天使の証明2
志賀はその天使の美しさに暫く立ち尽くすことしか出来なかった。
しかし時の流れは情報世界でも立ち止まることを許さない。
志賀は数秒の間の後に正気を取り戻すと管理者権限で相手のIDを確認する。
『ID"Angel"、どうやら騒動の中心が現れたようです』
『そのようだな、とりあえずこのまま監視を続けてみよう。情報なんかは、後でログを漁れば出てくる』
所長のその意見に志賀は頷く。
だがこの発言は天使を眺めていたいがための言い訳に過ぎない。彼もそれには気づいていたが、欲求には逆らえなかった。
誰もが天使に見惚れていた。
志賀の目に写る天使は夜の空を漂っていた。その身体からは時折淡い光の波動が溢れ出す。
その時、金色の天の河を引き裂くように何かが二枚、天使の背中から出現した。
それは虹色に煌めく蝶の翼であった。
天使はそれを一振りすると室内に輝きを散らし、消えた。
余韻の中、部屋の中にいた人々はその様子を伝えるために一人、また一人と立ち去り、遂には所長と志賀の二人だけになった。
所長は随分と小さくなったテーブルに座り頭を抱える。
志賀も席につくと、あの姿を思い出す為に情報世界で目を閉じた。
彼女の髪はどのくらいの長さだろうか、彼女は何を考えているのだろうか。彼女は一体どんな声をしているのだろうか――
『見ツケタ』
耳を溶かすような甘い声が志賀の頭に響いた。
顔を上げると、天使がまさに円卓に降り立とうとしているところであった。
蝶の翼を部屋いっぱいに広げている天使からは重力が消えていた。
縦横無尽に宙を舞う金色の髪は部屋を覆い尽くしている。
天使の足がテーブルにつこうとした時、硝子の割れるような音と共に虹色の翼が割れ、それと同時に彼女に重力が襲いかかった。
気がつけば先ほどの長い髪は床へと流れ、カーペットを金色へと変えていた。
あまりの出来事に志賀は言葉を失う。彼女を調査をしている、そんなことを忘れて只々自分の前だけに天使が現れたことに悦びを感じていた。
そんな彼のことを、天使はこの世の何よりも美しく、綺麗で、そして純粋な金色の目で志賀を見下ろす。
彼の頭に再びあの甘い声が、どこか無機質な感じで響く。
『対象者ヲ発見、解析結果送信、目的達成ヲ報告、次ノフェーズヘト移行シマス』
目標とは僕のことだろうか、と志賀はぼんやりとした頭で考えを巡らせ、あやふやな考えをまとめる。
その間に天使は彼に背を向けると再び翼を生やした。
『あの、あなたは何者なんですか?』
その天使を一秒でも長くここに留めたい彼は無謀だと分かりつつ彼女に話しかける。
彼の願い通り天使は振り向いた。だが彼女は不思議そうに首を傾げていた。
その顔は志賀の質問の意味が分からない、といった風である。
『私ハマタ来マス』
そう言うと天使は再び背を向けた。
『気ヲツケテ下サイ』
そう言い残し彼女は神の元へと帰っていった。
月曜日の放課後、外を埋め尽くす初夏と勘違いするほどの暑さから逃げるように志賀は高校の図書室に籠っていた。
もう少し涼しくなってから帰ろうというのもあったが主な理由は別にある。
天使についてだ。
情報だけならネットにも転がっているかもしれないが、今は騒動の最中であり、その騒動のことやデマなどがあるため、こういう紙媒体で調べた方が効率がいいのだ。
今日は事務所に人がいないから直帰しろと所長に言われていたがどうせ客なんて来ないだろうと志賀は楽観視する。
志賀にとって本を読むことは苦痛ではなく、それに有能な司書である佐々木が手伝ってくれているため作業は通常の高校生とは思えないほどのスピードで進んでいた。
「これ、聖書にある天使を纏めたものです。でもこういう調査はホノカさんに任した方が良かったんじゃないですか?」
「あの人には今回の騒動の方を調査してもらっているし、こういった基本的なことはこっちで調べておかないとね」
そうですね、と佐々木は微笑む。
寂れた図書室で静かに本を読む二人、一昔前まで「青春」と言われていた光景だ。
そんな青い春をぶち壊す輩が図書室に入り込んできた。
それは志賀が朝からずっと避けてきた相手、ミステリー愛好会の会長であった。
「ようお二人さん!今日も青春真っ盛りじゃないの!」
「………要件をどうぞ」
「何よ志賀っち、今日はすっごい冷たいじゃない」
「先輩がやたらハイテンションだから相対的に冷めてみえるだけです」
「ああそうなの、それよい昨日天使に遭遇したって本当なの?」
「やっぱりそれか…本当ですよ、だからこうして調べているんです」
「そりゃごくろうさん、でもさ、情報世界の天使について調べるのになんで現実の方を調べてるのよ」
