10話 彼女は✕✕なんかじゃありません
よろしくお願いします。
………………。
――はじめまして。九重祈鈴と申します。
――綿貫……栄二です……。
とある高層ビルの上階で催されたレセプションパーティの会場。
彼は彼女と出会った。
相手の父親から紹介された長い黒髪の少女。取引先の社長の娘らしい。
中学生と伺っていたが、白地のパーティドレスに身を包んだ姿はとても大人びていて、そして人形と見紛うほどに美しく、出会った瞬間に彼の心は彼女の虜となった。
………………。
――祈鈴さんは星ヶ丘学園を受験するんだって?
――はい。
――国内で5本の指に入る私立の名門校か。けど、祈鈴さんの成績なら余裕で合格じゃないかな。
――ただ、父から条件を言われてまして……。
――条件?
――首席で合格しなければ、入学を認めてくれないんです。
――はは。それはまた厳しいお父上だね。
――学校の先生のお話では、今の成績なら十分に狙えると仰ってくれましたが、私には自信がなくて……。
不安と心配が入り混じった面持ちだった。
海外の有名大学を卒業した彼も、自負するほどではないが、勉学にそれなりの自信を持っていた。だから、彼女に近づきたい一心な彼の口からこの言葉が出てきたのは、ごく自然なことだった。
――じゃあ、俺でよかったら祈鈴さんに勉強を教えようか?
………………。
――二人きりで食事ですか?
――ああ。合格祝いってことでどうかな?
その日、彼は初めて彼女を誘った。
数多の女性から言い寄られてきた彼が自分から誘うのは初めてのことだった。
彼女は少し考えてから答えた。
――私なんかでよろしいんですか?
――もちろんだよ。
彼女のイエスに、彼の胸は喜びで飛び上がりそうだった。
彼女と二人きりの食事だ。場所は以前から決めていた。三ツ星の高級レストラン。宝石のような夜景が眺められ、条件としては申し分ない。きっと彼女も喜んでくれるだろう。
チンっとグラスで乾杯する音が鳴る。
――首席合格おめでとう、祈鈴さん。
――ありがとうございます。
彼女はシックなドレス姿だった。今夜も変わらず人形のように美しく、そして何より彼に対して従順だ。それは彼が求める理想的な女性像だった。
――そうだ。なにか欲しいものはあるかな?
――欲しいものですか?
――今度は入学祝いにプレゼントを贈るよ。
――ですが、すでに食事に連れて行ってもらってます。
――これは俺が君と食事をしたくて口実にしたようなものだから気にしないでくれ。さあ、遠慮せずに言ってごらん。
彼女は少し考えてから答えた。
――え? そんなものでいいのかい?
――はい。
――祈鈴さんは大人びて見えるけど、やっぱり中学生、いや高校生なんだね。そんな夢見る女の子だとは思わなかったよ。
――からかわないでください。
――ごめんごめん。ところでさ、祈鈴さん。
テーブルに置かれた祈鈴の手に綿貫の手が重なる。
――綿貫さん?
――これからは俺のことを栄二さんって呼んでくれないかな?
――え?
――俺は君とのこと、真剣に考えているつもりだ。だから下の名前で呼んでくれないか。
彼女は少し考えてから答えた。
――わかりました。……栄二さん。
彼は爽やかなイケメン顔で微笑んだ。
――うれしいよ、祈鈴。
………………。
――栄二、九重社長のお嬢さんと付き合ってるのは本当なのか?
――ああ。いずれ結婚するつもりだ。彼女も同意してくれてるよ。
あれから彼は何度か彼女をデートや食事に誘い、二人きりの時間を作るようにした。当初は入学試験まで引き受ける予定だった家庭教師も続けることにした。
彼女は特別だ。彼女だけは決して彼に口答えしない。
汚れを知らない、永遠に無垢なままの、理想の人形。
彼女に群がる虫はすべて振り払わねばならない。彼女はいつだって彼の理想であることこそが幸せなのだ。
そこで彼は彼女を見守ることにした。一緒にいるときも、そうでないときも。
彼はこんなにも彼女のことを想っている。彼女もきっとそれを望んでいるはずだ。
だって、俺たちは――
運命の赤い糸で結ばれているのだから……。
***
「――え? いま何て言ったんだい?」
「私はこちらの響先輩とお付き合いをしています。ですから、今後は綿貫さんとのお誘いを控えさせてください」
綿貫は耳を疑った。
気分が優れないと言って、祈鈴がテーブルを離れたのが数分前のこと。心配になって様子を見に行こうとしたら、先程紹介されたウェイターと何故か一緒に戻ってきて、大事な話があるからと打ち明けられたのが、響との交際だった。
綿貫は突然の告白にうっかり動揺を見せてしまったが、持ち前のポジティブ思考ですぐに状況を都合よく解釈した。
「ああ、そうか。俺をからかっているんだね。はは、君がそんな冗談を言うなんて驚いたよ」
「冗談は言ってません」
祈鈴に否定され、綿貫の表情が一瞬歪む。
「でも、そこのウェイターくんとは先日会ったばかりなんだろ? 君だってただの友だちだって話してたじゃないか。まさか、君は会ったばかりの男に告白されてOKしたとでも言うのかい?」
