11話 今から私と✕✕しませんか?
よろしくお願いします。
時刻は夜の7時半すぎ――。
響は綾瀬に説教でこってり絞られるかと思いきや、事情を説明すると逆に褒められてしまった。
「君が一皮むけて喜ばしい限りじゃないか。一部始終見てたがカッコよかったぞ、響くん。あっはっはっはっ」
と、愉快そうに笑って響の背中を叩いてきたほどだ。
どうやらお咎めはないらしい。綾瀬のギロ目で店長も口を出せずに空気化している。相変わらずこの店の権限は綾瀬が掌握しているようだ。
「――お疲れ様でした」
バイトを終え、響が裏口から出ると、外は夜の暗さになっていた。駐車場を照らすのは店内の明かりと外灯くらいだ。
「響先輩」
響は呼ぶ声に反応して振り返る。
祈鈴が立っていた。約束どおり響のバイトが終わるまで待っていたようだ。
「ごめん、ずいぶん待たせちゃったかな」
「いいえ、私から言い出したことですし、むしろ響先輩の時間をいただいてすみません」
「僕は構わないよ。別にこの後、なにか予定があるわけでもないからね」
「……お店の人から何か言われましたか?」
心配顔で祈鈴が訊ねる。
「注意はされたけど、むしろ喜ばれたくらいかな?」
「喜ばれたんですか?」
「まあ、それも気にしなくていいから」
祈鈴はいつの間にかワンピースの上にスーツのジャケットを羽織っていた。おそらくその持ち主は祈鈴が迎えに呼んだ若い女性のものだろう。
響たちから少し離れた外灯の下で、スーツ姿の女性が佇んでいるのが見えた。
年は二十代前半くらいか。長い黒髪に端正な顔立ちは中性的で凛々しい。スレンダーな体躯に、背丈は祈鈴よりも高そうだ。
髪型が似ているからか、祈鈴とどことなく同じ雰囲気を感じて、響は彼女が祈鈴の姉ではないかと思っていた。
「響先輩、本当にありがとうございました」
祈鈴が頭を下げる。これで彼女に頭を下げられるのは何度目だろうか。
姿勢を戻すと、祈鈴の表情はにっこりと微笑んでいた。
「僕は礼を言われるほど何かしたわけじゃないよ」
「そんなことありません。響先輩がいてくれなければ、私はきっと綿貫さんに本心を伝えることができませんでした。響先輩が私に勇気を与えてくれたんです」
「それでも頑張ったのは祈鈴さんだよ」
すると、祈鈴が眉根を寄せて、響に言い寄る。
「響先輩、そこは素直に感謝を受けとっておくべきですよ?」
響からすれば、祈鈴を助けたのは他でもなく祈鈴自身だと思っている。少しばかり口を挟みはしたが、それだけで祈鈴を助けたと思うほど響は自惚れていない。しかし、祈鈴は響のそんな態度がどうもお気に召さないらしい。
「そこで響先輩。今から私とデートしませんか?」
「え? どうしてそうなるの?」
さすがにそれは予測してなかったと、響は聞き返す。
祈鈴がこほんと咳を払い、人差し指をかざす。
「響先輩、私たちは恋人のフリをしているんですよ? 土曜の夜にデートするくらい普通ですよね?」
「恋人のフリって、もう続ける必要はないんじゃないかな?」
「いいえ。むしろこれからが必要なんです!」
祈鈴がぐいっと身体を近づけてきた。響は半歩後ろに下がる。
「以前、響先輩が教えてくれましたよね。好きな人がいるって臭わせておけば、告白の抑制になるかもって」
「そんなこと言ったかな」
「言いました。ですから、響先輩と付き合ってることにすれば全部解決しますよね?」
「う~ん、ちょっと飛躍しすぎてる気もするかなぁ」
「響先輩は私と恋人のフリをするのが迷惑ですか?」
「迷惑ってわけじゃないけど、祈鈴さんと付き合うってことになったら、いろいろと噂の的になっちゃうよ? 祈鈴さんはそれでいいの?」
「私は構いません。いえ、その方が好都合です!」
祈鈴がぐいっと顔を近づけてきた。響は一歩後ろに下がる。
「……それとも響先輩には今、好きな人がいるんですか?」
「いや、そういう相手はいないけど」
「なら問題ありませんよねっ」
祈鈴の勢いに押され、たじろぐ響。
