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1話 ✕✕、見えてますけど

よろしくお願いします。


 それは朝の何気ない挨拶から始まった。


「おはようございます。希海のぞみさん」

「おっはよ。ひびきくん」


 音倉響おとくらひびきはベランダに出たところで、隣人に気づいて朝の挨拶をした。

 桐生希海きりゅうのぞみもベランダに現れた隣人を見て、ベランダ越しに朝の挨拶を返した。


 ここは5階建てアパートの3階。

 空は四月中旬の春らしい快晴だった。

 鼻歌が聞こえてくる。

 一瞥すると、希海が歌っていた。知らない曲だ。

 響は手に持っていた洗濯カゴを足元に置き、希海に視線を向ける。

 隣に住む希海は、ベランダのフェンスに両肘をのせ、身体を預けるように立っていた。

 起きてそのままなのか、栗色のセミロングの髪のあちこちに寝癖が残っている。


「今朝は早い起床ですね」

「ふふん。まあね」


 褒めたつもりないのに、希海が得意げに答える。

 日曜の朝。時刻は9時をすぎたころ。

 世間では決して早い朝ではないが、希海の普段の生活を考えたらかなり早いほうだ。

 響もそれを分かって言っただけで、それ以上に他意はない。


「響くんも日向ひなたぼっこ?」

「洗濯物を干しにきました。せっかくの洗濯日和(びより)に室内乾燥はもったいないと思って」

「相変わらず家事してるんだ。エライエライ」

「一人暮らしですからね、仕方なくですよ。希海さんこそ、ちゃんと洗濯とか掃除してるんですか?」

「うぐ……。イタイとこつくなぁ、キミは」


 希海は苦い顔をする。

 桐生希海は響と同じアパートの住人だ。

 響よりも4つ年上の大学生で、彼女も一人で生活している。

 二人が出会ったのは一年ほど前。響が高校入学を機に親元を離れ、一人暮らしを始めた時期に、一年浪人した希海もまた大学入学を機に一人暮らしを始めた。

 二人そろって一人暮らしデビュー。

 入居した日も重なって、その時に二人は初めて顔を合わせた。


 ――こんにちは。隣に越してきた音倉響オトクラヒビキです。

 ――私は桐生希海キリュウノゾミ。キミ高校生? じゃあ響くんって呼んでもいい? 私のことは希海って呼んでね。

 ――え? あ、はい。

 ――あはは。かしこまらなくっていいよ。よろしくね、響くん!

 ――よ、よろしくお願いします。


 響が希海に出会って最初の印象は、とてもきれいでとても距離の近い、なんだか接し方に戸惑うお姉さんだった。

 たまにアパートの玄関口や通路ですれ違ったとき、こうしてベランダで見かけたときに益体もない会話を繰り返して、二人はそれなりに親しくなった。

 いわゆる、よきお隣さんである。


「どうせ希海さんのことですから、洗濯物ため込んでたり、部屋を散らかしたままにしてませんか?」

「むむ。キミはまるで私の部屋を覗き見てきたかのような口ぶりをするなぁ」

「希海さんの性格を知ったら、誰だってそう思いますよ」

「ひどっ!」


 もちろん響は希海の部屋を訪れたことなど一度もない。しかし、希海のずぼらさは日頃の言動からも目に余るほどで、彼女の生活が破綻してそうなのは容易に想像できる。


「んーっ。そよ風が気持ちいい」


 希海が両腕いっぱいに背伸びする。

 上半身は薄いキャミソールだけだ。

 豊かな胸のラインがくっきりと浮かび上がり、響は顔を逸らした。女子に縁のなかった響にはかなり刺激の強い膨らみだった。


「希海さん、少しは自重しましょう」

「ん~? なにが~?」


 希海が語尾を伸ばし呑気にたずねる。

 フェンスの塀に隠れていても、響から希海の全身はうかがえた。

 希海は誰もが息を呑むほどの美少女だ。(この場合、二十歳の希海が“少女”に該当するかどうかは別として、その容貌を見れば美少女と呼ぶのが相応しいだろう)

 スタイルの抜きんでた麗しい容姿はとても魅力的である。そんな女性に肌露出の多い格好をされて、平静を装えるほど響は女性慣れしていない。むしろ目の行き場に困っているくらいだった。

 何よりも希海はズボンを履いていない。キャミソールの裾レースから空色の下着がちらほら見え隠れしていた。


「もしかして朝から私を見てムラムラしちゃってる?」


 面白半分に希海がたずねる。


「さすがにそんな格好されたら、ドキッとしますよ。希海さん、美人だしスタイルも良いんですから」

「ぶすぅ。反応が面白くなぁい。高校生らしくないぞぉ」

「これでもすごくドキドキしてるんですけどね」


 お世辞でなく本心だった。


「あはは。でも褒めてくれてありがと。そういうことなら、お姉さんがもうちょっとだけ響くんをドキドキさせちゃおっかな~」

「ちょっ、なにしてるんですか」


 希海がこれ見よがしにキャミソールの胸元を指でくいっと引っ張り、響へ前屈みになる。

 谷間が丸見えになった。


「ほらほぅら。お姉さんノーブラだよ。乳首見えちゃうかもだよ」


 遊び半分な声で響の視線を誘う。


 ――まったく、無防備な人だな。


 響はため息をこぼした。


「ブラ、見えてますけど」


 キャミソールの空いた胸元から下と同色のブラジャーが覗いていた。


「なぁんだ、しっかり見てるじゃん」

「そりゃまあ、僕も男ですから……」

「お。否定しないとこ、なかなか好印象だぞ」


 希海が子供っぽく笑った。


「ねえ、響くん。お姉さんお願いがあるんだけど聞いてくれる?」

「えー。なんでしょうか?」

「露骨に嫌な顔しないでよぉ。……お姉さんね、実は今朝から頭痛と胸焼けがひどくて、気分がとっても悪いの。それで、またいつもみたいに美味しいコーヒーれてくれると元気になれるかなぁって」

