第九十九話 『雷光』
【道摩】
後悔はしていない。
この国を奪った奴らに復讐をするのだ。
父の恨みを、
母の恨みを、
民の恨みを晴らさねばならぬのだ。
そのために、後継たる自分が生きてここを出ねばならぬのだ。
だが、それは後付けだ。
あの時、わしは怖ろしかったのだ。
死にたくなかったのだ。
わしは、ただの臆病者だった。
それを認めたくないばかりに、生き残った鬼どもを引き連れ、都に出た。
数えきれぬほどの無辜の民の殺戮を命じた。
双頭の鴉を遠ざけた。
瑠子を遠ざけた。
おのれの罪と向き合うことなどできなかった。
呪で縛った内通者が、あのお人よしの姫――中宮が実家の火事見舞いで内裏を出ると知らせてきたあの日、わしは一条大路で待機していた。
牛車の行列ごと拐かし、呪の種を植え付け、宮中に帰すつもりでいた。
五十人もの従者を引き連れる大臣の行列を目にしていただけに、拍子抜けするほどだった。
牛車が内裏を出てすぐに式札の一枚を屋根の上に貼りつけ、七枚の式札を鳥の姿に変え、行方を追わせ、順に報告させた。
驚いたことに、牛車は中宮の実家とは逆方向の右京に向かう。
さらには、崩れかけた塀を放置している貧相な邸に立ち寄った。
しかも牛車も従者もそっくり入れ替え、洛外に出る。
危うく見逃すところだった。
そこでようやく納得した。
神宮寺に向かうのだろう、と。
中宮の傍にいる者に酒呑童子の話を吹き込んでいたからだ。
しかし、このまま進めば山城国を出る。
式札の報告で、随身である侍と従者の一人が誘導していることが分かった。
さらに監視を続けると企みが分かった。
峠を越えたところで、中宮一行を一人残さず始末し、山賊の仕業に見せつけようというのだ。
後に分かったことだが、警護役の侍は左大臣の政敵である大納言に仕える侍と縁戚にあった。
車宿りに停められた牛車が中宮のものだと気づき、こたびの事を思いついたようだ。
葵祭で、その牛車を目にしたことがあったらしい。
今生帝に親王はいるものの有力な後見はいない。
左大臣の一の姫である中宮が皇子を生めば、その皇子が親王を押しのけ帝となることは確実である。
その前に中宮の命を奪えばよい。
それが出世の糸口になる、とでも考えたのだろう。
愚かな男だ。
左大臣になびかない大納言は清廉潔白で通っている。
それが事実であれば、褒美を貰えるどころか命を奪われるだろう。
たとえ、それが意に沿ったものであっても、おのれが指示したという噂が広がれば命取りになるからだ。
やつらが誘導したのが老ノ坂峠で幸いだった。
大枝山を根城とする山賊は、わしの配下にある。
山賊どもに、「姫を除き、皆殺し」にするよう指示をだした。
企みに加わっているのが二人とは限らないからだ。
帳がおり、あたりが暗くなったところで空を駆けた。
宙に浮いたまま、その一行の様子をうかがっていると、従者と侍は、現れた山賊どもに警護料と言う名の賂を渡そうとした。
ここをやり過ごし、麓に下りたあたりで皆の命を奪い、山賊どもに罪を擦り付けるつもりだったのだ。
――が、しかし、奴らの思惑どころか、わしの思惑も狂った。
突然現れた若い男に邪魔をされ、一人を残し山賊どもは倒された。
わしの呪で葬ってやろうと思った。
が、人間離れした腕前と力に興味を持った。
何より、名のある陰陽師が出張ってこぬことに退屈を覚えていた。
中宮の袿の袖に忍ばせた式札の報告で、その若い男が翌朝、山賊の棲家を覗く腹つもりだと知って一計を案じた。
男の言動から、すでに山賊どもの住処を掴んでいるのだろうと推測した。
ならば、利用できるのではないかと。
そうだ――とうに、わしは狂っていたのだ。
わずかに残っていた力を振り絞り、中宮と瑠子を宙に浮かべ、力岩の上に導く。
*
東の空で雷光が二度三度と瞬いた。
かつて太宰府に左遷され憤死した貴族が怨霊となり、雷を内裏に落としたと聞く。
――いや、此度も落ちた。
この雷も、わが身に憑りついた怨霊の仕業に違いない。
雷光に照らされた義守の姿が見えた。
木偶の棒と化した屍どもを打ち払いながら岩場を登ってくる。
空に幾筋もの軌跡を描いて矢が飛んできた。
駆けつけてきた武士どもが放ったのだろう。
そのうち二、三本の矢が音をたて、力岩の三間ほど手前に落ちた。
後方の気配に目をやると、瑠子が立ち上がっていた。
雷光に続いて雷音が響き渡った。近くに落ちたようだった。
瑠子の様子に変化が見えた。