――こんなにぐいぐい攻めてくる子だったかなぁ。
「自分で言うのもあれだけど、僕なんかより祈鈴さんに相応しい人はいっぱいいるんじゃないかなぁ」
「響先輩がいいんですっ。だって響先輩だけが私のことを普通の女の子として見てくれて、とても嬉しかったんですよ」
「えっと、これって恋人のフリを続けるかどうかって話だよね?」
「響先輩が望むなら、私はフリでなくても構いませんよ」
「さすがにそれはどうかなぁ」
祈鈴の瞳が輝きに満ちている。どうやら本気のようだ。
響はどうしたものかと考える。
祈鈴は大きな誤解をしている。響は祈鈴のことを普通の女の子と言ったが、それは世間一般の話であって、決して祈鈴が特別じゃないと思っているわけではない。祈鈴の美貌を見て普通と言えるほど響の目は肥えていない。しかし、祈鈴の言動からはそれを嫌う節が感じられた。
祈鈴を助けるためと思って一時的に引き受けた恋人のフリだが、続けるとなると話は別だ。学園のアイドルと恋人ごっこができるのは悪い話でないし、いくら響でもここまで言われて祈鈴が響に好意を持っていることに気づかないほど鈍感ではない。
響の心の内がざわつく。
――兄様なんて、死んでしまえばいいのに。
響の脳裏に忌まわしい記憶がよみがえる。
――兄様が誰かと幸せになるなんて、私は絶対に認めないから。
きっと僕の妹は許してくれないはずだ。例えその関係が偽りだったとしても。
あの子は僕が幸せになることを誰よりも心の底から恨んでいるのだから……。
「――祈鈴さん」
「はいっ」
祈鈴が期待を胸に返事する。
けれど、響はそんな祈鈴の期待を裏切る言葉をゆっくりと告げた。
「ごめん」
***
ファミレスの道路沿いに、一台の黒塗りの高級車が止まっている。
スーツ姿の髪の長い女性が颯爽と現れ、後部座席のドアを開けた。
「どうぞ、祈鈴お嬢様」
「ありがとう、宮古さん」
祈鈴はにこりと微笑んで礼を言うと、後部座席に乗り込んだ。
車内は薄暗い。祈鈴は座席の端に座ると、窓から見える景色を眺めた。
裏通りは表通りに比べて並ぶ店が少ない。けれど、どこかしこも表通りに負けず劣らずの活気があって、賑わいを見せている。
車内は静かだ。先まで聞こえていた喧騒が嘘のように思えてしまう。
助手席のドアが開き、外の生暖かい風とともに喧騒が入り込んできたが、すぐに閉じられて車内はまた静寂に戻った。
歩道を歩く人らが通りすがりにこちらを見ているようだが、窓ガラスに加工を施しているため、外から祈鈴の姿を見ることはできない。
「今日はもうよろしいのですか?」
宮古と呼ばれる女性が助手席から振り返り、祈鈴に訊ねる。
「ええ」
祈鈴は宮古のほうを見ず、ガラスに映る自分の姿を見ながら答えた。そこには感情の乏しい表情を浮かべた少女が映っている。
「宮古さん、上着ありがとう。これ、返したほうがいい?」
「そのまま着ていてください。暖かくなったとは言え、夜はまだ冷えます。薄着のままではお身体によくありません」
「ありがとう。ならそうさせてもらうね」
祈鈴は宮古を見ずに言った。
宮古は運転席に座る専属の運転手に合図し、車を出させた。
沈黙がしばらく続く。
車は裏通りから表通りを抜け、市街地から離れていく。
「ねえ、宮古さん」
祈鈴が沈黙を破った。
「なんでしょうか、祈鈴お嬢様」
「……私ってそんなに魅力ないかな?」
ため息とともに言葉が吐かれる。
「祈鈴お嬢様は誰よりもお美しくて、誰よりも素晴らしい魅力を持っておられます。決してそのようなことはございません」
宮古はお世辞でなく、ただ事実だけを語る。
祈鈴もそれが宮古の本心だと分かっていた。
「なら、なにがいけなかったんだろう……」
祈鈴は再びため息をつく。まるで恋を患った少女がする、小さなため息だ。
「響様は受けてくださらなかったのですね」
「……うん。断られちゃった」
祈鈴は心底残念そうに呟く。
宮古も祈鈴の顔を見てそれは分かっていたことだ。
