9話 ……私が✕✕なんですっ
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響は綾瀬に言われ、顔を洗うためトイレに向かった。
トイレは店内の死角にある通路の先だ。手前が男女別の客用、その奥が従業員用に別れている。誰もいない狭い通路の奥に進み、響はトイレのドアノブに手を当てた。
「響先輩っ」
響の手が止まった。
振り向けば通路の手前で祈鈴が立っていた。
「九重さん?」
「祈鈴ですよ、響先輩」
祈鈴は足早で響に近づく。
「え?」
「私のことは下の名前で呼んでくださいとお願いしたはずです」
祈鈴の真剣な眼差しが響の虚ろな眼差しを捕らえる。まるで逃がさないと言っているような力強い眼光だ。
「えっと、祈鈴……さん?」
「はい。響先輩っ」
祈鈴は屈託のない笑顔で返事した。
その瞬間、響の胸の中でくすぶっていた感覚が霧消した。響はたった一度の祈鈴の笑顔だけで蝕んでいた気持ちが癒されてしまったのだ。
――かなわないなぁ。
響は心の中で呟いた。
「どうして何も聞いてくれないんですか?」
祈鈴が肩で息をしながら訊ねた。おそらく、響がトイレに向かうのを見て、急いで駆けつけてきたのだろう。
「聞くって、なにをかな?」
「私と綿貫さんのことです」
「……祈鈴さんの家庭教師なんだよね?」
「はい。綿貫さんは私の家庭教師であって、それ以上の関係ではありません」
「そうなんだね」
響の薄い反応を見て、祈鈴は不満げに頬を膨らませる。
「響先輩は気にならないんですか?」
「気になるって、僕が? どうして?」
祈鈴はさらに頬を膨らませた。
「私は気になります。響先輩が勘違いしてるんじゃないかって」
「う~ん、勘違いって言われてもねぇ」
嘘だった。響は見事なくらい二人が特別な関係だと思い込んでしまっていた。だから妙に胸がざわついていたのだ。けれど、響はそれを顔に出さず、逆にちょっと意地悪な質問で返した。
「今日はお姉さんと一緒にお出かけじゃなかったの?」
祈鈴がぎくりとする。目が泳いでいるようにも見える。
「……途中まで一緒でした。でも、ちょっと喧嘩してしまいまして……」
バツが悪そうに、祈鈴は両手の指で遊び始めた。
「喧嘩? 祈鈴さんが? あまり想像つかないな」
「ただの口ゲンカですよ。お姉ちゃんが私の相手をしてくれないので、つい」
「やっぱり想像つかないかな」
逆に見てみたい気もする。
「その後、綿貫さんに食事を誘われて、お姉ちゃんとは別れました。あ、でも勘違いしないでください。綿貫さんとは本当にそういう関係ではないんですっ」
祈鈴が全身で否定する。表情も必死だ。
「綿貫さんは父が取引している会社の社長のご子息で、以前、父の会社のパーティで紹介されたんです。そのとき、中学生だった私は星ヶ丘学園の受験を控えてまして、ならば家庭教師にどうかと綿貫さんが申し出てくれたんです。それから週に2、3日程度ですが、私の家庭教師をしていただけるようになって、本当にそれだけなんです」
「うん。それは分かったけど……。でも別にわざわざ僕に説明しなくてもいいんじゃないかな。祈鈴さんにだっていろいろと家庭の事情があるんだし、僕は詮索つもりないよ」
すると、祈鈴はふて腐れた顔で口を尖らせた。
「響先輩はなにも分かっていません。……私が嫌なんですっ」
「嫌って言われてもねぇ」
イヤと突っぱねる祈鈴の態度は、響を困らせるばかりだ。
「僕は祈鈴さんを信じるよって言えばいいのかな?」
「……響先輩は本当にいじわるです。メガいじわるです」
「メガいじわるって……そういうつもりじゃないんだけどなぁ」
祈鈴が俯く。
そっと手が伸びて、響の袖をちょこんとつまんだ。
「……今日の私の姿、どうですか?」
「え?」
「響先輩に見せようと思って、お気に入りのワンピース着たんですよ?」