志賀は佐々木を一瞥すると本の世界へと入っていった。情報収集に集中したいため佐々木に相手役をバトンタッチしたらしい。
「それは相手の目的が全く分からないからです。わざわざ"天使"の名前を冠しているわけですし、何かの暗示なのではないかと考えて調べています」
「あーそういうことか。もしよかったらうちの部員も貸してあげよっか?」
「えっ、よろしいんですか?」
「人なんて借りちゃだめだ。どうせ人貸すかわりに値段安くしろとか言いすんだから」
人員の増加に喜ぶ佐々木を志賀は抑える。
それに彼はその人員が同じクラスのポンコツじゃじゃ馬野郎二人だと分かっていた。
しかし相手は志賀の意見を聞かずに電話で誰かを呼び寄せると踵を返した。
「それじゃあ部員を二人貸すから、さっさと正体突き止めてよ!」
「ああちょっと!割引とかしないですからね!………うわあ来たよ」
渡会と入れ替わりで入ってきたのはこの学校ではなかなか見ない安っぽい茶髪のギャルと、これまた見かけない坊主頭の青年であった。彼女らはそれぞれ西野と片倉という。
二人は志賀と佐々木と同じクラスではあるのだがミステリーに全く興味がない。
そのため今日も愛好会の定例会に参加せずさっさと帰っていたはずなのだが、襟元の乱れ具合を見る限りとっ捕まって参加を強いられていたようだ。
そんな二人は志賀と佐々木を見るや否やため息をついた。
「はぁー、なんで強制的に残らされてまでバカップルの作業を見なきゃならないのよ」
「見なくていいから手伝うなら手伝え、そうじゃないなら帰れよ」
バカップルは否定しないのなーと西野は机にへたり込むと全ての動きを止めた。
片倉は本をとったまではいいのだが数秒で解読を諦め西野と話をし始めた。
志賀の本を握る手が段々と強くなっていくことに気づいた佐々木が慌ててフォローに入った。
「あ、あの、西野さんはこちらを読んでください。片倉さんはこの薄い本を」
「おっ、佐々木から薄い本発言を頂いちゃったぞ志賀。彼氏という立場としてどうなんだこれは?」
「うるせえ片倉!そんなにミステリーに興味がねえのになんで愛好会に入ったんだよ!」
「もちろん渡会先輩のあのド変態ボディに惹かれたからに決まっているだろ!巨乳こそが正義でありこの世の真理!それの何が悪いんだ!」
「そこまできっぱりしていると逆に清々しいな…だがな、女性の前でそういう話をするのはどうかと思う」
辺りを見回せば、西野は窓辺で椅子に跨り黄昏て、佐々木は本棚に手をつき落ち込んでいた。二人とも出るものがそんなに出ていないのだ。
だが片倉はそんな志賀の心遣いを無視し話を続ける。
「だけどさ、やっぱあの童顔にあの巨乳だぜ?あんなのに誘われたら誰でも入るだろ?」
「それは僕に聞いてるのか?だとしたらそれにはノーと答えさせてもらおう」
「嘘だろ…?お前つるぺたの方が好きなのか?」
「だから!そういう話をするなと言っているだろ!」
「もしかしてお前…ホモなのか?」
「……分かったよ、答えりゃいいんだろ答えりゃ…そうだな、僕は普通のがいいかな」
「じゃあ強いて巨乳か貧乳かを選ぶとしたらどっちだ?ちなみに俺は巨乳が好きだな」
「片倉の趣味なんてどうでもいいけど…そうだなあ、貧乳かな」
「マジかよ…志賀には失望した。あんな絶壁の何処がいいんだよ」
「説明するのが難しいな…ちょっと耳を貸せ」
志賀はそう言うと片倉の肩を寄せる。周りの女子二人に聞こえない為の配慮らしい。
「片倉、あそこに佐々木さんがいるだろ?」
「ああ、だが彼女をさん付けで呼ぶのどうなんだ?」
「だから彼女じゃねえって言ってんだろ。それはともかく佐々木さんのあの行動を見て欲しい」
彼は佐々木さんを目で示す。そこには胸に手を当てて落ち込んでいる彼女が立っていた。
「確かに胸はないよりあるに越したことはない。だがな、ああやってコンプレックスを持つ女性はこの世で一番美しいと思わないかね?」
「ほう、だから今日は事務所に帰らずに図書室に二人きりで篭ろうとしていたのか?」
後ろの方から突然声が響き二人は驚く。
振り返るとそこには所長と呼ばれる人物が立っていた。
所長は片倉に営業スマイルを浮かべると志賀の首根っこを掴み部屋の外へと連れ出した。
外に出た所長の顔は先程のように笑顔であったがその表情は所々歪んでいる。
「今日は夜まで事務所にいないから寄り道せず帰ってこいって言ったろ」
「ど、どうせ人なんて来ないしいいんじゃないかなって…」
いいわけないだろ!と志賀は所長に鉄拳制裁を食らう。
「まあ済んだことはいい。車に乗せてやるからユイを連れてこい」
「でも調べ物がまだたんまりと残っていまして」
「そんなもんはあっちでも出来るだろ。後、あの坊主によろしく言っておけよ」
