20話 九重祈鈴の憂鬱
お待たせしてすみません。
よろしくお願いします。
少し時間は遡る。
その朝、九重祈鈴は憂鬱な気分だった。
原因は言うまでもなく、音倉響だ。
寝不足で目覚め悪く、食欲がわいてこない。
ぼうっとした頭に浮かんでくるのは響のことばかりだ。
「はあ……」
広々としたベランダで肘付きアームチェアに座り、小さなため息をこぼす。
その表情は恋に恋する乙女のようであり、恋を患う少女漫画のヒロインのようでもあった。
「どうぞ、祈鈴お嬢様」
傍らに立つスーツ姿の宮古がカップに紅茶を注ぎ、丸いテーブルに置いた。
「ありがとう」
祈鈴はカップを手に取り、紅茶の表面をぼんやりと眺める。心あらずな様子だ。
「宮古さん……」
「はい」
「……私、決めたわ」
「はい」
宮古は余計な質問はせず、ただ返事する。
「今日、響先輩に私の気持ちを伝えるわ」
「……はい」
「響先輩が言ってくれた言葉がどうしても忘れられなくて、思い出すだけで胸が苦しくなるの」
――彼女は人形なんかじゃありません。一人の普通の女の子です。
祈鈴の胸がきゅっと締めつけられる。
「あれから、どうして響先輩が私を受け入れてくれなかったのか、ずっと考えてたわ。宮古さんに言われたことも考えてみた。……うん。私、どこかで響先輩は私の気持ちを受け入れてくれるんじゃないかって響先輩の優しさに安心してたんだと思う。だから……」
祈鈴は自分を戒めるように口角を歪めた。
「私は気が付かないうちに自分の気持ちを伝えることに臆病になっていたのね……」
両手の中にあるカップをそっと口に運ぶ。
甘い香りが鼻腔に漂う。口の中をほんのり苦みと渋みが伝わり、それらを打ち消すようにはちみつの甘みが広がった。
「カモミールティーか。懐かしい。小さいころ眠れないときに母が淹れてくれたの覚えてるわ。最初、苦くて飲めなかったから母がはちみつをいっぱい入れてくれたのよね」
祈鈴はカップをテーブルに戻した。
「甘くてとても美味しかった」
「……」
「でも、本当はあの味が好きじゃなかった。あのとき、母にそのことを言えてたら、どれほど良かったんだろう」
「それで、響様にお気持ちを伝えるのですね」
「うん。今度こそ間違えたりしない。私の本当の気持ちを響先輩に伝えるわ」
と、決意を口にする祈鈴の表情に躊躇いや不安は見られない。
では、どうして九重祈鈴は憂鬱なのか。
綿貫の件で響に迷惑をかけたからか?
響がバイトをクビになったことは祈鈴の耳にも当然、届いている。
響と出会ってから、響に何度も迷惑をかけて後ろめたさを感じているからか?
――否。
表向きの事実が得てして真実とは限らない。
少なくとも彼女にとってはそうだ。
九重祈鈴という少女は自信にあふれ、負けることを嫌い、なによりもプライドが高い、そんな人間でなければいけなかった。
それは彼女が九重家に生まれたが故の宿命であり、彼女の生い立ち、育てられ方に大きく起因している。でなければ、自我を保てなかったからだ。
彼女は両親から受け継いだ優れた才能を自覚している。自分の存在意義が記号のようにしか感じられないこともだ。
彼女は嘘で作られた自分を嘘で塗り固めることで自我を保とうとした。
その結果、いつしか祈鈴は九重祈鈴自身を見てくれる相手だけを望むようになった。
――求めるようになった。
響との邂逅は祈鈴にとって大きな事件だった。
勘違いだったとは言え、祈鈴は響の前で恥をかいた。響には取るに足らないことでも、祈鈴にとっては醜態をさらしたに等しいことだった。
しかも、響は祈鈴のことを名前しか知らず、さほど興味を持っていない様子だった。
正直、屈辱的だった。
祈鈴はちょっとだけ響に意地悪をしたくなった。
――響が祈鈴に告白してフラれた噂を流したのは、他でもない祈鈴本人だった。
宮古を使い、噂の出元を気づかれることなく広めていったのだ。宮古にしてみれば、それくらいの情報拡散は造作もなかった。
でなければ、たった一日やそこらで噂が学校中に広まるはずがない。
祈鈴は自らを貶めるような噂を流し、あたかも自分が原因で響に迷惑をかけたかのように謝罪することで響より優位に立とうとしたのだ。
宮古に音倉響の人なりを調べさせた。愛想はないが、誰にでも分け隔てなく接し、誰にでも優しく、彼の悪口を言う生徒はいなかった。
音倉響ならきっと許してくれる。
音倉響ならきっと気にかけてくれる。
音倉響の関心が自分に向く。
さらに他の男子と同じように好意を持ってくれたら、それこそ願ったり叶ったりだった。
しかし、響の反応は祈鈴の期待を大きく裏切った。
――君は外見すごく大人びて見えるけど、中身は普通の女の子なんだよ。
その一言は、祈鈴の心にノックなしに入り込んだ。
本当の自分でいることを諦めていた彼女に、一縷の望みを与えた。
どうしよう、すごく嬉しい。
こんな出会いはもう二度と訪れないかもしれない。
いやだ。手放したくない。
もっと彼と話したい。
もっと彼を知りたい。
もっと彼と一緒にいたい。
私を、本当の私を見てくれる彼を。
どうしたいの、
――私は?
祈鈴は少しでも響との関係を続けようと、学校の誰ともしなかったLINEの交換を自分からお願いした。相談したいからと言ったのは口実にすぎない。
お気に入りのパステルカラーのワンピース姿を、どうしても見せたくなった。
響がファミレスのバイトをしていることを知り、響のバイトの時間を見計らってファミレスに訪れた。綿貫を誘ったのは、もちろん響の気を惹かせるためだ。
綿貫をストーカーにして響に恋人のフリを頼んだのも、響のバイト先に綿貫の父親を仕向けたのも、すべては響を求めるあまりの行動だった。
響に恋人のフリを続けることを断られたのは予想外だった。
けれど、宮古の言うように、何事にもイレギュラーはつきものだ。
あのときは失敗したが、今度は絶対に失敗しない。
すべてシナリオ通り、事は順調に進んでいる。
あとは祈鈴が響に嘘偽りのない本当の気持ちを伝えれば、きっと響はその想いに応えてくれるはずだ。
「響先輩……」
祈鈴は無邪気な子供のように、満面の笑みを浮かべた。
九重祈鈴が憂鬱な原因。
それは音倉響の存在にある。
響を求めた時点で九重祈鈴という少女は人間でなくなってしまうことに、彼女はまだ気づいていない。
響が彼女を求めたなら話は違った。
祈鈴が自分を偽ったままなら話は違った。
祈鈴は実の姉に犯した過ちを再び繰り返そうとしている。
宮古も祈鈴に心酔するあまり、彼女のちょっとした異変に気づけなかった。
やがて彼女らは知ることになる。
シナリオを狂わす存在がすでに響の傍にいることを。
そして祈鈴の決意がすでに間違いの始まりだったことを。
このときは知る由もなかった。
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