18話 ✕✕してください
よろしくお願いします。
それは朝の何気ないやり取りから始まった。
「起きてください、希海さん」
「ん…………もう5分……」
「ダメです。学校に遅れますよ」
「もう5分だけ……」
「ダメです。起きてください」
響はベッドで心地よさそうに眠る希海の身体を揺さぶった。
起きる気配を見せない希海。響はため息をつく。
「……じゃあ、強制手段でフトンひき剥がしますよ? 起きなかったらひん剥いてでも起こしてくれって頼んだの、希海さんですからね?」
「ご自由に……。ふにゃむにゃ」
「はあ……。なら遠慮しませんから。いきますよ、えいっ」
響はフトンを勢いよく捲り上げた。
白のTシャツに黒のパンツ姿の希海がぶるっと震え、もぞもぞと蹲る。
「……寒い」
「そんな格好して寝てるからです。朝食もできてます、起きてください」
「響くんの鬼……」
目をこすりながら希海がゆっくりと起き出す。
栗色のセミロングの髪のあちこちに寝癖が残り、顔はぼんやりしたままだ。
「あれ……」
希海が首を傾げる。
「どうして響くんが私の部屋にいるの?」
「昨日、希海さんが合鍵を渡してくれたからでしょ」
「合鍵……? あ……」
希海の頭が働き始めたのか、思い出した顔をする。
「そっか。響くん、私の主夫になってくれたんだっけ」
「雇われ主夫ですけどね。さあ、起きてください」
「そっかそっか。……んじゃ、記念にあと5分」
と、希海がベッドにふにゃりと倒れ込む。
「二度寝してどうするんですか」
「それなら、主夫らしく起こしてもらおっかなぁ」
目を閉じ、唇をんんっと突き出す希海。
「なんの真似ですか、それ」
「わかんない? おはようのキスだよ~。さあはやくぅ」
「しません。怒りますよ?」
「もう……、響くんのいけずぅ~」
「契約外の仕事はお断りします」
ようやく観念した希海は再び上体を起こすと、響に両手を差し伸べた。
「響く~ん、なら手ぇ貸して~」
「……仕方ないなぁ」
呆れ気味に響が希海を起き上がらせようとすると、希海が響の胸に抱きついてきた。
「ちょ、なにしてるんですか」
「えへへへ。響くん、あったかぁい。おフトンみた~い」
両腕を響の背中に回し、ぎゅうっと密着する希海。
響の胸にむにゅりと極上に柔らかい感触が伝わってきた。
これは明らかにノーブラ、の感触だった。
「は、離れてください、希海さん。その、あたって」
「ん~? あたってるって、なにがあたってるのかなぁ~?」
希海が語尾を伸ばし呑気にたずねる。
「もしかして響くん、朝から私にムラムラしちゃってる、とかぁ?」
さらに面白半分にたずねる希海。
「ほらほぅら、お姉さんノーブラだよ。もっと感触味わっていいんだよ~」
遊び半分な声で響の視線を誘う。
――性懲りもなく、無防備な人だなぁ。
響はため息をこぼすと、希海をひっぺ剥がした。
「希海さんはもう少し自重してください。僕だって男なんですから、これ以上は責任持てませんよ?」
「ぶすぅ。反応がイマイチで面白くなぁい。ホント、響くんは高校生らしくないなぁ」
「これでもすごくドキドキしてるんですけどね」
ベッドから起き上がり、両腕いっぱいに背伸びをする希海。シャツに豊かな胸のラインがくっきりと浮かんで、響は思わず顔を逸らした。
カーテンが開かれ、眩しい朝の光が部屋に降り注がれる。
「んん~、いい天気。ねえ、響くん。お姉さんお願いがあるんだけど聞いてくれる?」
希海が子供っぽい笑みを見せて言う。そんな希海の考えを見透かしていたかのように、響はちょっとだけ嬉しそうに答えた。
「今朝は希海さんのためにあつ~いコーヒー淹れてありますよ」
***
リビングに寝起き姿のままで希海がやってくる。響は制服の姿だ。
テーブルに用意された朝食を見て、希海の動きが止まった。
「……これ、全部、響くんが作ったの?」
「はい。あ、嫌いなものありましたか?」
「そうじゃなくて……」
希海が並ぶ料理の数々を見て、驚きを隠せない様子だ。
「それとも朝から多すぎましたか?」
「そうじゃなくて、どの料理も美味しそうで、まるで料亭に出てきそうなものばかりなんだけど⁉」
「そ、そうですか? キッチンにあるもので作っただけの寄せ集めですが」
「いやいや、私にはあの食材だけで、こんな料理が作れることが驚きだよっ」
「そんなに褒めないでください。まだ希海さんの口に合うかどうか分からないんで」
「これ、絶対に美味しいに決まってるって」