「……希海さん、また呑んだんですか? 三日前に酒やめるって宣言してませんでしたっけ?」

「そうだったかな。忘れちゃった」

「その目の下のクマ、まさか一晩中ですか?」

「明け方までには寝たよぉ。それに呑んだのもちょびっとだけだもん。ホントにちょびっとだけ、ほんの先っちょだけって……なんちゃって」


 希海があははと笑って誤魔化す。

 希海が()()()()()以上に酒を呑んでいたのは明白だった。おそらく一晩中だ。希海が喋るたびに、そよ風にのって酒の臭いがぷんぷん漂ってくる。


「大人にはね、大人の付き合いってもんがあるんだよ。こればっかりはどうしようも避けられない宿命なの。だからね響くん、宿命にあらがえない私にあつ~いコーヒーおねが~い」


 希海が両手で拝むように懇願する。

 両腕に押し挟まれた胸の谷間がキャミソールから溢れ出て、響はまたしても目の行き場を困らせる。おまけに上目遣いの表情はかなりあざとく、反則なまでに可愛らしかった。


 ――ずるいなぁ。


 響はため息をついた。

 酒の味も二日酔いも知らない響だが、希海の自業自得を甘やかすほど優しい気になれない。けれど、このまま放っておくのは良き隣人として忍びなく思えた。


「……待っててください」


 部屋の中に入ると、しばらくして片手にマグカップを持って現れた。


「どうぞ。()()()()()ご褒美です」

「わぁい、ありがと~。だから響くん大好きっ!」

「熱いですよ」

「へーき、へーき。あちちっ」


 マグカップをベランダ越しから受け取り、そっとコーヒーに口をつける。


 ずずず……。ほわわぁ。


 希海の顔が和やかに緩んだ。


「やっぱり響くんの淹れてくれたコーヒーは美味しいね」

「ただのインスタントですよ」

「わかってなぁい。響くんが淹れてくれたから美味しいんだよ」

「……誰が淹れても同じだと思いますけど」

「もう。そこが一番大事なのに……」


 コーヒーを幸せそうに飲む希海を横目に、響は微笑み(にやけ)そうになるのをこらえ、洗濯物を干し始めた。


「響くんって彼女できた?」

「……できてません」

「じゃあ、私と付き合おうよ」

「――は?」


 響の手から洗濯物がするりと落ちた。

 響が呆気にとられたのは前触れなしに交際を申し込まれたからでなく、先週も同じように交際を申し込まれていたからだ。


「その件は断ったはずですが……」

「安心して。私、処女だから。あ、キスは済んじゃってるけど、それくらいは気にしないよね?」


 会話が一方通行だった。

 希海が会話のキャッチボールをしてくれないのはよくあることだ。


「希海さんは自重だけなくつつしみも覚えたほうがいいと思います」

「こんな素の私を見せるのは響くんだけだよ」


 ドヤ顔だった。

 事実、これほどの見目麗しい女性から交際を申し込まれて首を縦に振らない男はいないだろう。しかし、希海の魂胆を見抜いているからこそ響は首を縦に振らず、


「でも遠慮しておきます」


 やんわりと断った。


「え~? どうして~? 自分で言うのもなんだけど、私ってかなり優良物件だと思うよ。やっぱり年上だから? 響くんってもしかして年下好き? ……ロリコン?」

「違います。……だって希海さんが僕と付き合いたいのって、僕に希海さんの家事をさせたいからですよね?」

「う、ううぅん?」


 希海がぎくりとする。図星だった。


「高校生男子に家事してもらおうなんて、恥ずかしくないんですか?」

「響くんだったら、いっかなって思ったんだもん」

「それに僕はバイトがありますし、そんな時間は作れません」

「響くん、お金に困ってるの?」

「……いつまでも親の仕送りばかりに頼ってるわけにはいきませんから」

「じゃあさ、私が響くんを家政夫、じゃなくて()()として雇うのはどうかな?」

「――えっ?」


 響は耳を疑った。


「それなら、響くんも私も困らないでしょ。しかも彼女つき。とってもおトク」


 どうやら本気らしい。

 響は絶句する。

 希海は子供っぽい笑みを浮かべていた。


「私の専業主夫になってよ、響くん!」

「…………」


 返す言葉が出てこなかった。

 だが響はまだ知らない。一週間後には彼が希海の専業主夫になりはててしまうことを。――このときの響は知る由もない。




読んでいただきありがとうございます。

のんびり投稿を予定しています。ご了承ください。

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