「違います。……私から響先輩に交際を申し込んだんです」
「――は?」
にわかに信じがたい事実だった。
綿貫の自慢なイケメンスマイルが凍りつく。
「す、すまない。俺には君から彼に告白したように聞こえたんだが、もう一度言ってくれないか?」
「私が響先輩のことを好きになって、告白したんです」
祈鈴は頬を赤らめながら言ってのけた。これが演技だと分かっていても、隣で聞いてる響は動揺を隠すのに必死だった。
一方、綿貫は口をぽかんと開けたまま茫然としていた。顔が青ざめ、現実を受け入れられない様子だ。我に戻ると、かろうじてイケメンスマイルを保ちながら、震え気味な声で祈鈴に問い質した。
「なんだい、それ。君は俺と付き合ってるんじゃないのか。俺は君の望むままに尽くしてきたんだぞ。寂しい思いはさせなかったし、変な虫が寄りつかないように見守ってきた。君を星ヶ丘学園に首席で合格させたし、君の願いは何でも叶えてきた。俺の何が不満なんだって言うんだ?」
「それは……」
綿貫に言葉で抑え込まれ、祈鈴は続く言葉を失ってしまう。
そんな様子を見て、助け舟とばかりに響が口を挟んだ。
「……あのう。そもそも二人は付き合ってませんよね?」
綿貫の鋭利な眼差しが響に向けられる。容赦ない敵意だ。
「まったく君は何なんだ。俺と祈鈴は本気で愛し合ってるんだぞ」
「それは綿貫さんが一方的に思っていることですよね?」
「――違う!」
綿貫がテーブルを強く叩いて立ち上がった。
店内が一斉に静まり返った。
「君に何が分かるって言うんだ。俺は祈鈴のことなら何でも分かっている。祈鈴は人形のように美しくて、俺に従順なんだ。俺以外の男が彼女に相応しいわけあるものか!」
綿貫は周囲の目を気にせず、声を張り上げた。
客がざわめきだす。ここまで騒げば当然の反応だ。
騒ぎを見て、綾瀬が駆けつけた。
「お客様、どうかされましたか? 響くん、なにがあったんだ?」
しかし、すでに感情的になった綿貫は止まらなかった。
「君さえいなければ、祈鈴がこんなことを言い出しはしなかった。祈鈴が俺に口答えするようになったのは全部、君が唆したせいだろ!」
綿貫が響の襟元につかみかかった。今にも殴りかかりそうな勢いだ。
息を詰まらせながらも、響は綿貫の発言に淡々と反論する。
「彼女は人形なんかじゃありません。一人の普通の女の子です。僕は女の子を自分の都合のいい人形にしか思ってない人に祈鈴さんを渡す気はありません」
「ふざけるなっ!」
綿貫の拳が振り下ろされる、その瞬間だった。
「やめてくださいっ!」
祈鈴の声に綿貫の拳が止まる。
そして祈鈴の手のひらが綿貫の頬をぺちんと軽く叩いた。
「――ふぇ?」
綿貫の表情が力抜けし、響の襟元を放した。
「た、叩かれた? この俺が? 誰にも叩かれたことのない、イケメンでスマートな俺が? どうして?」
信じられないと言わんばかりに両手をわなわなさせる。
「綿貫さん、もうやめてください。響先輩はなにも悪くありません」
綿貫が情けない表情で祈鈴を見た。その目に先までの気迫はない。
「私は綿貫さんと付き合ってるなんて一度も思ったことありません。結婚の話だって綿貫さんから言われたことありませんし、受けた覚えもありません」
祈鈴は意を固めた面持ちで、ようやく本心を告げた。
おろおろする綿貫。完全に腑抜けてしまっている。
「で、でも君はいつだって俺の言うことに快く返事してくれたじゃないか……」
「それは申し訳ないと思っています。私がはっきり言えなかったばかりに綿貫さんに誤解をさせてしまいました」
祈鈴は頭を下げた。そして顔を上げると、綿貫から目を逸らさず、真正面から向き合った。
「私は綿貫さんが思ってるような従順な人間ではありません。ですから、これ以上はもう私につき纏わないでください」
面と向かって言われ、綿貫がふらつく。
「あれは嘘だったのか? あのときの君は全部嘘だって言うのか?」
顔に手を当て、静かに笑い出した。
「くくく。君には幻滅したよ。ああ、いいとも。君みたいな女はこっちから願い下げだ。せいぜいその庶民とよろしくやってればいい。君にはお似合いだよ」
綿貫はそう言い残して、一度も振り返ることなく、店を出て行った。
綾瀬は収拾がついたと判断して、客に謝罪を入れた。
「響くん、あとで説明してもらうからな」
「はい、すみません」
なんとか綿貫の件が解決したようで、響は胸を撫で下ろした。
「響先輩、すみませんでした。こんなことに巻き込んでしまって」
「構わないよ。困ってる後輩を見過ごすほど僕は薄情な先輩じゃないからね」
「……あの、響先輩」
祈鈴がくいくいっと響の袖を引っ張る。
「……ん?」
祈鈴がほんのり頬を朱く染めながら、背伸びして、響の耳元でささやいた。
「お礼がしたいので響先輩のバイトが終わるまで待ってます。……私を置いて帰らないでくださいね、約束ですから」
響は断る理由も見つからず、ただ「う、うん」とぎこちない返事を返すだけで精一杯だった。
読んでいただきありがとうございます。