本物の音
ーー俺は、音楽が好きだ。Jpop、ジャズ、アニソンに洋楽、ボカロ、そしてクラシック......。
近頃は、こうした様々な音楽が人々の間で親しまれている。その音楽を、身近に感じることができるようになった大きな要因というのが、言わずもがなスマホなどの音楽プレイヤーの普及である。どこにいても、ワンプッシュでイヤホンを通じて音色が頭の中を駆け巡る。誰もが素晴らしい発明だ、文明の利器だ、と褒め称える。
確かに、音楽と親密な関係になることはとても喜ばしいことだ。だが、どうしても納得できないことが俺には一つあった。
それは......
「おっはよー! 奏楽」
突如俺の心の声を遮り、後ろから元気に挨拶してきたのは、中学からの女友達吉野真尋だった。
「真尋か、おはよ。ん?なんだ、今日もあれ聴きながら学校来たのか」
真尋の首にかかったイヤホンを見て、俺は呟いた。
「うん!やっぱり朝はクラシックに限るね〜」
「…まぁ、クラシックは俺も好きだけど、スマホを使ってイヤホンで聴くのはどうも......」
「そういえば、奏楽音楽好きなのにスマホに曲全く入れてないよねー。どうして?」
首を傾げ、不思議そうな顔をする真尋に、俺が話をしようとしたその時、ホームルーム開始を告げるチャイムが、学校中に鳴り響いた。
「やばっ!じゃあ奏楽またね!」
「あ、ああ......」
俺と真尋は違うクラスのため、そこで止むなく別れた。
ちぇっ、あの話真尋にしときたかったのにな......
走る真尋の後ろ姿をちらと見ながら俺はぽつり独り言を漏らした。
教室に着くと、親友の早川司がにやけた顔で肩を組んできた。
「おはよ奏楽!真尋ちゃんに、ちゃんとあの話してきたか?」
「…いや、それが話そうとはしたんだけど......タイミング悪くチャイムなっちゃってさー」
「つまり、話してないと......?」
「......うん」
すると、司は俺の肩に回していた手で、そのまま思い切り首を絞めた。
「なんでお前はいつもそうなんだよー真尋ちゃんに言うってあれだけ言ってただろ!」
呼吸すら出来ない状態の俺には、まったく司の言葉は耳に届かない。
「わ、わかったから......息が......」
そんなことをしていると、教室の前のドアが開き、愛称メガネマンもとい、うちの担任が姿を現した。
「こら!橘、早川、もうチャイム鳴ったんだから早く席に着きなさいー」
甲高い声で注意された俺らは、顔を見合わせると、一笑して席に着いた。
「仕方ねーな......」
奏楽、後は俺にまかせろ
小声で俺にそう言ってきたが、さっぱり意味が分からず、ただ生返事を返した。
ーー放課後、家には帰らず、俺は一人ある場所へと向かった。
「いよいよか......」
一方、司は一つ下の階にいる真尋に会いに行っていた。
「あれっ、司くん?」
教室の前の廊下で待っていた司に気付いた真尋が先に声を掛けた。
「よ、久し振り!真尋ちゃん、今ちょっといい?」
「うん?」
奏楽の親友ということで、何度か面識はあったものの、二人だけで会うのは初めてだったので真尋は少し緊張していた。
すると、司は唐突にこう切り出した。
「実は、真尋ちゃんに渡したいものがあって......」
そう言い、おもむろに鞄から何かを取り出そうとする司。
(えー!?も、もしかしてラブレター?)
真尋は顔を赤くして、軽くパニック状態。
「これなんだけど......」
真尋が恐る恐る目を開けてみると、司が差し出したのは、あるコンサートのパンフレット。
「......えっ?渡したいものってこれ?」
「そうだよ。ピアノのコンサートのパンフレット!」
とんでもない勘違いをしていたことに気付いた真尋は、あまりの恥ずかしさに顔を両手で隠した。
「え?......どうしたの真尋ちゃん」
「いや、何でもない!」
不自然な笑顔を見せて真尋は気を取り直した。
「それで、このコンサートがどうかしたの?」
「このコンサート、今日公演なんだけどよかったら観に行ってくれないかなーとおもって」
「えっ、どういうこと?
確かに私クラシックは好きだけど、こういう堅苦しいのはあんまり好きじゃ......」
「俺、実はこのコンサートの運営の人と知り合いなんだけど、お客さんがあんまり集まってないらしくてさ、誰か誘って欲しいって頼まれたんだ。
あいにく俺も奏楽も用事があって行けなくて......」
(まぁ、全部嘘だが......)
心の中とは対照的な暗い表情で、司は真尋を手引きしようとしていた。
「そうなんだ。うーん......」
真尋はもう一度パンフレットを見返して、少し考えた。
(まぁ、一度クラシック生で聞いてみたいと思ってたし、今日は用事も特にないからなー)
「分かった......じゃあ観に行ってみようかな」
「本当?よかったー行き方はそのパンフレットに書いてあるから。じゃあよろしく!」
(作戦大成功ー!
後で奏楽になんか奢らせよ)
満足げな表情を浮かべて、司はそのまま去っていった。
ーー二時間後、真尋はコンサート会場の前に立っていた。
「こ、これがコンサート会場......」
想像していたものより遥かに規模が大きかったため、真尋は呆気に取られていた。
「と、とりあえず中に入ろ......」
多くの人で溢れる受付で、手早くプログラムを受け取り、ホールに続く重厚な扉を開けた。
「ふー。司くんったら、何がお客さんが来なくて困ってるよー。ほぼ満席じゃない」
膨れ顏で文句を言っていると、司会の人が登場し、遂に演奏が始まったーー。
一人、二人......とクラシックを見事に弾いていく中、三人目に差しかかろうというところで、事もあろうに真尋は眠ってしまったのだった。
それから真尋が再び目を開けたのは、最後の一人を司会の人が紹介している所だった。
「では、本日最後の演奏となります。エントリーNo.15橘奏注」
ステージの袖から、黒いタキシードに身を包んだよく知る少年が、大きな拍手と共に悠然とステージを歩いていた。
真尋は、寝起きだったこともあり、まだ夢でも見ているんだと思っていたが、プログラムを今一度確認してみると、確かに橘奏楽の名前がそこにあった。
「えー!?奏楽がどうして?」
反射的に声が出た真尋は、周りの人に睨まれてすぐに口を押さえた。
(一体どうなってるの?)
訳も分からぬままステージの奏楽を見つめると、今まで一度も見たことのない表情をしていた。
その表情からは、焦りや不安といったものが一切感じられないのが見て取れ、その堂々とした姿で椅子に腰を下ろすと、少しばかり目を閉じ、ゆっくりと鍵盤に指をそえた。
そして......音を奏でたその瞬間。
真尋は全身の鳥肌が立ったのを感じた。
「......すごい」
ーーそれは、心からの一言だった。
さっきまで眠っていた全ての細胞が、一人の少年の奏でる音色に魅了されていた。
それと同時に真尋は、どうして奏楽がいつもスマホで音楽を聴かないのかを、その時初めて理解した。
耳だけで聞く機械音ではなく、五感全てで感じる音楽が、本物の音の色というものが、そこにはあったから。