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21話 執事宮古香澄の憂鬱

よろしくお願いします。



「いってきます。宮古みやこさん」

「いってらっしゃいませ。祈鈴いのりお嬢様」


 車に乗る祈鈴を見送ると、宮古は屋敷へと戻った。

 屋敷の中は薄暗く物静かで伽藍がらんとしている。

 人前では決してポーカーフェイスを崩さない宮古の口からため息がこぼれた。


 果たしてこれで良かったのか。そんな疑問が宮古の脳裏をよぎった。


 宮古は祈鈴の決意を聞いて、心中複雑な思いだった。

 祈鈴が“他人”を求めることなど一度だってなかった。祈鈴を幼いころから見てきた宮古でさえ、あんな少女のように話す祈鈴の顔を見たことがない。

 あれは恋なのだろうか。いや、恋であって欲しい。宮古はそう願う。


 これが恋ならば自分は心から応援できる。

 この恋が成就したなら心から祝福できる。


 でも恋じゃなかったら……。


 宮古は胸騒ぎを覚えた。


 九重祈鈴ここのえいのりはその類稀なる才能から必然と周囲の期待を集め、彼女の未来じんせいは彼女一人のものでなくなった。

 ちやほやされても、それは祈鈴にとってプレッシャーにしかならない。

 羨望や憧れをもたれても、それは祈鈴にとってなんら役にも立たない。

 世間体だけの付き合い。上辺だけの交友関係。お決まりの社交辞令。当たり前の孤独を抱えながら、祈鈴は決められた未来レールを歩いてきた。

 祈鈴に他人は必要ない。宮古も所詮は祈鈴の影にすぎない。この先、宮古が祈鈴の隣に立つことは決してないのだ。


 宮古はこの胸騒ぎの正体を知っている。


 ――音倉響おとくらひびき


 彼の名前を聞いたとき、なにかが引っかかった。

 過去にどこかでその名前を聞いた気がしたのだ。

 ……嫌な予感がする。彼の素性を調べ、その予感は的中した。


 まさか、あのときの少年だったなんて……。


 なんと皮肉な運命だろうか、それとも神の悪戯いたずらか。

 宮古は開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのだ。

 この事実だけは秘密にしなくては。例え祈鈴を裏切る行為だとしても、死ぬまで隠し通さねばならない。祈鈴を思うからこそだ。

 音倉響という少年は、とりわけ目立つわけでも魅力があるわけでもない。外見も中身もぱっとせず、人間性だけ見れば空気のように無害に等しい。

 どうして祈鈴がこれほど彼に執着するのか、宮古には理解できなかった。


 もしこれが恋ならば、まだ望みがある。

 もしこの秘密を知られなければ、まだ救いがある。

 けれど、祈鈴が彼を諦めてくれたら、まだ引き返せる。


 ――今日、響先輩に私の気持ちを伝えるわ。


 祈鈴の願いは叶って欲しい。そのために宮古は裏でいろいろと手を回してきた。

 それでも宮古の胸騒ぎは拭えない。

 音倉響は一度、祈鈴の誘いを断っている。これで彼が祈鈴の気持ちに応えなかったら、宮古は人道から外れた手段を使ってでも彼を手に入れなければならなくなる。

 身体はとっくに重く汚れきっている。今さら一度や二度、自分の手を汚してもその重さは変わらない。


 音倉響を何としてでも手に入れなければ……。

 祈鈴の幸せのためにも……。


 宮古は唇をぎりっと噛み締めた。




「あら、宮古さん。私を出迎えに来てくれたんじゃないの?」




 心臓が跳ね上がった。

 ぞわぞわと鳥肌が立ち、全身が硬直する。

 反射的に防衛本能が働いた。

 その感情のない声で話す人物を、宮古は知る限り一人しかいない。


「……奥様。お帰りなさいませ」


 宮古は必死に動揺かんじょうを抑え込みながら、極めて冷静に頭を下げた。


「ただいま。宮古さん」


 玄関口に立つ見目麗しい女性がにこりと薄笑みを浮かべて言った。

 艶やかな漆黒の長い髪、高級なスーツを着こなす妖艶な体躯、全身から漂う品格は誰の目から見ても別格で、周囲の空気を歪めるほど異質な存在を放っていた。

 恐ろしく整った顔立ちはどこか祈鈴を思わせるが、本来は祈鈴が彼女の美貌を受け継いだものだ。

 宮古は女性の薄笑みを見て、背筋に悪寒が走った。彼女の前では身体は正直になってしまう。そう身体が覚えているからだ。


「半年ぶりの再会だからって、そんなに緊張しなくていいわよ。少し時間がとれたから、久しぶりに娘の顔でも見ようと思って来たんだけど、あの子は?」

「祈鈴お嬢様はつい先程、学校に行かれました」


 女性の顔から薄笑みがすうっと消える。


「ふぅん。母親に挨拶しないで学校に行くなんて、相変わらずなってないわね。ちゃんとしつけしておいてくれるかしら?」

「……申し訳ございません」

「宮古さん。私は()()()って言ったのよ。謝ってなんて一言も言ってないわ」


「……かしこまりました」


「うんうん。で?」

「祈鈴お嬢様が学校から戻られましたら、……し、躾しておきます」

「ええ、お願い。なんだったら裸にして外に放り出して、一週間食事抜きにしちゃってもいいわ」

「え……? でも、さすがにそれは……」

「そうしましょう。ね、宮古さんっ」


 祈鈴に落ち度がないのは明白だ。

 今日、祈鈴の母親が訪れたのは彼女の気まぐれであり、祈鈴はもちろんのこと宮古も知らされていなかった。

 それでも反論は許されない。彼女に対して反論はおろか意見さえしてはならないと、身体に深く教え込まれているからだ。


「あら? 返事はどうしたの?」