二人の様子を離れて見ていたため、二人の会話は聞こえなかった。もっとも宮古は二人の雰囲気を邪魔するような無粋な真似をするつもりは毛頭ない。
それでも宮古は祈鈴の願いは叶うと思っていた。少なくとも彼、音倉響と呼ばれる少年の目を見た限り、その可能性は十分にあった。
「私の見解では、響様は祈鈴お嬢様に特別な感情を抱いているように思います」
「事が性急すぎたのかしら。ううん、距離の詰め方が違ったのもしれないわね」
「それだけ祈鈴お嬢様のことを大切に考えられてるのでしょう」
「ええ。響先輩は他の方々とは違うもの。私のことをちゃんと見てくれているわ」
――彼女は人形なんかじゃありません。一人の普通の女の子です。
祈鈴は響の言葉を思い出す。自然と頬が熱くなった。
祈鈴はしばし黙考する。
「反対に押しが弱かったのかしら?」
「かもしれません」
「恋人繋ぎくらいしたほうがいいのかしら?」
「僭越ながら、私から一つアドバイスを申してもよろしいですか?」
「ええ、是非お願い」
「私としては手を握るよりも抱きついたほうがより効果的だと考えております」
「抱きつく? 抱擁ってこと?」
「はい。なんでしたら胸を強く押し付けるくらいが丁度良いかと」
「胸を押し付ける⁉」
祈鈴は目を丸くする。
「そうです。思春期真っ盛りの男なんて、異性の胸を押し当てれば大抵イチコロです。童貞ならむしろ効果的すぎるくらいです。祈鈴お嬢様の発育途中の胸は国宝、いえ世界遺産を遥かに上回る神の宝です。それを堪能して落ちない男などこの世界どこにもいません!」
後半、何故か鼻息を荒くしながら熱く語り出す宮古。
彼女が生粋の祈鈴フェチだということも祈鈴は知っている。
祈鈴はむむっと唸りながら真剣に考え込む。
「祈鈴お嬢様ならきっと上手くいきます。もしそれでもダメならば、私が響様を拉致して洗脳させてみせます」
「宮古さん……」
「はい、祈鈴お嬢様」
「……それは最終手段までとっておいてね」
「かしこまりました」
「……胸を押し付ける……ね」
むにっと両手で触れてみる。少し揉む感じで。あまり意識したことないが、きっと同年代の中で比べればあるほうだと祈鈴は思っている。
こんなので効果があるのかしら、と祈鈴は首を傾げるが、せっかくの宮古の助言を無下にするわけにもいかない。祈鈴は宮古の言葉を信じることにした。
「宮古さんの言うとおりかも。うん、次はそうしてみるわ」
祈鈴はにっこりと微笑んだ。その死角で宮古が小さくガッツポースを決めているとは祈鈴は知らない。
「ところで、あの男の対処はどうしますか?」
「男?」
「綿貫栄二です」
「ああ、彼ね」
と、祈鈴はどうでもよさそうに返事する。
「あなたにすべて任せるわ」
「かしこまりました」
「それよりも、お姉ちゃんから連絡はあったの?」
「いえ、あれ以降は。面会の後ですので、おそらくいつもの店に行かれてると思います」
「相変わらずね。お姉ちゃんらしいけど。もうちょっとくらい私の相手をしてくれてもいいのに……」
祈鈴は遠い目をする。
宮古は空気を読んで話題を変えた。
「響様は祈鈴お嬢様のワンピース姿を見て、なにか仰ってくれましたか?」
祈鈴の表情がぱあっと明るくなった。
「ええ。すごく可愛いって言ってくれたわ。お気に入りの服を着た甲斐があったわ」
「それは良かったですね」
しかし、祈鈴の嬉しげな表情はすぐに冷めていく。
「宮古さん」
「はい、祈鈴お嬢様」
「やっぱり、私の目に間違いなかったわ。宮古さんはどう思う?」
「私も祈鈴お嬢様と同じ意見です」
「シナリオ通りにいかないこともあるのね」
「祈鈴お嬢様にミスはありません。いくら万全に期しても、イレギュラーは発生してしまうものです」
「そうよね。いい勉強になったわ」
「これからどうしますか?」
祈鈴は窓外の流れる景色をほんやりと眺める。
そして――
「……大丈夫よ。もう次の手は考えてあるから……」
と、天使のように微笑むのだった。
読んでいただきありがとうございます。