希海が料理の一皿を箸でつまみ、一口味見する。
「むむっ!」
希海の目が大きく見開く。
「……口に合いませんでしたか?」
響が心配げにたずねると、希海の顔がだらしないくらいにほわわ~と崩れた。
「め、め、めちゃくちゃおいしいっ! 響くん、すっごく美味しいよ!」
と、他にも並ぶ料理を味見していく。
「こ、これも、それも、あれも、どれも美味しい、美味しすぎるっ!」
希海の箸が止まらない。
ぱくぱくと料理が口の中に運ばれていく。
「響くん、これ料理ができるレベルじゃないよ! なんでこんなに料理が上手なの⁉」
あまりの褒め言葉に、響は照れを隠すように頬を指で掻きながら答えた。
「えっと、幼い頃に母親に教えられたと言いますか、叩きこまれたものでして……」
「ふごふご、なんか、ふごふご、美味しいのに、ふごふご、響くんが予想以上に料理ができて、ふごふご、複雑な気分だよ、ふごふご」
「食べるか喋るか、どっちかにしてください」
ごくんと飲み込み、口の中を空にした希海がさらに響を問い詰める。
「昨日だって、あんなに散らかってた部屋をあっという間に片付けちゃうんだもん。すっごく手際良かったし、響くんの家事スキル尋常じゃないんだけど⁉」
「それも幼い頃に母親に教えられたと言いますか、叩きこまれたものでして……」
「響くんのお母さんって何者⁉」
「どこにでもいる、普通の母親です。ただ実家で旅館を経営してますので、女将を務めてますが」
「ええっ! 響くんの実家って旅館なの? どこのなんて旅館?」
「しがないトコですよ。部屋数も少ないですし、古臭さだけが取り柄の旅館ですから」
「じゃあ、響くんはその旅館の跡取りになるわけだぁ。それで旅館を継ぐためにお母さんから家事をいろいろと教えられてたんだね」
「そんな大それたことじゃないです。それに跡取りは別にいますし……」
「別? 響くんにお兄さんかお姉さんがいるの?」
「……」
響は希海の問いに答えず、黙った。その面持ちはなんとも複雑だ。
「響くん? どうかしたの?」
「いえ。僕のことより、希海さん、のんびり話してていいんですか?」
時計の針を見ると、すでに8時を過ぎていた。
「いけない、急がないと!」
慌てて食べる希海。響は壁に立てかけていたカバンを手に持った。
「僕はそろそろ行きますね」
「ふえ? 響くんは食べていかないの?」
「もう食べました。それに希海さんに付き合ってたら、僕のほうが学校に遅れちゃいます」
「自分の部屋で食べたの? ひとりで?」
「そうですが?」
「……」
そのとき、希海の脳裏にあの時の記憶が水面に広がる波紋のように蘇った。
「……ねえ、響くん。だったら――」
希海はその続きを言いかけたところで、口にするのを思い止まった。
「だったら、なんですか?」
「……ううん、なんでもない」
希海は頭を振った。響は首を傾げる。
――だったら、一緒に暮らさない?
どうしてそう言いそうになったのか、希海自身分からなかった。
それだけは口にしてはいけない。何故なら、それは希海がこの世でもっとも口にしたくない呪いのような言葉だったからだ。
「今日の晩ご飯もよろしくね」
「わかってます。帰りは何時くらいですか?」
「講義終わったらまっすぐ帰るから、5時くらいかな」
「冷蔵庫も底つきそうなので、買い物行ってきてもいいですか?」
「あ、なら一緒に行こっ。いいよね?」
「僕は構いませんが」
「ふふふ~。なんだか新婚さんみたいだね~、私たち」
「はいはい、そうですね。じゃあ、僕は行きますので、食べたら食器は水につけて流しに置いておいてください」
「も~、響くんドライすぎるぅ~」
希海の冗談を軽く受け流し、響はリビングのドアを開けた。
「そうだ、響くん」
希海が呼び止める。響は振り向いた。
「まだ他に何かあるんですか?」
すると、希海がにこりと微笑み、手を振りながら言った。
「いってらっしゃい」
「……」
響は胸の奥がむず痒くなった。
照れでも、恥ずかしさでもない、妙に温かい感情に包まれ、なんだか変な気分になった。
「……いってきます」
ぽつりと呟くように返すと、響はドアを閉め、学校に向かった。
それはいつもと変わらない朝、いつもと同じ通学路。けれど、今日の響の心はいつもより軽く、ほんの少しだけ弾んでいたことに響は気づいていなかった。
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