 感情の読めない面持ちが宮古に問いかける。

 逸らしたくても、そのいびつな眼差しから逸らせない。

 彼女の前では宮古の意思など関係ない。ただ服従するしかなった。

 宮古は震える唇で、耐えがたい言葉を口にした。


「か、かしこまりました。裸にして外に放り出し、一週間食事抜きにします」


 すると、女性はあははと愉しそうに嗤った。


「冗談よ、躾なんて犬なんかじゃあるまいし。本当に宮古さんは面白い人ね」

「……恐れ入ります」


 空気がやわらぐ。

 宮古は血の気が引く思いだった。


「どうなの、あの子の様子は?」

「祈鈴お嬢様にお変わりはありません」

()()()()()、ねぇ。まあ、いいわ」


 そう話す母親の目に娘への関心は微塵も感じられない。

 半年前に彼女に会ったときも同じ質問をされ、同じ反応だったのを宮古は記憶している。彼女にとって祈鈴の存在などその程度なのだ。


「ところで……」


 女性の顔が心底嫌そうに歪む。


「あの()()()()()はどうしてる?」


 出来損ない、そう呼ばれて宮古の胸がズキンと痛んだ。


「私は存じておりません」

「意外ね。てっきり宮古さんなら知ってるのかと思ったんだけど」

「申し訳ございません。すぐにお調べします」

「必要ないわ。あれはすでに九重ここのえ家とは関係ないんだもの。どこでどうなっていようと放っておけばいい」


 歪んでいた女性の顔がにこりと薄笑みに戻る。


「さて、宮古さんにも会えたことだし、私はそろそろ帰ろうかしら」

「祈鈴お嬢様にはお会いにならないのですか?」


 無意識だった。

 祈鈴を思うがあまり、宮古は決して口にしてはならない質問を、しかも絶対にしてはならない相手にしてしまった。


「え?」


 女性はきょとんとした顔で宮古を覗き見る。


「え? 宮古さん、今なんて言ったのかしら?」


 宮古の身体が凍りつく。

 全身から汗が吹き出す。


「も、申し訳ございません。失言しました」


 宮古は床につける勢いで頭を下げた。


「頭を上げなさい。私はなんて言ったのかって聞いたのよ?」


 声に感情がない。宮古はおそるおそる顔を上げた。

 うっすらと三日月状に口角が歪む顔を目の前にして、宮古の危険信号は高らかに鳴り響いた。

 ここで間違えたら自分は死ななければならない、そう思えるほどの覚悟が必要だった。


「い、祈鈴お嬢様にはお会いになられないのかとお聞きしました」

「やっぱりっ」


 女性は両手でぱちんと叩く。


「宮古さんがなんでそんなこと言ったのか、正直分からなかったわ。ねえ、宮古さん。どうして私が()()()()()()()()()()()会わなくちゃいけないの?」

「そ、それは……」

「だって、あの子、私のこと嫌ってるでしょ?」

「祈鈴お嬢様は奥様のことを誰よりもお慕いしております。決してそのようなことは……」

「そうね。あの子が私を嫌うどころか逆らうなんてありえないもの。……私がそう育てたんだから」


 女性は足音を立てずに、ゆっくりと宮古に近づく。

 宮古の肩に手を置き、耳元で囁く声で言った。


「私があの子を嫌いなのよ。顔を見るだけで虫唾が走るくらいに。あの子のことは宮古さんに任せるわ。だから……」


 肩の手に力が入る。宮古はびくっとなった。


「二度と私にそんな口を利いちゃダメよ?」


「は、はい」


「あなたの役目はあの子の監視よ。二人で何かしてるようだけど、二年前のようなことは起こさないでちょうだいね。次に九重家の名前に泥を塗る様な真似をしたらどうなるか。あの出来損ないに仕えてたあなたならよく分かってるでしょ?」

「き、胆に銘じておきます……」


 がたがたと震える宮古の姿を見て、女性は薄笑みを戻した。


「これでもあなたには期待してるんだから。失望だけはさせないでね」


 女性は宮古から離れると、踵を返した。


「じゃあね、宮古さん」


 去っていく女性の後ろ姿が視界から消えると、宮古は緊張が解けてその場に膝から倒れ込み、四つん這いになった。

 全身汗だらけで、身体の震えが止まらない。呼吸さえままならないほどだ。

 彼女との会話はそれほどまでに宮古を怯えさせた。


 意識が朦朧もうろうとする。やがて宮古は立ち上がり、ふらふらになりながらその部屋へと歩きだす。

 たどり着くと、宮古は震える手でその部屋の扉に触れた。


 鍵がかかっている。


 もう随分とこの扉は開かれていない。

 かつて宮古はこの先に何度も足を踏み入れた。今でも目を閉じれば、中の光景が鮮明に浮かんでくる。宮古にとって希望の光だった。


 ――香澄かすみさん。


 宮古の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 それは幻聴だと宮古の記憶が理解している。

 叶うならもう一度、この耳で彼女の声が聞きたかった。

 けれど、宮古はその資格を自分から失ってしまった。


 この部屋を使っていた美しいあるじは、もうここにいない。

 彼女が心から仕えていた優しい主は、もうどこにもいない。


 ――祈鈴のこと、よろしくね。


 別れ際に告げた最後の願いは、今も耳から離れることはない。

 宮古はそっと目を閉じ、誰にも聞かれることなくその名前をつぶやいた。




希海のぞみお嬢様……」





読んでいただきありがとうございます。


シリアス回続きですみません。

次回は19話の続きからになります。


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