくは、この国を騒がせる者も、大臣様を煩わせる者も現れぬでしょう」
「怨霊を調伏、黄泉の国の扉をも閉じる……さすが、希代の陰陽師。その名は幾千年も語り継がれようよ」
安堵したかのように口にするものの表情は晴れない。
中宮のことが気がかりなのだ。
「黄泉の国の扉を閉じたは、荒覇吐の神宝。中宮様を襲う屍どもを葬ったは、天皇家に伝わる神器、草薙剣」
草薙剣、に力を込めた。
「草薙……?」
眉をひそめる大臣にはかまわず続けた。
「私のなしたことと言えば神器安置の占い、鬼を葬る呪符のみ。手柄を語るのであれば大臣様の右に出る者はありますまい。荒覇吐の神宝に対抗できるのは草薙剣のみ――宣耀殿から神器を持ち出すという大臣様の英断が、そして、主上のご威徳が、この国を救ったのです。さらには、その神器が未来の国母をお護りしたのですから」
釘を刺しておかねばならなかった。
宣耀殿から草薙剣を持ち出したのが誰だったかを。
「この狐めが……」
私の母が妖狐であった、と言う噂が流布している。
それを差しての言葉だ。
ともあれ、大臣は、ようやくすべてを悟ったようだ。
蒼白だった顔が真っ赤に染まった。
「……何が国母だ。おまえが、宣耀殿に安置してある破敵剣の形代を中宮の塗籠に移動させれば帝の寵愛を得ることができる、との卦が出たと言うから、わたしは……おまえから預かった衣筥を運んだだけだ――このわたしを、このわたしを謀りおったな」
言い募ろうとした左大臣であったが言葉を詰まらせた。
丑寅の宙に星が流れたのだ。
ひとつではない。
次から次へ、天空を切り裂くように尾を引いて流れていく。
一拍遅れて、ひときわ大きな星が、満天を照らすほどの青白い光を発しながら落ちた。
「なんと……」
絶句したのち、うめくように尋ねてきた。
「あれは誰の星だ。宋の王か? それとも南蛮の……」
「名もなき男の星でしょう」
「莫迦な。あれほどの巨星だぞ……まさか主上ではあるまいな。いやいや、昇殿を許された吉昌がお守りしているはずだ。めったなことはあるまいが……」
「大臣様は、主上のお傍におられると思っておりましたが」
「直々の命なのだ。あれの……中宮様の無事を急ぎ確認してまいれとの仰せゆえ、な」
いよいよですな、と言祝ぎを口にしようとしたが、慰めの言葉などいらぬとばかりに続ける。
「わたしを、お傍に置きたくなかったのだ。あれが……わが娘が、いさめる門衛と武官の前を強引に突破したのちに、次々に禍々しいことが起こったのだからな」
たまったうっぷんを晴らすように続ける。
「主上とて事を荒立てたくはあるまいが……」
確かに、あの姫君の気性では、しらを切りとおすことはできまい。
「あの若い男と一夜を共にしたことが御心配なのですね?」
左大臣は後方の光栄を気にしつつ、忌々し気に私を睨みつけ、
「出家させるほかあるまい」
と、吐き捨てる。
誰を出家させるおつもりですか、と尋ねたくなる。
失態を犯したおのれの娘か。
それとも主上――帝を、か?