顔は見えないが、耳は真っ赤になっていた。
「……なにか言ってくれませんか?」
そのいじらしさに響の胸がキュンとなる。さすがに今のセリフは効果的だった。
桜色のパステルカラーのワンピース姿。LINEに届いた画像よりも何倍も可愛らしく、実のところ響はまともに見れずにいた。
「……とても似合ってると思うよ」
「それだけですか?」
祈鈴が響の袖を催促するように引っ張る。
響は観念して、ぼそぼそと呟いた。
「……すごく可愛いかな」
祈鈴が顔を上げ、相好を崩す。
「ありがとうございます、響先輩っ」
「――っ」
響は思わず顔を逸らした。
きっと今の自分はとんでもなく顔を真っ赤にしているはずだ。
――ほんと、かなわないなぁ。
心から両手を上げたくなる響だった。
「そう言えば、さっきテーブルの上で手を握ってたよね」
気が緩んでいたからか、自然と口から出てしまった。
「み、見てたんですか?」
「見てたというか、見たというか、うん、そうだね」
祈鈴は金魚みたいに口をパクパクさせていた。かなり動揺している様子だ。
「……あ、あれは私の本意ではありません」
喉から絞り出すような声だった。
その表情はなにやら深刻そうだ。
「なにかあったの?」
祈鈴は思いつめた様子で俯くと、気を落ち着かせるように深呼吸を数回した。
指が袖から離れる。一歩後ろに下がり、祈鈴は顔を上げた。
「響先輩、お願いがあります。私に協力していただけませんか?」
「――協力?」
祈鈴は頷く。
「……実は綿貫さんにとても気に入られているようでして、お会いしたときから何度もデートや食事のお誘いを受けているんです」
「どれくらいの頻度なの?」
「……毎日です」
「毎日⁉」
響は面食らった。
「もちろん、全部のお誘いを受けているわけではありませんが、それでも週の半分くらいは……。お断りしたいんですが、父の手前、なかなか言い出せなくて……。メールもとにかく多いんです」
「もしかしてつき纏われてるの?」
「あ、いえ、私がはっきりと言わないのがいけないので。ただ、それだけじゃないんです」
祈鈴はフロアのほうを振り返る。その目は何かを警戒しているようだ。問題ないと判断したのか、祈鈴は再び響の顔を見上げた。
「――いつも見られている気がするんです」
聞き捨てならない言葉だった。
「送られてくるメールや話してるときの会話の内容に、私しか知らないはずのことまで出てくるんです。まるでずっと私のことを見ていたかのように」
「お父さんか誰かに相談しなかったの?」
「いいえ。私の気のせいかもしれないですし、実際に見られているところを目撃したわけではありませんから」
それでも事実なら綿貫が祈鈴にしている行為はストーカーと変わらない。
「それに綿貫さんは私と付き合ってると思っているようです」
「は?」
「私はそのつもりありませんし、綿貫さんからそう言われたこともありません。でも、父から聞いたんですが、どうやら私と綿貫さんは結婚を前提に付き合ってることになってるらしくて。どうしたら話がそこまで進んでいるのか私にはまったく身に覚えがありません。ただ綿貫さんは私にとても優しくて、だから疑うこともできず、今までどうしたらいいのか分からなかったんです」
事態は響が思っていた以上に深刻だった。
学園でも毎日のように告白を受けるほどの美貌を持つ祈鈴だ。当然、こういった輩が現れる可能性も十分に考えられた。むしろ今までそういったことがなかったほうが不思議なくらいだ。
「事情は分かったよ。それで僕は何をすればいいのかな?」
すると、祈鈴はほんのり頬を赤らめながら、その言葉を待っていたかのように微笑んだ。
「はい。私と恋人のフリをしていただけませんか?」
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