倒れたわしに歩み寄り、見下ろしてきた。
長きにわたり生気を失っていた、その目が揺らいでいた。
何かを思い出そうとするかのように、惑うように泳いだ。
断末魔のような鴉の鳴き声があたりに響き渡る。
先ほどまで中宮と瑠子のいた檜の枝の上に双頭の鴉の姿があった。
瑠子の瞳に小さく灯がともった。
――思い出させるわけにはいかなかった。
残る力を振り絞り、半身を起こし、震える腕で、わしの前に立った瑠子に手を伸ばした。
力岩の下に突き落とそうとした。
瑠子の衣の裾を掴んだその腕が震えている。
が、瑠子は、わしの怯えに気づくふうもなく、しゃがみ込み、袖の中から何かを取り出した。
差し出された手のひらには笹に包まれた餅が載っていた。
わしの大好物だった。
この社で手に入れたのだろうか。
いや、病の女童に餅はあたえまい。
ならば昨日、厨女が、わしらにくれたものをとっておいたのか。
――大気を切り裂いて飛来した一本の矢が、ついに力岩を叩いた。
想いに沈むわしに、最後通牒を突き付けるかのように。
どうやら、いの一番に駆けつけた武士どもは、屍たちを追ってきただけで、ここに中宮がいることを知らぬようだ。
腕の震えは治まっていた。
次々と放たれる矢と弦の音が耳朶に届く。
そのひとつが頬をかすめた。
瑠子の唇が動いた。
兄さま、と読めた。
力を振り絞り、うめき声をあげながら立ち上がった。
瑠子を後方に突き飛ばした。
気がつくと、まるで瑠子を守るかのように矢面に立っていた。
唸りをあげた矢が、わしに向かって来るのが見えた。
法力は底をつき、足は岩に貼り付いたかのように動かない。
観念し、瞼を閉じた。
――が、痛みは感じず気も失わなかった。
ばさっ、という音とともに足元になにかが落ちてきた。
瞼をあげると体を矢で貫かれた濡れ羽色の鴉が足元に転がっていた。
まるで、わしと瑠子の盾となったかのように。
その体には頭が二つ、足が四本ついていた。
大きな雷光が上空で瞬いた。
その光が、人間離れした速さで岩山をかけあがって来た義守の姿を照らし出した。
わしの立つ力岩まで、おおよそ八間。
さらにひときわ大きな雷光が起こった。
菫色の光が、まるで時の流れを無視するかのように、異様にゆっくりと闇を切り裂いて落ちてくる。
それは、義守を直撃した。
――と見えた瞬間、奇妙な角度で曲がり――わが身を貫いた。
【義守】
轟音があたりを圧し、地を揺らした。
酒呑童子と組み合った岩の上――力岩から噴煙が上がった。
屍どもの頭を踏みつけ、飛ぶように駆け上がり、酒呑童子の鍛えた剣を逆手に握り、岩の上に転がっていた蒼く光る鏡に突き立てる。
それは、音を立てて飛び散り、消滅した。
さらにわずかに蒼い光を放っている玉を破壊する。
一拍置いて、屍どもが次々に崩れ落ちた。
斜面を転がり落ちた。
やがて辺りは静寂に包まれた。
雷光も二度と瞬くことはなかった。
岩の端に立ち、手を広げ、眼下の武士どもに合図をした。
すべてが終わった、弓は射るな、と。
――と、空が、きしんだ音をたてた。
いや、空が音をたてているのではない。
常世に出られなくなった悪霊や物の怪たちが騒いでいるのだ。
横になった姫の胸もとから伸びた白く光る糸が波打ちながら裂け目にまで届いている。
その光る糸が、裂けた個所をかがるように縫い合わせていく。
それは、酒呑童子が法力で網を繕って見せた、その時の様子を思い出させた。
黄泉の国との裂け目が閉じられようとしていた。
それを阻止しようと光る糸に触れた悪霊どもは、弾けるように消滅していった。
都城、上空に達し、洛中に降りようとした悪霊や物の怪どもは、見えない何かに跳ね返され宙を舞い、透けるように姿を消していく。
宮廷陰陽師どもが動き出したのだろう。
それを横目に祭壇に駆け上がった。
厚み七尺、幅、奥行き二丈はあろう大岩が祭壇を覆っていた。
その隙間から赤い血が、ゆるりゆるりと流れ出ていた。
毛むくじゃらの大きな手だけがのぞいていた。
――おまえに知らせてやることができなかった。
おまえの母は、おまえをくるんだ産着の切れ端を守袋にして、肌身離さず身に着けていたのだと。
おばばに知らせてやることもできなくなった。
おまえの子は生きている、と。
おれは、後悔している。
おれが正体を明かせば、おまえは本音を語ってくれたのではないかと。
例え運命は変わらずとも、お前の孤独を癒すことが出来たのではないかと――それが、ほんのわずかであったとしても。