「お忘れですか? 五年前、主上と中宮様の仲をご心配なされて、私に祈祷を依頼されたことを」
何が言いたい。忘れるわけがないではないか、とばかりに顔をしかめる。
「時が来れば、と、お答え申し上げました」
左大臣が眉をひそめた。
無意味な会話を続けてなんになるのだと。
「尋常ではない騒ぎを二度までもひき起こしたのだぞ」
三度目ではあったが、訂正はしなかった。
「……中宮様の行動は、この国を救うためだったのです。吉平、吉昌が、そのように奏上しておりましょう」
主上をうまく丸め込む――それは本来あなたの仕事ですよ、との皮肉も込めた。
「いや、しかし……」
「先ほど、私のことを希代の陰陽師とおっしゃったのは、お世辞でしたか」
「こたびのことが不問に付されるばかりか、わが娘が、主上の寵愛を得られるというのか?」
信じられないのだろう。
まさかとばかりに言葉を連ねる。
「……このようなことをしでかした後で」
まさに狐につままれたような顔だ。
主上は、寵愛した皇后宮、梅壺の宮の御子である敦康親王様を次の帝に立てたいと願っている。
中宮、藤壺の宮が敦康親王様を手元に置いて養育したいと奏上された時も反対されたと聞く。
当然である。
左大臣の手元に置くも同然だからだ。
いつ毒を盛られるかわかったものでは無い。
私が親王家の勅別当であっても反対する。
だが、親王様が中宮様を慕われる様子をご覧になり、主上のお気持ちも変わられたようだと、吉平から報告があった。
「しかし、おまえ達が、いかにうまく奏上してくれようが、わが娘は――中宮様は一途ゆえにな」
左大臣の気鬱は晴れないようだ。
「杞憂に終わりましょう。中宮様は、すぐにあの男のことは忘れられますゆえ」
と、微笑みで応える。
「忘れる? 莫迦なことを。おまえは妻を一人しか持たなかったからわかるまいが、おなごの情念ほど厄介なものは無いぞ。政ごとの駆け引きの方がよほど……」
左大臣の言葉をさえぎり、無粋な説明を加える。
「先日、中宮様に助けを乞われました。病に倒れたあの男を救ってほしいと」
なぜ助けた、とばかりに左大臣が睨みつけてくる。
「中宮様と約定をかわしたのです。ひとたび、その名を口にすれば……と」
眉間にしわを寄せていた左大臣の表情が見る間に晴れていく。
「おおっ、そうか……忘れるか。なるほど――名は一番短い呪。おまえならばできよう」
「恩にきるぞ」と、満面の笑みへとかわる。
その言葉を遮るように、眼下の道から、ざわめきが起こった。
武官、武士どもが転がるように道を開ける。
そして、先ぶれの声が聞こえてきた。
左大臣が呆けたように口を開け、目を見張った。
信じがたいことが目の前で起こっていた。
「あれは……」
掲げられた旗は、紅色地に金色の菊章。
儀仗を整え、衛府の官人が列次を組んで帝の鳳輦を警護しながら進んでくる。
「主上が……」
左大臣が目を疑うのも無理はない。
突然の行幸である。
ありえないことであった。
先だって官人を遣わし検察すべきであろう。
内裏から出るための儀式や占い、警護の準備もある。
陪従は少なくとも千名。
留守中の宮都の管理官や体制も決めなければならない。
なにより、これほどの禍乱の中。
混乱に乗じ、悪党どもが数を頼んで、あちこちで騒ぎを起こしているであろう、そのさなかに行幸とは。
そもそも、左大臣や私が知らぬ行幸などありえなかった。
左大臣の心中は、いかばかりであろうか。
今はまだ、驚きが勝っているだろうが、自分に無断で行幸を決行した主上を許せぬのではないか。
一方で、これほどの大事を予見できなかったわが身に、ため息をつく。
哀れ、老いたり、と。
そこに一枚の式神が空から舞い降り、地に触れ、人の姿をとった。
吉昌からの伝言だ。
式神は、わたしに耳打ちした。
呆けたままの左大臣に、「大臣様」と、声をかけた。
振り返った左大臣が、いつの間にか、私の横に立っている男に怪訝な目を向けて来たが構わず続けた。
「中宮様の身を案じられての行幸です。親王様の後押しもあり、皆の反対を押し切られたとのこと」
あっけにとられていた左大臣の表情が、見る間に穏やかな笑みに変わった。
「さすがは晴明」
そう口にした時には、涙を浮かべていた。
今にも泣きだしそうに見えた。
「都を跋扈する悪霊、物の怪、略奪の横行。それを憂いた主上の命を受けた希代の陰陽師が占事を行い、草薙の剣を振るえば悪霊を調伏できると奏上した。主上のご威徳がこの国を救った――うむ、それが良い。そのほうが、朝廷の威厳も保たれる」
それが良い、それが良い、と笑い声をあげる。
少々出来過ぎの感もあるが、わたしの企みは成功したようだ。
摂関家だけではなく、主上の信頼も得られたとのうわさが流布するだけで、わが一門は孫子の代まで安泰であろう。