「あの、つかぬ事をお伺いしますが、所長は先程の話をどこから聞いておられたのでしょうか」
「見てなくてもいいから云々の下りからだな」
「なんだ最初から詰んでたんですね。とりあえず佐々木さんを呼んできます」
そう言った彼が所長から逃げるように図書室の扉を開けると向こう側にいた三人による雪崩が発生した。先程の説教を盗み聞きしていたらしい。
「はあ、佐々木さんまで何やってるんだよ」
「そ、その、私、探偵ですので!そうだ、大体のお話は聞いたんで帰る準備をしてきますね」
佐々木はそう言い残しそそくさと机へとエスケープした。
それを見計らい片倉が志賀に肩を組み小声で話を始める。
「あれが噂に聞く所長かよ、多少年を食ってるが中々のスタイルじゃねーか」
「お前の頭には煩悩しかないのな…そんなわけだから今日も仲良く西野と帰ってろ」
そんなやりとりをしていると佐々木がわざわざ志賀の荷物も持って所長の所へと駆け寄った。
志賀もそれに続き所長の元へと足を進める。
部屋の外に出た時、志賀が所長に後頭部をはたかれる瞬間を残された二人は目撃していた。
学校前には所長の私物である真紅のジュリエッタが出す独特のエンジン音が響いていた。
志賀が中を覗くと、運転席に一人と後部座席に一人がいた。
後部座席に座る金髪の女性は明らかに場違いなメイド服を着ていた。彼女こそ情報収集のプロである芹沢である。
髪をツインテールにまとめた芹沢は前に座るスキンヘッドのヤクザに躊躇なく話しかけていた。
事務所のメンバーからしてみれば何時もの光景なのだが傍からみれば誘拐現場にしか見えない。
ヤクザの名前は那須野 幸真という。
けやき探偵事務所の戦闘要員、ではなくあらゆる工作のプロである。彼は所謂元インテリヤクザであった。
そんなカオスな車内もメンバー全員が慣れているため何の躊躇いもなく後部ドアを開けて、もちろん佐々木の後に志賀が乗り込んだ。
車は軽快な音を立てて走り出した。だが芹沢はその音を楽しもうともせず二人に話しかける。
「それでー?何かいい情報は見つかったのかな?」
「いい情報かどうかは分かりませんが志賀君が耳よりな情報を持っていますよ」
「そうなのナオ君?」
「現実世界では見つかりませんでしたが、情報世界の方なら見つかりましたよ」
図書室に篭った意味がゼロだなと所長は助手席から会話に加わった。
運転席の那須野が若干イライラしているのが志賀の目に入ったが、彼にとっては所長の方が怖いので話を続行した。
「あの情報天使が事務所の掲示板に出た時を調べてたら面白い事が分かりまして」
面白い事?と芹沢は可愛らしく首を傾げる。だが全ては計算され尽くした上での行動が無意識に出ているものだ。職業病もここまで行くと怖い。
「あの天使が現れたとき、サーバーにかなりの高負荷がかかったことが確認できました。おそらく天使の登場とともに何らかのプログラムが作動したのかと」
「ん、それはアクセスが集中しすぎたとかじゃないの?」
「二回目に天使が出現したときも通常より高い負荷が確認できたのでそれは考えにくいですね。ただ一回目と二回目で負荷の大きさが違うのでそこは要調査です」
「ほー流石データマンだね。ところで昨日の夜の出来事を何時調べてたのかな?」
「そりゃ色々と時間のやりくりをしましてね」
「まあそこは追及しないでおいてあげよう。お礼にこちらも有用な情報を教えてあげる」
芹沢はそう前置きし人差し指をピンと立てた。可愛らしい行動だがこれも計算尽くである。
「警察内部、といっても下の方で不穏な動きがあるらしい」
「らしいって、そんな情報を何処で手に入れたんですか」
「何処って昨日の接待で警察のお偉いさんが言ってたんだよ。こっちにまで伝わってくるってことは別に大したことじゃないだろって言ってたけど本当かなあ」
「その情報が真か偽かより警察のお偉いさんが来る接待がどんなのか知りたいです」
「今度一緒に来てみる?高校生の男女二人が給仕をやってくれれば幅広いニーズがカバーできるんだけど」
「い、いえ、私はそういう人が多いところは苦手でして」
「突っ込むところはそこじゃないぞ佐々木さん」
そんなこんなでメンバーを乗せた車は事務所が入るビルへと辿り着いた。
万年日陰のせいで昨夜に落ちた時雨が未だに壁や地面に残っていた。だが澄み切った初夏の風がその陰鬱さを吹き飛ばしてくれている。
メンバーはいつも通り階段を面倒臭そうに登っていく。
いつも通りに二分近くかけて上に辿り着き、いつも通りに所長がドアノブに鍵を差し込み、そこで何かに気づいた。
「ん?鍵が開いているな」
異変を察知した所長が勢い良くドアを開く。
扉の向こうは、荒れ果てていた。
読んでくれてどうもありがと(・ω<)☆